「姫!」
臥龍は大きく叫んで奏姫の身体を両腕で包み込んだ。そして
「だまされた姫が悪いのではない。だました倭国王が悪いのじゃ」
低く抑えた声で姫の耳元で囁いた。姫は再度、我に返った。
「臥龍さま」

(イラスト・まもと鶴)
憎く思っているはずの男の胸に身を委ねている自分に驚きはしたが、何故かそれをはねつける力が出なかった。指一本動かすことも出来ずに息を潜めている以外手はなかった。彼の腕は限りなく力強く、その手に握られた不思議な光を放つ杯は奏姫の眼を釘づけにしていた。
やがて姫はとき放たれた。
「奏姫、天の四神をご存知か」だしぬけに明るい表情で臥龍はいった。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を言う。四諸神はそれぞれに七つの星宿を支配し、それらの領域が交わる点…銀漢*が流れ、斗宿、柳宿らをはじめとする二十八星宿の集う大天空の中心点…すなわち中天が天界至高の座じゃ」
臥龍の指が中天を指し示した。そこには、ひと際大きな星が青白い光を放っていた。古代より天子を意味する紫微星であった。 *銀漢(天の川)
「しかし、無意味よのう。いくら美しく輝いていても、ただそれだけのことじゃ」
「…」
「姫はまさにあの星じゃ。誰よりも気高く、美しゅう煌いておるが、ただそれだけのこと」
臥龍は杯に残っていた酒をぐいと呑み干した。そしてまだ抱擁の驚きが覚めきらない奏姫の眼前で、再び右手を振り上げた。
「中天より…」彼の人差し指は真直ぐに東の地平に振り下ろされた「地平へ!」
彼の動作と共に、中天の星が流れて落ちたかと思われるほどの迫力であった。奏姫は呆然としていた。彼の言わんとしていることを推し量りかねていたからである。
「中天の星はその身を一度地上に下ろしてこそ真の輝きを持つのじゃ。それでこそ!」臥龍はくるりと背を向け、今度は西の地平を指差し、大きな半円を描いて中天へ持ってきた。「地平より中天へ!その座を占める資格が出来よう」
「その身を…一度地上に下ろす」
奏姫はゆっくり繰り返した。
「そうじゃ。口にするのは簡単じゃが、実際には至難の業。天界と違い、地上には嵐もあれば日照りもある。草木一本無い沙の海あり、底なしの泥沼さえもある。姫にはそれらを乗り越えていくことができるかな?」
「臥龍さまには?」
姫はすかさず問い返した。これには臥龍もいささか驚き、改めて姫の瞳を覗き込んで頼もしそうに笑った。
「わしも今地上で戦うておる最中じゃ」
「地上で戦う…つまり生きよと?」
「いかにも、姫。地上に下りると決めてからの試練はこれまでのものとは比べ物にならぬぞ。姫は先ほど何もかも失くしたと嘆いていたが、何の!まだ姫にはそれ、美しい姿と若い身体、そして強い意志が残されておるではないか。どこかへ売られた身でもない」
「そのような目に遭うくらいなら、果てたほうがましです!」
臥龍は肩をゆさぶって笑った。
「天界の姫らしい!」
天界の姫?この男は、そんな夢物語のようなことを本気で言っているのだろうか。何ゆえ、私が天界の姫なのか。
奏姫はいらだちを覚えた。しかし、それでも彼女を大人しくさせていたのは、臥龍の眼だった。彼の瞳は、いつか桃の庭で初めて言葉を交わした時、いつまでも庭を眺めていたいと言った、あの時と同じ優しい色をしていたのだ。
臥龍はつづけた。
「しかし、さしあたり女ひとりで生きていくには身を売るしかあるまい。じゃが錦衣衛官はそれを許しはせぬぞ。まずは二百日は牢につながれよう」
「おやめください!聞きたくありませぬ」
奏姫は耳をふさいでうずくまった。
「じゃから…」臥龍の声が頭上から降ってきた。「そう急いでこの城を出ることはないと申すのじゃ。道はふたつしかない。地上に下りて負けて果てるか、再び中天に昇り得るか」
「…私は?」
「それは姫の生き方次第。好きなだけこの城に留まって考えられるがよい」
臥龍はがっしりと両肩を掴んで奏姫を立ち上がらせた。姫は混乱した。この錦衣衛官とも龍頭賊とも名乗る得体の知れぬ男は一体、敵なのか味方なのか。
「臥龍さま、何ゆえ私は天界の姫なのです」
「わしがそう思うからじゃ。むろん…」
「え?」
「…限られた人間だけではなく、この世の万人がそうであるのかもしれぬ。それはわからぬ。ただ、わしには姫が俗世の沙に埋もれる人物には見えぬ」
「言われていることがよくわかりませぬ」
「もっともじゃ。わしも天界から下りる覚悟が出来るには長くかかった」
臥龍は原野に視線を落とし、大きくため息をついた。そして急に顔をくもらせ、
「姫はまだ道を選ぶことが出来る。じゃが、後宮に入った玉綸はその自由もない」
「玉綸さま?臥龍さまは一体あの方を…」
姫が言いかけた時、桂靖が城壁を昇ってきて告げた。
「準備が整いましてございます」
いつのまにか城門のあたりに馬のいななきが響いている。奏姫は、ただならぬ気配を感じた。
「臥龍さま、どちらへ?」
「後宮へ参る。どうしても玉綸をこのままにしておくわけには…」
「なりませぬ!」
奏姫は、思わず叫んだ。
「玉綸さまを、皇太子さまから引き離すような真似は私が許しませぬ!」
「何?」
臥龍は足をとめて振り向いた。
「玉綸さまは皇太子さまと結ばれて、お幸せになられたのです」
「…彼女は永楽帝の息子を慕っていたのか?」
「…!」
奏姫は思わず口に手をあてた。
「そうであったのか…」
臥龍はうつろな眼でうなづき、桂靖に手を振ってみせた。
城門の人馬が散り再び静寂が戻るまでに、さほどの時はかからなかった。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・脚本・演出 ...真先裕
リライト・挿絵 ...まもと鶴
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〜二倍楽しむ中天〜 BY真先裕
>「姫!」
臥龍は大きく叫んで奏姫の身体を両腕で包み込んだ。そして
「だまされた姫が悪いのではない。だました倭国王が悪いのじゃ」
低く抑えた声で姫の耳元で囁いた。姫は再度、我に返った。
「臥龍さま」
憎く思っているはずの男の胸に身を委ねている自分に驚きはしたが、何故かそれをはねつける力が出なかった。指一本動かすことも出来ずに息を潜めている以外手はなかった。
この後、
「臥龍、…生きたい」
「姫さま!」
と付け加えて、キャスティングは、内野聖陽さんと柴本幸さんで妄想してみると、
二倍楽しめます!?
→後日解説・大河ドラマ「風林火山」の由布姫の「生きたい」のシーン。中天を編集していた時期と重なっておりまして…@編集部はかなりこの2人をダブらせて妄想しました。〜もうひとつの中天〜 BYまもと鶴

>そしてまだ抱擁の驚きが覚めきらない奏姫の眼前で、再び右手を振り上げた。
「中天より…」彼の人差し指は真直ぐに東の地平に振り下ろされた「地平へ!」
作者のYUBさんとも、「ここはうかつに描くと巨人の星になる危険があるよね」というお話をしていたのですが、真剣に描けば描くほど頭の中に「巨人の星」がうかんできてまともに作業できず...実際は抱擁と星空のみなりました。
...でも、こんな感じの絵のほうが良かったでしょうか?(笑)