奏姫は、自分が全くのひとりであることをあらためて感じた。
城の上空では、風の音が鈍く鳴り、それに混じって狼の遠吠えが聞こえた。ここは明の国なのだ。日本ではないのだ。姫の心にその思いがしみ渡った。明国人だと思っていた青年と、思いがけず日本の言葉を交わせたことで、よけいに故郷の地が恋しく感じられた。
眼を閉じても眠れよう筈がなかった。姫はゆっくりと身を起こすと、寝台の傍らに、桐箱に入れられた日本の小袖が置かれているのに気付いた。おそらくは盗品であろう。しかし萌黄色の綸子のそれに触れてみると、望郷の念がますますつのった。姫は純衣を脱ぎ捨てその小袖をはおると、ふらふらと庭に出た。

臥龍は城壁の東の一角にある櫓に登った。櫓では二人の男が詰めていたが、彼の姿を認めると慇懃に頭を下げた。
「しばらく下がってよい。馬の用意が出来次第知らせい」
臥龍の言葉に男たちは顔を見合わせたが、すぐに城壁にかかったはしごを降りていった。臥龍は腰を下ろし、懐から酒筒と杯を出し、酒をついだ。杯は月光に照らされてほのかな光を発した。夜光杯であった。
臥龍は一口含んで、大きなため息をつくと城の外へ眼をやった。酷暑を迎える前の、束の間のしのぎよい季節である。見渡す限り荒野であるが、かすかに草の香りが漂い風のうなりも冬のそれではないことを感じさせる。城壁はところどころ崩れ、土の臭いを吐いていたが、つくりは頑丈で、城壁自体相当な厚さを持っていた。しかし朽ち果てた屋根や蔦のからまる壁を見る限り、誰もこの古城が都を騒がせている龍頭賊の隠れ家とは思うまい。
風が臥龍の長い髪を乱した。
と、城壁の上に眼をやり、彼は思わず立ち上がった。見慣れぬ人影を見つけたのである。月光を受けて、輝く萌黄色の着物はまるでひとひらの花びらのように風にもてあそばれ、今にも城壁から飛ばされそうである。
臥龍は杯を持ったまま櫓を出て城壁の上を歩いていった。
近づいてみると、奏姫は壁から身を乗り出していた。今にも己が身を空中に放り出すかと思われた。
「姫!」
臥龍が声をかけると奏姫はゆっくりと振り返った。生気の無い表情だったが、臥龍を見た途端に、我に返ったようだ。
「私は何もかも失くしてしまった!」ふりしぼるような悲しい声が愛らしい口元から洩れた。「国も、名も、自由までも…。そればかりか、ここから飛び降りる勇気も、……ない」
「姫はこの明に来れたことが嬉しゅうてならぬと申されていたではないか。何をそのように嘆かれる」
「今の私には、かつて焦がれていたこの地が、この世のものとも思われぬほど寂寞としてよそよそしく感じられる。風の声さえ、私に果てよと叫び狂っておるようじゃ」奏姫は手すりの上につっ伏した。「こわい!あの優しい山河の祖国には、もう二度と戻れぬのか」
「姫!」
臥龍が肩に手をかけると、姫は、がばと顔を上げて彼を見つめ、「臥龍さま」初めてその名を口にした。「すべてそなたのせいです!」何ゆえ私を捕え、こんな所に閉じ込めるのです!ここさえ出られれば何としても国に帰れようものを!」
「…」

「それが叶わぬのなら、私を長江に突き落としてください。遺体は海に出て潮流に乗り、日本に流れ着くやもしれませぬ」
奏姫はそんなことを口走った。狂気じみたものが彼女を支配している。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・脚本・演出 ...真先裕
リライト・挿絵 ...まもと鶴
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