彼は一体何者なのか…奏姫にとって、そんなことはどうでもよかった。彼がどれだけ玉綸のことを案じようと全く関係ない。玉綸は皇太子のもとに嫁ぎ、幸福になったのだと信じて疑わなかったからだ。
それよりも、玉綸と入れ替わってまで応天府を脱出したのだ。この上は何としても寧波の港まで戻り着かねばならない。彼女は自分のおかれている状況を把握しようと、周りの様子をうかがった。

(イラスト・まもと鶴)
龍頭賊の隠れ家は応天府からさほど遠くない原野の古城である。奏姫は、そこに軟禁されていた。城の中は宮中と見まごうほどに、きらびやかな装飾がなされており、広大な中庭は花々に埋もれ、小さな山河となっている。奏姫に接するのは臥龍のほかには桂靖のみ。彼もまた賊のひとりには見えぬほどにきちんとした身なりをし、物腰も上品であった。奏姫は、時折、中庭の向こうから多勢の人や馬が動く気配を感じた。だが、彼女の部屋からはその様子を伺い知ることはできなかった。奏姫は、夜を待った。
夜の帳がおり、いまや月は中天にかかっていた。奏姫は蜀台の灯を吹き消すと、廊下へ出、庭におり立った。ほの暗い庭を忍び足で通り過ぎる間、誰ともすれ違うことはなかった。やがて城門にたどり着くと篝火が明々と焚かれていた。門番の男が数人と、脇には馬が三頭つながれている。
奏姫は柱の陰に身をひそめた。城は断崖のような堅固な壁に囲まれ、しかも見当たる城門はここ一箇所である。城門をいかにして開かせ、いかにして通り抜けるか…奏姫の胸は高鳴った。馬で一気に駆け抜けるしかない。しかし、いつ?
その時、数十の馬の足音が地響きとともに聞こえてきたかと思うと、口笛が鳴った。門番たちが重々しい閂をはずし、扉を開くと松明も持たぬ人馬の団体がどっと城内になだれ込んだ。篝火に照らされた先頭の男の横顔は臥龍であった。今宵も応天府でひと騒ぎ起こしてきたのであろう。
やがて、最後の馬が門をくぐろうとした。今しかない!姫は思った。つながれていた馬の一頭に走りよると、短刀で綱を切り、飛び乗った。そして今にもふさがれようとする城門めがけて突進した。「臥龍さま!娘が!」門番の声と同時に振り向いた臥龍は口元に笑みを浮かべた。

(イラスト・まもと鶴)
「愉快な姫じゃ!」
奏姫を乗せた馬は既に城門を出て走りはじめている。臥龍はおもむろに馬を降りると、指をくわえ、口笛を吹いた。ヒューッという音が闇を貫いた。途端に奏姫が乗った馬は、後ろ足立ちに立ち止まったかと思うと、くるりと向きを変え、城へ向かって進み始めた。
「あ、これ!言うことを聞きやれ」
振り落とされそうになりながら、奏姫は必死に手綱をさばこうとしたが、馬は、さっさと城に戻っていく。城門では臥龍が仁王立ちになって待っていた。
「どちらへ行かれる?」
「知れたこと、寧波へ戻ります」
奏姫の背後で門は閉じられた。
「船は今朝出港したぞ」
「そ…そんな筈はない!出航はひと月後の筈」
「そう思われていたのは姫、そなただけのようじゃな」
「偽りを申すな!」奏姫は目を吊り上げて叫んだ「私を放しなさい。寧波へ行き、この眼で確かめる」
「もし船があればどうなさる」
「日本へ帰ります。そして私を売ろうとなされたお爺様に会わねば」
「はたして水夫が船に乗せるかな?」
「何?」
「船に乗って帰り着けたところで、<奏姫>は既に明の王宮に輿入れしておる。そなたが身を置く場所はない。というて、本物の奏姫ということがわかれば倭国は明国に背いたことになり、そなたも罰せられよう」
「…」
「しかも、肝心の義満殿はもうおられぬ」
「えっ?」
奏姫はわが耳を疑った。臥龍は冷静な声で
「義満殿は身罷られた。五月の初めだったそうじゃ」
奏姫は急に視界が暗くなるのを感じた。臥龍の声が何重にも響きながら、次第に遠のいていった。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・脚本・演出 ...真先裕
リライト・挿絵 ...まもと鶴
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〜もうひとつの中天〜 BYまもと鶴
「姫のお相手」

いや、何となく。