二 黄砂の章
滔々と流れる大河の水面を、天城は見つめ続けている。
水の色はその名の通り黄色く濁り、噂に聞いていた巨大な河幅は想像を遥かに上回る。
大陸に来るのは初めてではなかったが、こんなに奥深くまで足を伸ばすのは初めてである。汽船とは名ばかりのおんぼろ船をやっと見つけて乗り込んだまではいいが、案内なしに果たして西安まで行き着けるのか不安である。しかし、今はこのくたびれた船に身を任せて、ひたすら河を遡るしか方法は無い。
彼はワイシャツの襟をくつろげ、変わり映えのしない水面から視線を離して岸へ向けた。
河面すれすえに見える岸が、かろうじてこれが海ではなく河なのだと教えてくれる。頻繁に河面を行き来する筏(いかだ)や小舟は長閑(のどか)を絵に描いたように、彼の視線を滑っていく。ここは何千年もの昔から時が止まった国なのだ。
上海で落ち合うはずの出羽教授一行は現れず、迎えの白水にも会えなかった。
途方にくれた天城の元へ伝言が届く。
出羽教授から、直接西安まで来るようにとの内容だった。西域奥地の探検行で何やら大収穫があったらしいことを嗅ぎつけて、取材を申し込んだ天城だったが、上海にまで長々と船に揺られて東シナ海を渡ってきてやっと上陸したばかりだというのに、また幾千里も旅をしなければなたないのかと思うと、正直うんざりした。仕方なく陸路開封まで行き、そこから再び大河を西へ遡(さかのぼ)ることにする。
いったい、何があったというのだろう。出羽教授の一行はとっくに昔の上海入りして日本に帰朝準備をしていてよい時期だったというのに、いまだに探検の出発地点、西安に滞在しているという。
東京や上海の喧騒が恋しかった。彼は根っからの都会人なのだ。雑踏、人力の音、物売りの声、鉄道の響き、白粉の香、三味線の音。
唐突に円雅の眼を思い出した。あの、いつも思いつめた苦しげな眼。
(姉さんを陵辱して)
面食らった。内容よりも、姉妹が同じことを言い出したことに。
(姉さんの真珠の肌を欲しいのでしょ)
ああ、と頷いてはみせたが、そんなつもりは毛頭無い天城だ。今さらその必要もない。
とっくにその味を、自分は知っている。深く、味わい尽くしている。露とも知らぬ、妹の依頼であった。妹は、姉がかつてそれとそっくり同じ依頼を自分にしたことをまったく知らない。
(妹を玩(もてあそ)んでちょうだい)
今となっては果たして玩んでいると言えるかどうか。円雅は自らこの胸に落ちてきた以来、空虚な心を埋めあう者同志として、あの娘との関係は続いてきた。
あの姉妹の底知れぬ冥(くら)く深い確執の中心に巻き込まれてしまった自分を、天城は感じて背筋の寒くなる思いがした。性質(たち)が悪いのは、あの姉妹が天城に惚れているのではなく、彼を自分のための道具としてしか見ていないことだ。ぞっこん惚れられて芸妓に追っかけ廻される方が、まだましだ。この度の支邦行きは渡りに舟だった。
(潮時かもしれんな)
今度東京に帰っても、円雅とは二度と逢うまい。下宿も引っ越そう。
そう心に決めようとしているのに、妙に未練がましいものを彼は感じてもいる。過去、どんな女――――波流子にさえ感じなかった痼(しこり)を円雅という娘を彼の内部に植え付けてしまったようだ。何千里と隔たった異国の地にいてさえ、その痼の熱い疼きがどくどくと脈打って彼に迫る。
こんな時は仕事に集中するに限る。天城は目指す西安に思いを馳せようと、胸ポケットから煙草を取り出してくわえた。ちょうどその時、相棒の冬木がデッキをこちらへ歩いてくるのが見えた。
出羽教授探検隊の収穫はいかなるものだったのだろう。
今にも朽ち果てそうな煉瓦作りの洋館である。
大方、明治初期の建築だろう。鬱蒼と繁った庭木と、しとしとと降る春の雨がいっそう陰湿な雰囲気を醸し出している。
門にかろうじて判読できる表札には「白水」とだけ記されている。
白水永渡(しらみず ながと)。
円雅はその名を胸の内で呟いてみた。彼女の計画をぶち壊し、横取りした男である。生じた結果は同じでも、自分の胸算用を番狂わせさせられた、それも、こともあろうにあんな軟弱そうな男に深く誇りを傷つけられている。自分が姉の波流子に劣らず気位の高い女であることを、被害者意識ばかりに囚われている円雅は気づいていない。
それにしても、こんな屋敷に人が住んでいるのだろうか。
雨雲が垂れ込めていて、まるで夕方のようだというのに明かりのひとつも点いていない。留守なのだろうか。白水はひとり暮らしだと聞いている。
鉄の門は難なく開いた。早春だというのに去年の秋からの落ち葉がうず高く庭に積もり、長い間、手入れされていないことはすぐに判る。これも煉瓦造りの階段を上がったところに巨大な木製の扉があり、円雅はできるだけ静かに蛇の目をたたむと、そっと扉を叩いてみた。待つ間に足元を見やると、草履も足袋も雨でぐっしょり濡れて冷えきっている。
応えは無い。仕方なしにもう一度蛇の目を開き、中庭らしき木戸があるところへ廻ってみたが、伸び放題の庭木が袂や帯にまとわりつき、思うように進めない。おまけに泥濘(ぬかるみ)に足をとられる。傘を放り出して茂みを掻き分けていこうかしら、と思った時である。
背後から突然、男の声がした。
「何かご用ですか」
にわかに激しくなった雨足の向こうに男が立っていた。藍の紬に兵児帯、蛇の目をさして空いた方の手には虎猫を抱いている。そして、白い雨の矢をくぐり抜けて、射こんでくる視線は銀色であった。
白水だ。先日の宵、自宅の門前でぶつかってきたあの眼だ。
「あ、あの…」
不意をつかれて円雅は舌をもつれさせた。
「やあ、ひどく降ってきた。ともかく中へ、どうぞ。ちょっと煙草を切らせたもので空けていたのです」
彼の背中についていったが玄関でどうしても上がろうとせぬ円雅に、白水はこの上なく紳士的にお茶を白水はこの上なく紳士的にお茶を進めた。
「震えていらっしゃるじゃありませんか。さ、どうぞ。ちょうど支邦から買ってきた美味しいお茶がある」
この温和な顔からは、到底、先日人の家に押し入って女を陵辱したとは想像もつかない。
出鼻をくじかれた円雅はともかくも客間に上がった。しかし、何度勧められても椅子にだけは腰掛けない。いざという時、逃げ出すために扉の近くに立ったままにしている。