シザリオンの率いる軍勢はバクトラを発し、忍びやかに都、カンダハールを目指した。それはさながら獅子が獲物に近づく時、草むらに身を伏せながら進む姿であった。
シザリオンからマフムード王討伐の指令が下った際、彼の旧臣や各部族の族長たちは動揺の色を隠せなかった。
今まで王(ハーン)と仰いできた者を討てというのである。しかし彼らにとってマフムード王は所詮、名ばかりの王であった。疎遠にして恐怖の的であるマフムードよりも、彼らはシザリオンの方を選んだ。いや、それ以前にシザリオン自身が臣下や族長たちに否、とは言わせなかった。
彼はここ数年自らの手で征したバクトリア地方全域の民から今、初めて王(ハーン)と称された。
騎馬兵は彼を中心に取り巻き、彼の投げる視線の前後左右、果てしなくその姿に埋め尽くされた。
昼間は馬で歩きつめ、陽が落ちる間のみ、張幕を張って留まった。夥しいユルトと篝火が夜の砂漠に満ちたが、その中をくぐり抜けてさえ、シザリオンの所在をつきとめ、マフムード王からの暗殺者が執拗に襲ってきた。しかし彼らはシザリオンの寝所(しとね)へ辿り着く寸前に精鋭の手によって処された。シザリオンは彼らに容赦しなかった。
多くの報がシザリオンの元にもたらされた。
マフムード王は今、自らサファヴィー朝との闘いを指揮するため、カンダハールの都を離れ、西方へ遠征しているとのことだった。シザリオンは旧友ダヒムがその点に関し偽ってはいないことを知った。あのバンディ・アミールの湖畔で別れた夜以来、彼は姿を見せてはいなかった。
マフムード王の軍はサファヴィー朝に苦戦を強いられているらしかった。未だ軍勢をこちらに向ける余裕がないのがその証だと武将たちは言った。
しかしシザリオンはそうは思わなかった。マフムード王の考えはおそらく――――。
あの青二才如き討つに軍は要らぬ。王(ハーン)気取りのシザリオンひとり仕留めれば後は烏合の衆……。
「爺!!」
シザリオンは目も眩むほどの兄への憎悪に押し潰されそうになると身近の者を呼びつけた。
「お呼びでございますか」
長老、アブドゥラ・ハッサンはシザリオンが挙兵してからというもの、十年も若返ったように見えた。はた目にも解かるほど今度の闘いを喜んでいるのである。
「西の戦況は」
「変わりございませぬ」
「マフムード王があくまで私を相手にせぬつもりなら仕方あるまい。背後より襲撃する」
シザリオンは静かに言った。
その時、ひとりの兵が張幕に入ってきて長老に何やら耳打ちした。
「シザリオンさま」長老は素早く居ざってくると密やかな声で彼に告げた。「エクセルシアさまの居所が判りましてございます」
「そうか」
シザリオンの陰鬱だった表情が和らいだ。兄への戦意が高まるにつれエクセルシアを取り戻したいと思った彼は彼女の幽閉所を配下の者に探らせていたのだった。
「ゲレシュクの城でございます」
ゲレシュクの街はシザリオンの幕営地から数里の行程であった。
「幼い王子も共か」
「おそらくは」
「輿を迎えに出すように。王子もである」
エクセルシアの産んだ幼い王子は自分と同じ獅子座の生まれであるという。そしてそのために母共々、マフムードの命で囚われの身になったという。いったい、マフムード王には憐憫の情というものがないのか。
西の戦線は目の前であった。
翌朝、シザリオンは全軍へ攻撃命令を下そうとした。彼の張幕の前には馬のいななきや、蹄の音や、兵のざわめきが満ち満ちた。
――――と、張幕を出ようとするシザリオンの目に、異様な騒ぎが映った。馬に乗った黒い(※)チャドリの女が兵馬を掻き分け、こちらに向かっているのである。たちまちのうちに馬は兵たちの遮りにあった。
「ここを通されよ!どうかシザリオンさまにお目通りを!」
美しい声に聞き覚えがあった。
「待て」シザリオンは叫んだ。「その者を幕舎へ」
黒いチャドリの女は張幕に入るとゆっくり顔の布を取り去った。
エクセルシアであった。
何年ぶりの再会になろう。彼女はすっかり少女の面影を脱ぎ捨て、大人の女としての美しさを溢れさせていた。
ただ瞳だけがあどけなさを残し、シザリオンの心に懐かしさが湧き出した。
「エクセルシア―――」
甲冑を着けた厚い胸にかき抱こうとしたシザリオンだったが、ふと彼女の視線の鋭さに気づいた。彼女は額に汗し、頬を赤くしていた。
「輿を迎えにやったはずだが」
シザリオンは気まずく切り出した。
「あなたの差し向けられた輿に乗ればあなたの妻に戻ることになろう」
エクセルシアは声を低めて答えた。得体の知れぬ迫力を含んでいる。
「私の妻に戻るのは嫌と申すのか」
「嫌である。私は敗軍の将の妻にはなりたくない」
「私がマフムード王に敗れるというのか?」
「マフムード王をお見くびりになるな。あなたなど王の敵ではない」
「――――!!」
ふたりは真っ向から睨みあった。シザリオンはエクセルシアからこのような言葉を聞こうとは夢にも思わなかったのである。彼女はシザリオンの胸に剣の切っ先を突き立てるように詰問した。
「何ゆえ、あれほど敬われていたマフムードさまをお討ちになる!?」
「何ゆえと!?乱心同様の所業をなされているマフムード王を討たずにおれようか」
「!?」
「王は都に住む獅子座生まれの者をことごとく捕らえ、この私にも暗殺者を向けられた!それも逆心の輩としての罪を着せて、だ」
シザリオンの言葉にエクセルシアは意外そうな顔をした。
「エクセルシア!!お前も獅子座の時期に王子を産んだことで王子共々ゲレシュクに囚われていたのであろう。それをこの後に及んで何故マフムード王をかばうのだ」
エクセルシアの碧い瞳は呆然とシザリオンを見つめた。
「シザリオン…。あなたは何か思い違いをされている」
「なに?」
「私は…私は王子など産んではいない!」
「え…」
シザリオンは思わず驚きの声を洩らした。エクセルシアは両手をもみしぼるようにして続けた。
「それどころかマフムードさまは私を一度も妃として扱われてはいない。あなたが辺境に旅立たれた後もあくまであなたの妃として、マフムードさまのご配慮により何不自由ない生活をさせていただいていた」
「しかしお前はゲレシュクの城に―――」
「それはサファヴィー朝の軍が都邑に攻め入ってくることを憂慮して王族の女、子どもを匿(かくま)われていたためである。囚われの身などと、とんでもない。それに、マフムードさまは民に無謀な仕打ちはされぬ。獅子座生まれの者をことごとく捕らえた、などという事実はない」
「それは真実(まこと)か」
「アッラーの神に誓って」
エクセルシアの瞳は嘘を言っていなかった。……とすればシザリオンがダヒムから聞いた事はすべて偽りになる。だが暗殺者は?シザリオンを消そうとする魔手は現実のものであった。では、今までのことはマフムード王の企(くわだ)てなのか。―――いったい何のための。
エクセルシアが再び口を開いた。
「あなたに道を誤っていただきたくない一心で馬を飛ばしてきた。どうか…どうか兵を退かれよ!」
「退けぬ」シザリオンは彼女を見据えた。「どのような偽りや画策が交錯しようとマフムード王が私を討ちたいと思っていることは事実。討たねば討たれる。このまま進撃する」
張幕を出ようとするシザリオンのその足に、エクセルシアはしがみついた。
「離せ」
「なんという身勝手さ!あなたは昔と少しも変わっておられない」エクセルシアは涙の溢れた眼で彼を見上げた。「己れの力量を認められたいという絶えざる願望が叶わぬためにマフムードをお怨みされているだけではないか。いいえ……!その思いの奥にマフムードさまを愛しておられる」
シザリオンの身体がピクリとした。
「あなたはマフムードさまを愛しすぎておられる」
「エクセルシア」
シザリオンはその場にひざまずき、エクセルシアの両手を握りしめた。
「お前の言う通りだ。辺境へ旅立ったのも、この数年を闘いと統治に費やしてきたのも、そして…今、これほどに戦意を燃やし突き進んできたのもすべて、兄上を愛しているからなのだ。愛するがゆえにその裏切りを許せなかった。憎悪はますます深まった!それでも尚……私は兄上を愛してやまぬ」
「シザリオン」
エクセルシアは涙を流しながら、何度も頷いた。
シザリオンは呻き、
「ああ…!わからぬ、エクセルシア!兄上は何故、私に兵を挙げるよう仕向けたのだ!」
「それは…」ふたりの背後から長老アブドゥラ・ハッサンのしわがれた声が這い登った。「それはマフムード王があなたさまに王位を継がせるご所存だからでございます」
(※)チャドリ…この地方独特の女性の民族衣装
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