. 「漆黒のレオパール」第3回
「レオパールは代々の伝承の語り部の正統な血を受け継ぐ者。あたいたちの真の指導者」
ヴェロニカの賞賛はとどまるところを知らない。
数台の幌馬車が焚き火を囲んで円く停車され、中央にレオパールが悠然と長い手足を伸ばして座し、黒豹の喉元を撫でている。それを見つめる漂泊民の目はどれもヴェロニカ同様、陶然とし、盲目的な崇拝を窺わせる。
辺りはすでに濃い紫の闇が包み、今宵は雪も息をひそめたようにしんと静まり返っている。
ロドルフォはヴェロニカに首根っこを押さえつけられるように群れの中に座らされ、レオパールの語りが始まるのを待たされていた。
新雪が針葉樹の枝からどさりと滑り落ちる音をきっかけに、長く伏せられていたレオパールの濃いまつ毛が開かれた。黒豹が気配を察したか同時に黄色い眼を開き、鋭い唸りを洩らす。ロドルフォは生きた心地がしなかった。ここで逃げ出せば、あの黒い獣はひと跳びで駆けつけ、俺の喉笛をかみちぎるに違いない。
レオパールが激しく立ち上がった。クマの毛皮をまとっているにしても、その体躯はすばらしく大きく逞しい。
「民よ。流浪し自由なる孤高の民よ」
なんと朗々とした声音であろう。話している時の彼の声とはまるで別人のようだ。深く、なめし皮のように心地よく、安らかで、崇高な、魂の奥底から生命の力を引き出すような声である。
「我らの源が果たしていずこか、それはいかなる古老も、いかなる占い師も知るところではない。また何ゆえ故郷を捨てて、千年も数百年もの間、流浪を続けなければならぬような業を、運命が我らにだけ与えたのか―――――――その答えをこそ見出すために我々は旅を続けているのやもしれぬ。いや、旅を続けなければならぬ、のではなく旅ができる特権こそ神が我らに与えたもうた恵みなのやもしれぬ。非ジプシーである定住民は自由に羽ばたきたくとも土地に執着し、その地で一生を終えるしか神から許されてはいないのやもしれぬ。故に領地争い、国境をめぐり醜い争いに絶えず苦しめられ、人間にとって真に
大切なものを探し求める使命に気づきもせず、またその勇気も持たず神から許されていない。そうして惨めな一生を送るのだ。我らは違う。我らジプシーこそは人間の真に大切なものを探すことのできる貴重な民族。誇りを持つがいい、漂泊の民よ。国が無いことを恥じる必要は微塵も無い。たとえ物乞いと蔑まれようと、盗人と後ろ指さされようと」
その後、数百年に渡りジプシーの間で語り継がれてきた伝説が、いくつもいくつも彼の流暢な語りで披露された。一団の民たちは、もう数え切れないくらい聞かされたであろうに、老いも若きも恍惚とそれに聞き入った。
冬の大森林にひときわ赤く燃え上がる焚き火が、周りとはまったく異なる宇宙を現出させている。
時折、唐突にレオパールの右手が持ち上がり、民の中で居眠りを始めた者が指される。
「聞いているか」
指された者は間髪を入れず応えなければ後々まで笑い者にされるので、夢中で応える。
「おう!」
そうして子どもたちはくっつきかけた瞼を開かれ背筋を伸ばし、また彼の語りに耳を傾け続けるのだった。
ロドルフォもまた、知らず知らず彼の熱い語りの虜となり、聴衆のひとりになりきっていた。それは都会育ちの彼が初めて出会う、漂泊の民だけの神秘的な夜であった。
*********************************************************************************
夜半、ようやくレオパールの話は果て、次に早いテンポのギターとマンドリン、大地を踏み鳴らす踊りが始まった。これが追悼の夜かといぶかしまざるをえないほど賑々しい。男たちは酒を酌み交わし、女たちは喉を震わせ歌い、踊りの狂乱に突入する。それはしんしんと冷え込んできた森の空気を寄せつけもしない迫力である。
強い火酒を振舞われたロドルフォは、レオパールの語りの最中こそは魂を奪われていたものの、酒が入ると本来の奔放さを甦らせ、そうすると語り部の語った内容がふつふつと彼の勘にさわりだした。
「確かに人を惹きつける男だよ、あの黒豹の主は。しかし、定住民のひとりとして、あの説教は聞き捨てならねえな。おたくらジプシーはいったい、誰のおかげで行商なり占いなりをして生業をたてられるんですかってんだ」
ろれつの回らない口でしきりと反論しようとするが、レオパールに面と向かって言う勇気はないので酒瓶を振り上げてヴェロニカに突っかかるばかりである。
「はいはい、素直じゃないね、兵隊さん。レオパールにまいっちまったんならまいっちまったって言やあいいのに」
「何だって、小鹿ちゃん。あんまり生意気言ってると喰っちまうぞ」
ふざけたロドルフォが顔を近づけると少女は小さな山猫のように牙をむき、
「指一本でも触れてみな、その傷口に咬みついてやるから」
「じょ・・・冗談だよ、怖いな」
ヴェロニカは男を追い払うと、もう深い崇拝の対象に再び視線を戻して陶然と眺める。
レオパールは語りを終えると酒もさほど飲まず、ましてや踊りの輪に入ることもせず、朱色の焔を見やりながら夥しい指輪をつけた手で黒豹の背中を飽きることなく往復させている。その仕草を見やるヴェロニカの、一点のくもりなく彼を見つめる眼が、徐々に怪訝な色を乗せ始めた。むろん、泥酔しているロドルフォは感づくはずもない。
ふたりに、老婆が近づいてきた。オリーブ色の、皺深いおもてと抜け目の無さそうな光鋭い瞳はまだまだ衰えてはいないことを証明している。頑固そうな四角い額の両側からは白髪混じりの長い褐色の髪がもう何年も編みっぱなしの乱れようでみつ編みに垂らされ、わし鼻の下の大きな口元にはパイプがはさみこまれていた。
「ムウシャお婆」
振り向きもせずヴェロニカは老婆に訴えた。
「レオパールが、あたいの知ってる彼じゃない」
その声は震えていた。うわ言のようにさらに、
「そういえば、セレンシアーガは?彼女はどこにいるの?それにゼヨンの姿も見えない。どうしたっていうの、あのふたりがレオパールの側にいないなんて」
「気づいたのかい、ヴェロニカ」老婆がパイプを唇の端へ押しやり、くぐもった声を発した。「そうさ、レオパールはお前の知ってる一年前の彼とは違う。セレンシアーガかね、あの女なら、ほら―――――――彼の足元に」
ひょいと老婆がパイプを抜き取って指し示したのは、紛れもない黒豹であった。
第 三 章 麗人の裏切り
「教えて、ムウシャお婆。あたいが群れを離れている間に、いったいレオパールたちに何があったのさ」
もの凄い剣幕でせまる少女に、さすがに一族の年輪を着た老婆もたじろいだ。それはヴェロニカにもたれかかってうたた寝を始めていたロドルフォがびくりとして飛び起きるほどの迫力であった。
「まあま、落ち着きな。今、話してやるからさ」
老婆は少女を幌馬車の陰へ誘うと、傍らでついにのびてしまったロドルフォにはかまわず話し始めた。
************************************************************************************
レオパールは一族の語り部の正統な血を持つ者として、生まれながらに民から敬われ、その天性の容貌と声音を使った巧みな語りと度量で民を魅了してきた。いったいいつから生きてこの一族に従っているのか判然としない、彼らの守護獣とも瑞獣ともいうべき黒豹が、彼を主人と認めていることのみを考えてみても彼が神から許された指導者であることは疑う余地がなかった。
そんな彼に逆らう者などあろうはずもなく時は一族の上を静かに流れていった。非ジプシーの引き起こす絶え間ない戦乱の嵐が彼らを苦しめはしたものの、彼らはしょせん、オスマン・トルコの弾圧からも、ロシア皇帝の食指からも、オーストリア皇帝の支配欲からもまぬがれ、自由であり、戦いのために血を流そうとする者はなく、またその必要もなかった。
彼らはあいも変わらず数百年に渡り続いてきた漂泊生活に身を任せ、バルカンの深い森を主のように徘徊して生活していたのだった。実際、幾度となく支配者が交代し、覇権があちこちを移動しても、農民たちが土地を捨てて逃げ出しても変わらぬ主はジプシーだった。
レオパールは焦ることなく自らの民を率い、祖先から受け継がれた伝承を語る生活に満足していた。
長老の孫娘、セレンシアーガは一団の中で飛びぬけた美女で、長老もこの孫娘を若き指導者に献上する腹づもりで大切に育て、ジプシーとしての厳しい慣習を教え込み、年頃になると迷うことなく彼に差し出した。
彼女は漂泊の生活にありながら美しいばかりでなく怜悧で温和で、一団の誰からも好かれた。オニキスの瞳と見事に豊かな黒い巻き毛、象牙の肌に頬はいつもバラ色に輝き、レオパールも彼女をたいそう愛した。ふたりは一対の黒い薔薇とまで讃えられ、ジプシーたちの象徴とさえなりつつあった。古参の黒豹が、常に彼らを見守りかしずいているさまは、正にジプシーの伝説の一節そのものであった。
そんな一団に、ある日流れ者がやってきた。
ゼヨンと名乗るその男は精悍な風貌を持ち、豪放、磊落でレオパールには無い魅力を備えており、たちまち一団の若者の心を捉えてしまった。一団を二分するほどの彼の人望だったが、それでも、一団に争いが起きなかったのは、彼がレオパールに敵対することなくその信頼を得て片腕の地位を手に入れたからに他ならない。ゼヨンは確かに頭のきれる男だった。
戦乱の危機を彼の機転で危うく切り抜けられたことも一度や二度ではないと誰もが認めた。それでいて彼は一団に恩を売ることなく、それ以上の権力を欲することもなくレオパールの次席にあまんじていた。
そして数年の月日が流れた。
レオパールの一団はゼヨンという優れた補佐を得てますます結束固く、他の一団が戦乱でちりぢりになったりするのも珍しくはない世情の中で手堅く馬商や軽業の巡業、占いをしては路銀を稼ぎ各地を旅していった。
ところがセルビア人の、トルコに対する蜂起が行われてからにわかに農民が土地を捨てて逃げ出し、町は焼き払われ、ジプシーの商売もたちゆかなくなった。巡業はおろか、農作物の収穫作業の働き口さえ無い有様である。
少女ヴェロニカが戦火によって祖父と共に一団とはぐれたのもちょうどこの頃である。
ゼヨンはついに主、レオパールに進言した。
「この地を出て、もっと豊かな、平穏な地へ行ってはどうでしょう」
ゼヨンの活力あふれる褐色の両眼には勝算があった。しかし、レオパールは首を横に振った。一団の命を担う彼は、ゼヨンが思うよりはるかに保守的であったのだ。
ゼヨンの態度は豹変した。レオパールを腰抜けと呼び、自分はひとりでも思った通りにする、ついてきたい奴はついてこい、臆病者はレオパールという古臭い語り部と運命を共にし、飢えてのたれ死ね、と。
一団はかつてない動揺を見せた。血気盛んな若者たちは彼についてゆかねば恥とさえ思い、おおよそ半数が彼に同行すると言い出した。それでもレオパールはその者たちを引き止めはせず、静観した。去るものは追わず。それが彼の信条であるかのようだった。
かくて、レオパールの一団は分裂した。
その当日、ゼヨンたちの後姿を見送っても彼の態度は森の泉のように穏やかだった。しかし―――――――その直後。
彼を、かつてない衝撃が襲った。ゼヨンに付き従って去っていく者たちの中に、最愛のセレンシアーガの姿を見てしまったのである。
レオパールの総身を稲妻が貫いた。
稲妻は蒼白い光の帯となって彼の双眸に宿り、たちまち彼のおもてが穏やかな語り部のそれから鬼神のそれに変貌させた。
その様子を見ていた古老たちは、恐ろしさに震え上がったほどである。
間髪をいれず、彼の口から足元の黒豹に厳命が発せられた。
セレンシアーガを連れ戻せ―――――――――と。
老獣はその体躯にまだそんな力が残っていたのかとジプシーたちに目を見張らせるほどの俊敏さで疾駆してゆくと、ほどなくか弱い女の身体を引きずって主の元へと戻ってきた。語り部は二度と彼女がゼヨンの元へ走らぬよう、またゼヨンに奪回されぬよう、その魂を黒豹の内部に封じ込めてしまった。愛人を連れ戻しにやってきたゼヨンには抜け殻となったセレンシアーガの身体だけを返し、恋敵が土下座をして懇願しようと決して応じなかった。ゼヨンは呪いのせりふを吐いて去った。
イラスト・キャラデザイン まもとつる様
ヴェロニカの賞賛はとどまるところを知らない。
数台の幌馬車が焚き火を囲んで円く停車され、中央にレオパールが悠然と長い手足を伸ばして座し、黒豹の喉元を撫でている。それを見つめる漂泊民の目はどれもヴェロニカ同様、陶然とし、盲目的な崇拝を窺わせる。
辺りはすでに濃い紫の闇が包み、今宵は雪も息をひそめたようにしんと静まり返っている。
ロドルフォはヴェロニカに首根っこを押さえつけられるように群れの中に座らされ、レオパールの語りが始まるのを待たされていた。
新雪が針葉樹の枝からどさりと滑り落ちる音をきっかけに、長く伏せられていたレオパールの濃いまつ毛が開かれた。黒豹が気配を察したか同時に黄色い眼を開き、鋭い唸りを洩らす。ロドルフォは生きた心地がしなかった。ここで逃げ出せば、あの黒い獣はひと跳びで駆けつけ、俺の喉笛をかみちぎるに違いない。
レオパールが激しく立ち上がった。クマの毛皮をまとっているにしても、その体躯はすばらしく大きく逞しい。
「民よ。流浪し自由なる孤高の民よ」
なんと朗々とした声音であろう。話している時の彼の声とはまるで別人のようだ。深く、なめし皮のように心地よく、安らかで、崇高な、魂の奥底から生命の力を引き出すような声である。
「我らの源が果たしていずこか、それはいかなる古老も、いかなる占い師も知るところではない。また何ゆえ故郷を捨てて、千年も数百年もの間、流浪を続けなければならぬような業を、運命が我らにだけ与えたのか―――――――その答えをこそ見出すために我々は旅を続けているのやもしれぬ。いや、旅を続けなければならぬ、のではなく旅ができる特権こそ神が我らに与えたもうた恵みなのやもしれぬ。非ジプシーである定住民は自由に羽ばたきたくとも土地に執着し、その地で一生を終えるしか神から許されてはいないのやもしれぬ。故に領地争い、国境をめぐり醜い争いに絶えず苦しめられ、人間にとって真に
大切なものを探し求める使命に気づきもせず、またその勇気も持たず神から許されていない。そうして惨めな一生を送るのだ。我らは違う。我らジプシーこそは人間の真に大切なものを探すことのできる貴重な民族。誇りを持つがいい、漂泊の民よ。国が無いことを恥じる必要は微塵も無い。たとえ物乞いと蔑まれようと、盗人と後ろ指さされようと」
その後、数百年に渡りジプシーの間で語り継がれてきた伝説が、いくつもいくつも彼の流暢な語りで披露された。一団の民たちは、もう数え切れないくらい聞かされたであろうに、老いも若きも恍惚とそれに聞き入った。
冬の大森林にひときわ赤く燃え上がる焚き火が、周りとはまったく異なる宇宙を現出させている。
時折、唐突にレオパールの右手が持ち上がり、民の中で居眠りを始めた者が指される。
「聞いているか」
指された者は間髪を入れず応えなければ後々まで笑い者にされるので、夢中で応える。
「おう!」
そうして子どもたちはくっつきかけた瞼を開かれ背筋を伸ばし、また彼の語りに耳を傾け続けるのだった。
ロドルフォもまた、知らず知らず彼の熱い語りの虜となり、聴衆のひとりになりきっていた。それは都会育ちの彼が初めて出会う、漂泊の民だけの神秘的な夜であった。
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夜半、ようやくレオパールの話は果て、次に早いテンポのギターとマンドリン、大地を踏み鳴らす踊りが始まった。これが追悼の夜かといぶかしまざるをえないほど賑々しい。男たちは酒を酌み交わし、女たちは喉を震わせ歌い、踊りの狂乱に突入する。それはしんしんと冷え込んできた森の空気を寄せつけもしない迫力である。
強い火酒を振舞われたロドルフォは、レオパールの語りの最中こそは魂を奪われていたものの、酒が入ると本来の奔放さを甦らせ、そうすると語り部の語った内容がふつふつと彼の勘にさわりだした。
「確かに人を惹きつける男だよ、あの黒豹の主は。しかし、定住民のひとりとして、あの説教は聞き捨てならねえな。おたくらジプシーはいったい、誰のおかげで行商なり占いなりをして生業をたてられるんですかってんだ」
ろれつの回らない口でしきりと反論しようとするが、レオパールに面と向かって言う勇気はないので酒瓶を振り上げてヴェロニカに突っかかるばかりである。
「はいはい、素直じゃないね、兵隊さん。レオパールにまいっちまったんならまいっちまったって言やあいいのに」
「何だって、小鹿ちゃん。あんまり生意気言ってると喰っちまうぞ」
ふざけたロドルフォが顔を近づけると少女は小さな山猫のように牙をむき、
「指一本でも触れてみな、その傷口に咬みついてやるから」
「じょ・・・冗談だよ、怖いな」
ヴェロニカは男を追い払うと、もう深い崇拝の対象に再び視線を戻して陶然と眺める。
レオパールは語りを終えると酒もさほど飲まず、ましてや踊りの輪に入ることもせず、朱色の焔を見やりながら夥しい指輪をつけた手で黒豹の背中を飽きることなく往復させている。その仕草を見やるヴェロニカの、一点のくもりなく彼を見つめる眼が、徐々に怪訝な色を乗せ始めた。むろん、泥酔しているロドルフォは感づくはずもない。
ふたりに、老婆が近づいてきた。オリーブ色の、皺深いおもてと抜け目の無さそうな光鋭い瞳はまだまだ衰えてはいないことを証明している。頑固そうな四角い額の両側からは白髪混じりの長い褐色の髪がもう何年も編みっぱなしの乱れようでみつ編みに垂らされ、わし鼻の下の大きな口元にはパイプがはさみこまれていた。
「ムウシャお婆」
振り向きもせずヴェロニカは老婆に訴えた。
「レオパールが、あたいの知ってる彼じゃない」
その声は震えていた。うわ言のようにさらに、
「そういえば、セレンシアーガは?彼女はどこにいるの?それにゼヨンの姿も見えない。どうしたっていうの、あのふたりがレオパールの側にいないなんて」
「気づいたのかい、ヴェロニカ」老婆がパイプを唇の端へ押しやり、くぐもった声を発した。「そうさ、レオパールはお前の知ってる一年前の彼とは違う。セレンシアーガかね、あの女なら、ほら―――――――彼の足元に」
ひょいと老婆がパイプを抜き取って指し示したのは、紛れもない黒豹であった。
第 三 章 麗人の裏切り
「教えて、ムウシャお婆。あたいが群れを離れている間に、いったいレオパールたちに何があったのさ」
もの凄い剣幕でせまる少女に、さすがに一族の年輪を着た老婆もたじろいだ。それはヴェロニカにもたれかかってうたた寝を始めていたロドルフォがびくりとして飛び起きるほどの迫力であった。
「まあま、落ち着きな。今、話してやるからさ」
老婆は少女を幌馬車の陰へ誘うと、傍らでついにのびてしまったロドルフォにはかまわず話し始めた。
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レオパールは一族の語り部の正統な血を持つ者として、生まれながらに民から敬われ、その天性の容貌と声音を使った巧みな語りと度量で民を魅了してきた。いったいいつから生きてこの一族に従っているのか判然としない、彼らの守護獣とも瑞獣ともいうべき黒豹が、彼を主人と認めていることのみを考えてみても彼が神から許された指導者であることは疑う余地がなかった。
そんな彼に逆らう者などあろうはずもなく時は一族の上を静かに流れていった。非ジプシーの引き起こす絶え間ない戦乱の嵐が彼らを苦しめはしたものの、彼らはしょせん、オスマン・トルコの弾圧からも、ロシア皇帝の食指からも、オーストリア皇帝の支配欲からもまぬがれ、自由であり、戦いのために血を流そうとする者はなく、またその必要もなかった。
彼らはあいも変わらず数百年に渡り続いてきた漂泊生活に身を任せ、バルカンの深い森を主のように徘徊して生活していたのだった。実際、幾度となく支配者が交代し、覇権があちこちを移動しても、農民たちが土地を捨てて逃げ出しても変わらぬ主はジプシーだった。
レオパールは焦ることなく自らの民を率い、祖先から受け継がれた伝承を語る生活に満足していた。
長老の孫娘、セレンシアーガは一団の中で飛びぬけた美女で、長老もこの孫娘を若き指導者に献上する腹づもりで大切に育て、ジプシーとしての厳しい慣習を教え込み、年頃になると迷うことなく彼に差し出した。
彼女は漂泊の生活にありながら美しいばかりでなく怜悧で温和で、一団の誰からも好かれた。オニキスの瞳と見事に豊かな黒い巻き毛、象牙の肌に頬はいつもバラ色に輝き、レオパールも彼女をたいそう愛した。ふたりは一対の黒い薔薇とまで讃えられ、ジプシーたちの象徴とさえなりつつあった。古参の黒豹が、常に彼らを見守りかしずいているさまは、正にジプシーの伝説の一節そのものであった。
そんな一団に、ある日流れ者がやってきた。
ゼヨンと名乗るその男は精悍な風貌を持ち、豪放、磊落でレオパールには無い魅力を備えており、たちまち一団の若者の心を捉えてしまった。一団を二分するほどの彼の人望だったが、それでも、一団に争いが起きなかったのは、彼がレオパールに敵対することなくその信頼を得て片腕の地位を手に入れたからに他ならない。ゼヨンは確かに頭のきれる男だった。
戦乱の危機を彼の機転で危うく切り抜けられたことも一度や二度ではないと誰もが認めた。それでいて彼は一団に恩を売ることなく、それ以上の権力を欲することもなくレオパールの次席にあまんじていた。
そして数年の月日が流れた。
レオパールの一団はゼヨンという優れた補佐を得てますます結束固く、他の一団が戦乱でちりぢりになったりするのも珍しくはない世情の中で手堅く馬商や軽業の巡業、占いをしては路銀を稼ぎ各地を旅していった。
ところがセルビア人の、トルコに対する蜂起が行われてからにわかに農民が土地を捨てて逃げ出し、町は焼き払われ、ジプシーの商売もたちゆかなくなった。巡業はおろか、農作物の収穫作業の働き口さえ無い有様である。
少女ヴェロニカが戦火によって祖父と共に一団とはぐれたのもちょうどこの頃である。
ゼヨンはついに主、レオパールに進言した。
「この地を出て、もっと豊かな、平穏な地へ行ってはどうでしょう」
ゼヨンの活力あふれる褐色の両眼には勝算があった。しかし、レオパールは首を横に振った。一団の命を担う彼は、ゼヨンが思うよりはるかに保守的であったのだ。
ゼヨンの態度は豹変した。レオパールを腰抜けと呼び、自分はひとりでも思った通りにする、ついてきたい奴はついてこい、臆病者はレオパールという古臭い語り部と運命を共にし、飢えてのたれ死ね、と。
一団はかつてない動揺を見せた。血気盛んな若者たちは彼についてゆかねば恥とさえ思い、おおよそ半数が彼に同行すると言い出した。それでもレオパールはその者たちを引き止めはせず、静観した。去るものは追わず。それが彼の信条であるかのようだった。
かくて、レオパールの一団は分裂した。
その当日、ゼヨンたちの後姿を見送っても彼の態度は森の泉のように穏やかだった。しかし―――――――その直後。
彼を、かつてない衝撃が襲った。ゼヨンに付き従って去っていく者たちの中に、最愛のセレンシアーガの姿を見てしまったのである。
レオパールの総身を稲妻が貫いた。
稲妻は蒼白い光の帯となって彼の双眸に宿り、たちまち彼のおもてが穏やかな語り部のそれから鬼神のそれに変貌させた。
その様子を見ていた古老たちは、恐ろしさに震え上がったほどである。
間髪をいれず、彼の口から足元の黒豹に厳命が発せられた。
セレンシアーガを連れ戻せ―――――――――と。
老獣はその体躯にまだそんな力が残っていたのかとジプシーたちに目を見張らせるほどの俊敏さで疾駆してゆくと、ほどなくか弱い女の身体を引きずって主の元へと戻ってきた。語り部は二度と彼女がゼヨンの元へ走らぬよう、またゼヨンに奪回されぬよう、その魂を黒豹の内部に封じ込めてしまった。愛人を連れ戻しにやってきたゼヨンには抜け殻となったセレンシアーガの身体だけを返し、恋敵が土下座をして懇願しようと決して応じなかった。ゼヨンは呪いのせりふを吐いて去った。
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