やがて、ふたりはバクトラの街を後にし、北へ向かった。
シザリオンはラクダに、長老アブドゥラ・ハッサンはロバにそれぞれ乗り、旅人を装った。彼らを見る人々は、それがこの地の支配者とは夢にも思わなかった。
シザリオンは今度の旅のことや、バクトラでの統治の状況を逐一、カンダハールのマフムード王の元へ書き送っていたが、王からの返事はなかった。使者は直接、王に書簡を渡すことも許されず、毎度うなだれて戻ってくるのだった。
シザリオンはそのことで兄を怨んだりはしなかった。むしろ当然だと思った。
都の様子や、サファヴィー朝との戦況も気にならなくはなかったが、それらは最早、国外追放者の関知するところではなかった。それよりも成すべき任がシザリオンを待ち構えていた。
アム・ダリヤの大河以南が、シザリオンの征する地域であった。
流れに近い平原にとどまっていた一部族に、彼と長老は身を寄せた。族長はかつて彼に自分の娘を妃として上げていた。シザリオンは族長に、娘を返したことを素直に詫びた。そして自分が統率者であることを民には伏せておくように言った。
彼は部族の若者たちと遠乗りを楽しんだり、族長の張幕で開かれる長老会議に出席したり、料理を作る女たちを遠くから見守ったりした。その目立つ容貌のため、民たちにはいつしか彼がシザリオンであることが解かってしまったが、皆は物怖じせず彼に接するようになっていった。そうせずにはいられない雰囲気が常に彼を包んでいた。
彼自身、民たちに混じっての生活に、思いも寄らず平和な安らぎを見出していた。そこには王位継承争いも、血生臭い闘いも存在しなかった。
しかし、バクトラからの使者が訪れた時だけ、彼の顔は瞬時にして支配者の顔に切り替えられるのだった。
ある日、シザリオンはアブドゥラ・ハッサンを連れてアム。ダリヤの流れを見に行った。
巨大な河幅を持つアム・ダリヤの若い流れは、ヒンズークシュの雪解け水を満々と湛え、ゆったりと流れていた。それは遥か北のアラル海へ、次第に河幅を縮めながらようやく辿りついているのだった。
シザリオンは彼方の対岸に目をやった。そこはムガル帝国の領地であった。
「みごとな流れでございますなあ」
長老が背後から言った。
「このアム・ダリヤの向こうはどんなにか素晴らしい土地でしょうのう。アム・ダリヤとシル・ダリヤに挟まれた肥沃の地ソグディアナ地方……。歴代のスルタンが都としたサマルカンドやブハラの街……」
「……」
シザリオンは河の碧に見入っている。
「シザリオンさま、どうでしょう。ソグディアナに兵を向けられては」
「ソグディアナはムガルの領地である。そこを侵せば最早、辺境討伐ではなく侵略になってしまおう」
「では―――侵略なさればよい」
その言葉に、シザリオンは思わず振り向いた。長老の視線が真っ直ぐシザリオンの顔を射た。
「お前は私に兄上の命令に背けと言うのか」
「いえ、背けとは決して…。ですが、そろそろお忘れになってもいい頃では」
「……なに?」
「今のシザリオンさまのお力でサマルカンドの街を陥とすことも充分可能。そしてソグディアナ全域を征し、新しい国家をお築きなされ。決して夢ではございませんぞ。更にはカンダハールを攻め、故郷に帰り咲くことも―――」
「爺!!」
シザリオンの全身が怒りに震えた。長老は静思している。
「二度と言うな。言えば、その時は主従でも何でもない!よいな」
「……」
長老は慇懃に頭を下げ、その場を下がった。
シザリオンは再び水面(みなも)に目を落とした。
河は相変わらずゆったりと白い雲を映し、流れている。彼は恐ろしい、と思った。このアム・ダリヤも、その向こうに果てしなく広がる大地も、恐ろしかった。それらは確かに征服欲をそそった。河を越えれば次の河までの山野、それを手にすれば更に次の河までの平野、山地、砂漠……おそらく地の果てまでも野心は駆けようとするであろう。かつてこの地を割拠した群雄は大地と征服欲の魔法にかかり、つき動かされたに違いない。
シザリオンも思わずその誘惑に圧倒された。河の音が、稜線の輝きが、目を、耳を、手足を、心を虜にしようとした。だが、それらを拒む理性を、彼は持ち合わせていた。自分のために兵を動かし、他国を攻め、征服欲を満たすなどもっての外である。自分は兄の命令で動いている。兄の心で生かされている。その兄を……。
――――兄上を討つ――――?
それこそもっての外だった。忠誠心を知らぬ冷血の輩ならいざ知らず、何ゆえ自らの心のよりどころを抹消しなければならぬ。誰よりその心根を知っているはずの長老が浅ましい欲望をあからさまにし、自分にまで勧めたことに、シザリオンは烈しい怒りを感じた。
だが長老はシザリオンの言いつけ通り、その後決してマフムード王を討て、とは口にしなかった。
シザリオンの旅は続いた。
部族と部族の間を渡り歩き、民との交流を図った。そして民の心に確実に統率者への信頼を植えつけた。
故意にへりくだったり族長の機嫌をとったりするのではなく、ごく自然に彼らの生活に溶け込むことが出来た。
民たちの、ほんの小さな暖か味に触れる時、シザリオンの心に打算は存在しない。もはや闘いのための結束など忘れてしまうことさえあるのである。民を、羊を、粗末なユルトの中で聞く風の声を彼は愛した。
部族間を移動する際の旅もまた、愛すべきものであった。広大な山野は人間の愚かしさを思い知らせた。特に長老とふたりきりで地平を眺める時、この世のあらゆる権力者や闘いは無意味に思われるようになっていた。
しかし、マフムード王の存在が頭を掠めるとたちまちのうちに、シザリオンは現実の厳しさに目覚めた。彼にはやはり旅情よりマフムード王の方が重い存在であった。
翌年の春、シザリオンはコーヒ・バーバー山脈の北側を山脈沿いに東へ進んだ。
彼の耳に、不審な風聞が届くようになったのはこの頃からであった。その噂は立ち寄ったユルトの集落や街や行き交う旅人たちからも聞くことが出来た。
マフムード王が乱心し、都も乱れているというのである。
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