彼女が冷たい骸(むくろ)となって発見されたのは、その朝であった。背中を一刀のもとに剣で切りつけられ、雪の上に倒れていた。
報せを聞いたシザリオンは張幕を飛び出してその場に駆けつけた。張幕からはいくらも離れていなかった。
「なんということだ…」
シザリオンの抱き上げられたエリドゥの顔は安らかだった。
だがシザリオンの心は大きな打撃に襲われた。彼女を喪ったことも大きな哀しみだったが、むしろそのこと自体よりこうした事件が起こったことの方を恐れなければならなかった。統率者の愛人に剣を向けるなど万が一にもあってはならぬことだった。
シザリオンはエリドゥを葬ると、すぐさま凶行に走った者を捜させた。調べは連日厳しく行われたが、誰の仕業によるものかようとして知れなかった。民たちの間では、もっぱらシザリオンの妃たちの誰かが指図したに違いないと噂されていた。
彼の召しを受けた踊り娘に名ばかりの妃たちのうちの誰かが醜い嫉妬の剣を突き立てたというのである。
それを耳にした時、シザリオンはそれもあり得るかもしれぬ、と思った。だからといって、妃のひとりひとりを引き出して糾弾するわけにはいかなかった。むしろ罪は自分にあった。
各部族から差し上げられた妃たちをうやむやに扱っていたことを悔いた。若いシザリオンには女の寵の争いがこれほどに厄介なものだと解からなかったのである。
エリドゥを手にかけた者の名はついに判明しなかった。
シザリオンは雪を踏みしめながら考え続けていた。夕もやの中に妃たちのユルトが並んでいた。
思えば彼の母も大勢の王妃たちの末席にあって常に哀しい表情をたたえていた。
幼いシザリオンにもそれは感じられたが、何故に王城の奥の一隅でひっそりと暮らさなければならないのか、解からなかった。
度々、部屋を訪れる父王は母にもシザリオンにもこの上なく優しかったが、他の王妃たちや子どもたちに対しても同様であったことが今になってよく解かった。
エクセルシアも今はマフムードの数あまたの王妃たちの中のひとりであった。そしてその立場に投じたのはシザリオン自身であった。
権力者の寵は、言わば愛の分配であると同時に権力の公平を図る手段であり、王である者の義務と言わねばならなかった。ミール・ワイス王も、マフムード王も、そしてシザリオンもそれを背負っていた。
「煩わしいことだ…」
シザリオンは思った。もっと他に各部族を統治する方法はないものか――――。

春が来るとシザリオンは張幕を解いた。
妃たちはすべて親元へ返し、統治の中枢をバクトラの街に置いた。選りすぐりの有能な人材を臣として政務に当たらせることにした。そして自らは―――長老のアブドゥラ・ハッサンはそれを聞いて仰天した。
「独りで旅をすると申されますのか!?」
「独りではない。爺、お前も一緒だ」
「衛兵も着けずに!?」
「そうだ。ただの旅人として今までに征した各部族の間を廻る」
「バクトラはどうなされます!シザリオンさまがおられませいでは……」
「アフマッドたちが私の代わりを務めてくれる。都にいた頃よりの腹心の部下である。だが評議の決はあくまで私が下し、マフムード王の名で各部族に公布する。絶えず私とバクトラの間を伝令の馬が行き来するであろう」
シザリオンは落ち着いて言った。
「東方への遠征はどうなされるおつもりじゃ」
「しばらく延期する。今度の旅のためにはやむを得ぬ」
アブドゥラ・ハッサンはますます顔を曇らせた。
「いったい何のための旅なのです?張幕をお解きになり、妃さまたちをお返しになり……東方への遠征を遅らせ、政務を臣たちにお任せにならねばならぬほど大切な旅なのですか!?もし、あなたさまがバクトラ不在の間に違背の輩が謀反の旗でも上げればどうなりましょう!?」
シザリオンの目元が鋭く張りつめた。
「そのようなことはさせぬ」その言葉には絶対的な響きが込められていた。「何びとたりとも私に歯向かうような真似はさせぬ。二度と私のものを奪うことはさせぬ」
「……」
「そのための旅である」彼は穏やかな表情に戻り、老爺を見つめた。「征服地を拡げるより、今ある支配地や民の心を確固たるものにしたいのだ。我々は遊牧民族である。羊を追いたて、育てながら季節ごとに山野を移動する民である。父上もかつては多々ある中の部族の族長であり、そうした生活をしてこられた。そして私もその血が流れている」
「そのような生活をなさると?」
「うむ。民たちの中に入り、民たちと同じ物を食べ、同じ所で眠り、同じことをしてみたい。そうしてこそ、初めて民の信頼が得られるのではないだろうか」
「……」
「今のままでは、民たちは砂漠の砂と変わりない。その時々の風によって西に流れたと思うと、次は東に渦を巻き、かと思えば南に山を作る。解かるか、爺?いつか、私やマフムード王以上の権力者がこの地を襲えば民たちはすぐさま彼の味方につくだろう。かつて、族長を失って私に服したように…」
「ですが、それが世の常…」
「……であってはならぬのだ、アブドゥラ爺。私はたとえ私ひとりになっても最後まで忠誠を誓ってくれる兵士や民が欲しい。手に入れたい」
シザリオンは熱っぽく語り終えると、窓外のバクトラの空に目をやった。
「シザリオンさま、あなたさまはまだまだお若い。事は理想通りに運ばぬものじゃ。心から信頼される民を持とうなどとは……」
長老はため息をついた。するとシザリオンはすかさず、
「ではお前はどうなのだ?」
「は?」
長老は度肝を抜かれたように一歩退いた。
「仮に、サファヴィー朝かムガル帝国が攻めてきて、私を差し出せば命は助けてやると言われたら、お前はその通りにするのか?」
しばし沈黙が置かれた。
会話の途切れた部屋に、路上の人声が遠くザワザワと響いてくる。
「おっ怒りますぞ、シザリオンさま!」突然、長老は大声を上げた。「前王に長年お仕えした私が、前王の特にご寵愛されたあなたさまを裏切るわけがございません!」
「解かった、爺、冗談だ」
シザリオンは苦笑した。彼はこの老人を誰よりも信じていた。
「仮初めにもそのような!あまりといえばあまりにも…!」
老人はまだ顔を赤くし、荒い息をしていた。シザリオンは笑い流し、
「そう怒るな。旅の供はお前だけだと言ったはずだ」
その笑顔に、青年らしい明るさが満ちていた。彼はいつしか二十四歳の夏を迎えようとしていた。
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