「天城さん、人を愛したことがおありになる」
「何だね、唐突に」天城は頬杖を止めて手枕に変え、君らしくもない、感傷的じゃないか。来週早々から日本にいない。めそめそしていても会えないから知らないぞ」
「どちらにいらっしゃるの」
「上海だ。ほら、時岡男爵のサロンでいつも顔を合わせる考古学の出羽教授の一行が、支邦西域の墳墓を発掘に学術調査に赴いていただろう。何か、大きな収穫があったらしくてその取材に行くのだ」
「そういえば、そんなことをお聞きしたわ」
円雅は格別関心が無さそうな答えを返した。支邦西域の墳墓など、距離と時空を隔てすぎていてぴんと来ない。
「教授の助手の白水永渡(しらみずながと)くんが迎えに来てくれる手筈になっている。彼が支邦語に堪能で助かったよ、まったく。でなけりゃ支邦の取材なんぞお手上げだ」
(白水――――?)
その名を聞かされても円雅はすぐにその顔を思い浮かべることができなかった。東洋考古学の権威、出羽教授とは、父である人形作家、大津路洋一郎が風流人で知られる時岡男爵のサロンで頻繁に出会うことから懇意にしている。仕事で出入りする天城とも父を通してそのサロンで知り合ったのである。
(ああ、あの人)
記憶の隅から突き出したものの、白水なる男の印象は依然として薄い。
サロンで度々顔を合わせていながら、口を聞いたこともなければ視線を合わせたこともない。
常に師匠である出羽教授の背中に影のようにつき従い、淡々と言いつけられたことをこなしているようではあるが、特にサロンで目立つ発言をしているのを聞いたことも周りの人間と歓談にうち興じているのも目にしたことがない。容貌も、特に変わってはいない。いつもこざっぱりとした服装で、髪も適度に整えられており、一向身の周りのことにかまわぬ天城の方がよほどだらしない。
ただ、白水には勢いが無い。目に輝きが無い。
自ら運命を切り開き、夢を追い、叶えようという意気込みがまるで感じられないのだ。よく言えば従順にして鷹揚、悪く言えば無気力。
(あの、覇気の欠片も無い人ね)
嘲りに似たものが円雅の胸中を掠めた。
しかし、それだけだった。次の瞬間には円雅の思いは別のところに飛んでいる。
「来週から、私もしばらく来れません。―――姉の結納がありますから」
最後に真珠の帯留めをして枕辺に座った女の顔を、天城は急いで見返した。
「波流子さんが結納だって。本当かい、それは」
「はい」
「意外だな。彼女はてっきり生涯を君と父上に捧げるものと思い込んでいたのに。で、お相手は」
「時岡男爵様のお薦めで、さる旧家のご次男とか。婿養子に来られるんです」
円雅の表情が翳りを帯びるのを天城は見た。
姉の波流子が婿養子を迎える。つまり、円雅が家を出ぬかぎり姉の監視下から逃れられぬということである。
(あの女(ひと)は一生、私を支配するつもりなのだ)
「私、自活しようかしら」
ぽつりと洩らしてみる。思いつきで言った言葉ではない。幼い頃からがむしゃらにピアノにうちこんできたのも、その力を身につけるためでなくてなんであったろう。
橙色の障子を睨む目つきが凄味を増した。こういう円雅の貌(かお)を見慣れているものの、天城はただごとではない何かを感じ取った。そういえば今日の彼女は狂おしいまでに燃え盛ったではないか。天城の孤独を滅ぼしかねないほどの熱で―――。
「天城さん」
天城が声をかけようとした時、いきなり円雅は覆い被さってきた。天城は煙草を宙に浮かせようともがきながら、鬼火のような女の目を間近に見た。
「お願いがあるの」
押し殺した声は、有無を言わせない響きである。
「姉さんを陵辱して。滅茶苦茶にしてやって」
脇を流れるどぶ川に沿って、地面の勾配の上にくねくねと蛇のように仄暗い通路が洞穴のように続いている。天城の下宿はそんな風変わりな平屋造りで、部屋は十数戸もあるだろうか。玄関の、唯一往来の空気が吸える部屋は大家が陣取っている。
帰りがけ、円雅はいつもこの大家の部屋に沿って古びた鏡台を借り、髪を整える。天城の部屋に一枚も鏡が無いせいもあるが、
「今日の逢瀬はいやに念入りでしたねえ」
こめかみに膏薬を貼り付けた小太りの大家に好色そうな視線を送られながら鏡の前に座っているのは、彼女に口止め料を握らせるためでもある。
通りに出ると、辺りはすでに薄闇が立ちこめている。空気はまだまだ冷たく、びろうどのショールを喉元へ寄せて、歩みも知らず知らず早まる。街灯が背後から順に灯り、追い抜かしていった。
「あ…」
この春、初めての沈丁花の香りである。この濃密な匂いに、円雅はたまらなく女を感じる。幼い頃、自分を置いて家を出たという母を。継子の波流子に辛くあたられ、泣く泣く大津路の家を去ったという母を、である。
もう人の顔も見分けるのさえ難しい闇が迫ってきているというのに、往来の路上に店を店を広げている物売りがある。ハンチングを被った髭だらけの物売りは、こ汚いゴザの上に葛籠(つづら)を下ろして闇の中でも仄かに白く見える大小の壜を等間隔に並べ、人が通る通らないにかかわらず呪文のように売り文句を唱えている。
「さあさ、お嬢さん、お姉さん。この化粧水を朝晩つけてごらんなさい。色黒でお悩みの人はもちろん、白い肌に磨きをかけたい人にももってこいの化粧水!ますます輝くような真珠の肌になれること間違いなし」
物売りのかざす壜には桜の花の絵が描かれ、いかにも年頃の娘の好みそうな品である。
(真珠の肌―――)
ふと足を止める円雅には、それは耳に慣れすぎた言葉である。
――――真珠。
人形作家である大津路洋一郎はこの数十年来、真珠というものに思い入れている。そのきっかけは、円雅には知る由もないが、彼の創る人形には必ず、主に義眼の代わりに真珠が使われている。首飾りを着けているものもあれば、一粒だけ掌に乗せているもの、また葉の上の雫に見立てて人形に持たせているものもあり、実に様々な作風で真珠を取り入れている。それでも彼の情熱は衰えを見せるどころか、近年、養殖真珠が開発されると、ますます拍車がかけられたようでもある。自身の娘ふたり――――長女の波流子が英語のパールに因んだ名、次女の円雅がギリシャ語で真珠を意味するマルガリイテース、又はマルガリイタから取った名であるのからして彼の思いの深さが推し量れよう。
姉の波流子はその名を証明するかのように、輝く白い肌の持ち主である。三十路に届くようになってもその輝きは衰えるどころかますます艶を持って光沢を放ち、識者たちのサロンでも噂にのぼることもしばしばである。
極、一部の者しか知らないが、彼女は箪笥の引き出しの奥に生まれた時に口に含んでいたという真珠を仕舞っている。
円雅も二、三度しか見せてもらったことはないが、曙色の完璧な真円真珠は父の洋一郎が海の奇跡と絶賛するほどに素晴らしいものだ。しかし、彼がいくら頭を下げても、波流子は創作人形にそれを使うことを許さないのだった。
一方、円雅の方は、真珠から取った名前を名乗るのがおこがましいほどの色黒だった。しかし、そんな劣等感などものの数ではない。心の底に巣食う、波流子に対するわだかまりのどす黒さに比べれば。
円雅は物売りの声に背を向け、夕闇の中を歩き始めた。