その夜はオリビナと母親が腕を振るった料理で竜蛇の漢をねぎらうことになった。
しきりに遠慮する彼を三人がかりで食卓に座らせた。
今日のことですっかり彼を見直した父親は今まで不満たらたらだったこともどこへやら、終始上機嫌で漢に酒を勧めるのだった。
「ジャレツさんよ。わしは村でたった一軒のパン屋であることを誇りに思っているんだ。男は誇りよ。誇りがなくちゃふぬけ*&%よ。な?いやあ、愉快、愉快。こんなに美味い酒は久しぶりだ。さあ、ぐっとやっとくれ!おお、こんな強烈な地酒をものともせんとは頼もしいな」
湯気を噴きそうな顔で漢の頑丈そうな肩を叩きまくった。
和やかな夜だった。
だが、キャスケードという若者は、何度声をかけても母屋に顔を出そうとしなかった。
★
この地方の春は、雨の季節だ。
あちこちで荷車や馬車が泥濘に車輪をとられて難儀していた。
オリビナは家への路を急いでいた。
丘の上の小学校から、つづら折れの路を村へと急ぐ。雑木林も果樹園も畑も春の雨に濡れそぼち、銀のとばりの向こうだ。
あまりの雨足の酷さに、勾配は急だが近い方の水車小屋の脇の路をオリビナは選んだ。
スカートはぐしょぬれ、ブーツにも水がしみいってきて不快この上ない。
坂道はまるで斜めの滝になっていた。
水車の陰から、狡猾そうな目が覗いていることなどオリビナが気づこうはずもない。
足元で、雨とは違う銀色の糸が鈍く光った!と思うまもなく前につんのめって、オリビナは夥しい雨水とともに坂を転がった。
「きゃあああ!」
口と目に泥水が容赦なく流れこむ。
やっと身体が止まった時には全身汚泥色に染まっていた。
「ぶ・・・・」
泥を吐き出した途端、視界の隅に少年が二人、立ちはだかった。
鍛冶屋の末っ子と煉瓦職人の次男坊だ。
「へん、いい気味だ」
「女先生の泥んこパン、一丁上がりい」
残忍に哂った顔は十一歳とは思えない。
「あ、あんたたち・・・」
顔面に降り続ける雨に耐えながらオリビナは呻いた。
「なあにが世界の紀行本だ」
オリビナのかばんから飛び出した分厚い本を、鍛冶屋の末っ子が拾い上げた。
「返して!駄目、それだけは!」
「こんなの、どこが面白えんだ」
「知らないことが書いてあるのよ。私たちの知らない素敵なことがいっぱい。文字さえ覚えれば、こんな片田舎にいたって世界のどこにだって飛んでゆけるのよ」
「うるせえや」
「文字を覚えて。学校に毎日いらっしゃい。先生、毎日待ってるから」
「あっそ、婆あになるまで待ってな」
煉瓦職人の次男坊がふやけた本をゆっくりと一枚ずつ破り始めた。
「やめてええ!」
オリビナは内側で何かが音をたてて崩れてゆくのを感じた。もう駄目、もう限界。教師なんかやっぱり私なんかには無理だったんだ。やめよう、やめちゃえ、女先生なんかーーーー!
唐突に水車小屋の扉が開いた。
「うっせえな、さっきからぎゃあぎゃあと」
オリビナは目を疑った。屋根裏部屋のキツネ髪の若者ではないか。
上半身は裸、皮のパンツにブーツだけのしどけない恰好。露わな肩にキツネ色の巻き毛がロールパン
みたいに乗っかっている。
不敵に光るアイスブルーの瞳がオリビナを認めて止まった。
「あれ?パン屋のプリンセスじゃねえか」
「やべ、ずらかれ!」
それまで凍りついていた悪童どもがそろって坂道を転がっていった。
呆気にとられて見送ったキャスケードの視線がオリビナに戻ってきた。オリビナはよけい泣きたくなった。なんだってこんな泥んこまみれの惨めな姿をこの若者に見られなくちゃならないんだろう。
「・・・こんなとこで何してんの」
「・・・・」
「ひなたぼっこじゃなさそうだな」
オリビナは雨に溶けてしまいたい心境だった。その時、水車小屋の中から女の艶っぽい声がもれてきた。
「なによう、キャス、いいところでえ」
顔から火が出そうになって、オリビナは逃げようとした。が、右足首に激痛が奔った。
「いた・・・!」
挫いたらしく足首は二倍に腫れ上がっている。泣き面にハチ、いや狂犬だ。
「用ができた。またな」
背後に声を投げると、キャスケードはシャツに手を通しながら近づいてきた。オリビナの背にジャケットがかけられ、あっという間に背負われた。彼女は慌てた。
「歩けねえんだろ、おとなしくしてな」
「待って、あの本を」
すっかりココア色に変色した本を若者はつまみあげた。
「使いもんにならねえぜ」
「いいの。私の宝物なの」
受け取るやオリビナは本を抱きしめた。
雨が細かくなった。キャスケードは畦道を村落めざして歩み始めた。
銀色の雨すだれの中を美貌の若者におぶわれて行くなんて、御伽話みたいだ。でも、御伽話にしては、若者の髪に残る女の残り香が生々しい。オリビナは彼の背中ですっかり小さくなっていた。
「何なんだ、それ」
意外と逞しい肩越しに、若者が尋ねた。
「世界の紀行本・・・よ。あちこちの大陸のことが書いてあるの」
「へええ。俺にゃチンプンカンプンだな」
「あなた字が読めないの?」
「あいにく学校と親には縁がなくてなーーーー悪いかよ」
「悪いわ」オリビナはついムキになった。「文字を知らなくちゃ、人生の半分以上はどぶに捨てたようなものよ」
「ひでえ言いようだな」
肩が揺れた。笑ったらしい。
「文字は素晴らしいわ。世界中どんなに遠くのことも知ることが出来る。破光珠の散りばめられた東の果ての国や、海豚に護られた海人の島城や、鎮国椀の生産地や・・・・」
「そんなもん、わざわざ読まなくたってこの目で見てきたさ」
「まあーーーーほんと?」
オリビナは足首の痛みもそっちのけで頓狂に叫び、若者の横顔をのぞきこんだ。
「嘘じゃねえ。俺たちは人捜しの仕事柄、いろんな土地への旅暮らしだからな」
「だったらなおのこと文字を覚えるべきよ。見てきたことを書き残せるじゃない!」
オリビナの教師魂が奮いたった。
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