「公爵!」
階下へ向かう老公爵を、ジャレツは呼び止めた。
「何じゃの。リダのパートナーの話ならもう決ったことじゃ。撤回はさせぬぞ」
「タキシードさえ勘弁くださるなら」
「ま、致しかたない」
公爵は苦笑してうなずくと、きびすを返そうとする。ジャレツは重ねて呼び止めた。
「待ってください」
「まだ何か用かな」
「琥珀を見せていただきたく・・・・」
公爵はやおら振り向いた。
一変して額には気難しい皺が刻まれている。
「碧き琥珀かな」
「そうです。逢わせてほしい。その中に眠るといういわくの乙女に」
「何故あんたが」
「逢わなければならないのです」
竜蛇皇帝が狙っているものですから。とは、とても口にはできないジャレツだ。
竜蛇皇帝の手に渡すことはできない。もしそうなれば、皇帝はまた永い永い命を得て、血塗られた世界を広げてゆくだろう。
繁栄に行き着くのではなく、滅亡にむかって――――――。
キャスケードと、碧き琥珀に眠る乙女だけは、ジャレツの命に代えても皇帝に渡すことはできなかった。
でなければ、竜蛇を出奔した意味がない。皇帝を裏切った行為も水泡に帰す。
老公爵は沈痛な面持ちでしばらく考え込んでいたが、やがて震える手でジャレツについてくるよう示した。
裏庭に出る。花火が続いていた。
腹に響く衝撃と、見物人の歓声がもれ聞こえる。先を行く老人の年輪を経た横顔を、花火の鮮やかな光が彩った。
おそらく公爵が他の人間を塔の最上階に上げることを許すのは、ジャレツが初めての人間と思われた。ジャレツは幸運に感謝した。
蘭の花々にまといつかれて、琥珀の血の色の塔は立っていた。
両開きの扉も琥珀造り、内部の床、壁、階段にいたるまですべてが琥珀でできている。
ところどころに原始の葉や昆虫を抱きこみ、色の濃淡もさまざまな琥珀は有機物で温かみがある。ただ、あまりに永い年月を経ているためにおどろおどろしい。
円柱形の内壁に沿って、螺旋階段を燭台ひとつ持ったきりのメレア公爵が先にゆく。
カツンカツンという靴音が円柱の中をかけめぐり、蝋燭の火を受けてゆらゆら揺れる人影が巨人のように伸びてゆく様は、大の男にとってもあまり気持ちのよいものではない。
ヤモリが燭台の火に驚いて、顔のすぐ側の壁をにげてゆく。足元を横切るのはネズミか。
燭台の明かりの届かぬ天井に蠢いているのはコウモリだろうか。
そして―――――――老公爵とジャレツはようやく階段を昇りきった。
目の前にはいっそう頑丈そうな扉がたちふさがっている。裏庭の門に刻まれた古めかしい竜の紋章である。
公爵は携えてきた大きな鍵で錠前を開けた。
ジャレツの胸が高鳴った。
滅多なことで動じない彼にすれば、珍しいことだ。だが、息苦しいほどの鼓動を、どうすることもできない。
重々しい軋みを響かせて、扉が開かれる。
ジャレツの視界が碧に染まった。
瞬時に深海に来てしまったのか、と錯覚を起こすほどの碧の世界。
塔の最上階の床ほとんどを占めた琥珀のかたまり。その巨大さに、ジャレツは度肝を抜かれた。
そして――――――。
その中ほどに、まるで水槽に浮遊する人魚のように、清らかな乙女がいた。
一糸まとわぬ生まれたままの姿を胎児のように、できるだけ小さく折り曲げている。
琥珀のせいなのか、碧く染まった肌と髪。
薄い瞼は閉じられ、憂いを含む眉は何をそんなに哀しんでいるのかと問いたくなる。
唇は紅と琥珀の碧が混じりあい、アメジスト色に見える。半開きの口元からは真珠の歯。
ジャレツの内側――――――――奥底の深い深い部分を金属音がつきぬけた。
アンバーヌ―――――――!
その名がするりと出てきた。
自分はこの乙女を知っている。今こそ判った。今まで、城を訪れるたび呼びかけてきたか細い声は彼女だったのだ。
(ジャレツ・・・・)
(違う、ジャレツ、ちがう・・・・)
(私を・・・・)
しきりに助けを求めていたかのような、あの呼びかけ。何を訴えようとしているのか。
だが、今は彼女は沈黙している。
こんなに間近に来たというのに。
何だ、この俺に何を訴えたいのだ?竜蛇皇帝のうろこの一片から作り出された、生態系に許されざる存在の俺に。皇帝に永遠の命を補給することのできる神秘なお前が何を言いたいのだ!
思わず足を踏み出し、琥珀の表面に触れようとした時―――――――、
「触れることはならぬ」
断固とした老人の声がジャレツの手に突き刺さった。
明り取りの窓の外でひときわ大きな花火が炸裂した。
花火の明かりを背に負った老公爵が、一瞬禍々しいかたちに見えた。
ジャレツは我に返った。
「これは申し訳ない」
ともかく琥珀の乙女は公爵の所有物なのだ。
琥珀の表面に細かい文字のようなものがびっしりと書きこまれているのに、ジャレツは気づいた。
「これは古代文字ですか」
「おそらく。しかし、解読されておらぬし、させるつもりもない」
公爵は老いた目を潤ませ、琥珀の乙女にあてた。
「これはわしのもの。わしだけのものじゃ。何者にも渡しはせぬ。この世の始まりからそう決っておる」
「まるで生きているようだ」
「生きて?」
公爵はさも頓狂なことを耳にしたように、大袈裟に反応した。
「ほっほっほ、ジャレツさん。これは数千年も前に琥珀に閉じ込められたのですぞ。生きているわけがない!」
「はあ」
「もし生きているとすれば、それは何かの罰を受けているのじゃ」
「罰―――――――」
たとえば、夫を裏切ってとるにたらぬものと愛とやらを貫こうとしたとか―――――の」
「・・・・・・!」
心の中を汚れた手でまさぐられ、大切なものをひきずり出されたような不快感が、ジャレツを襲った。
「ほっほっほ、年寄りの酔狂な想像じゃよ、ジャレツさん。そう真剣に考えこまんでよろしい。わしは神話世界の痴話が好きでの」
「・・・・・・」
「これで気がすんだかな?あんたは運がいい。滅多に人には見せぬわしの宝じゃからの」
公爵は退出を促した。
連発する色とりどりの花火が、琥珀をいっそう幻想的に彩る。
(お前がどういう所以で琥珀などに閉じ込められたのかわからんが・・・・、竜蛇皇帝の手には渡しはしない。アンバーヌ)
ジャレツは何度も振り返りながら部屋を後にした。背中に、瞼を閉じているはずの乙女の視線が感じられた。
花火は続いている。