気がつくと小雪のちらつく町へ戻っていた。白昼夢を見た気分で妙に落ち着かない。
さびれた屋台が出ていたので一杯ひっかけて温まって行こうと思い、粗末な椅子に腰掛けた。数人いた他の客が眉をひそめてはささやきかわし、逃げるように席を立ってゆく。
黒髪、黒い眼のジャレツはここでは占領国竜蛇の人間でしかないのだ。
熱い竜の吐息を頼んでひと口あおり、胃の底へ落ちてゆく熱い感じを味わっていると、テーブルの下から小さな手が出てきた。しきりに皿を手探りし、ツマミをひとつずつつまんでは消える。恐ろしく汚い手だ。
目なぐさみに眺めていたジャレツはテーブルの下を覗きこんだ。この寒空にぼろぼろのシャツと半ズボン、素足の少年が目をぎらぎらさせてテーブルの足につかまっている。ジャレツと目が合うやいなやすばしこく逃げようとしたが、
「喰うか、坊や」
ジャレツのひと声に振り返った。テーブルには新しい皿が来ていた。ほかほかの湯気のたったソーセージとジャガイモが盛られている。少年はごくりと喉を鳴らした。
「遠慮するな」
「だ・・・誰が竜蛇兵のほどこしなんか!」
「俺は竜蛇人だが竜蛇の兵隊じゃない。腹がへってるんだろ、やせ我慢するな」
「・・・・・・」
「じゃ、俺と賭けをしよう。勝ったら、これはお前のもんだ」
ジャレツは少年を招き寄せて屋台の女をあごで示し、
「あのお姉さん、幾つに見える?二十七?」
「そんなにいってないよ。俺の母ちゃん、二十五だけどもっとオバサンだぞ。ええと、二十歳くらいかな」
「そんなに若かないぞ。八かも」
酒のおかわりを持ってきた女は腰に手をあてて、豊満な胸を突き出しジャレツを睨みつけ、
「あいにくだね、オジサン。あたいはこれでも芳紀二十二さ」
そして少年に向き直るとにっこりして頭を撫でていった。かくして――――――少年は皿まで食べる勢いでぺろりと料理をたいらげた。
「お前、名前は?」
「ロピ」
「ロピか。――――――もう一皿」
ジャレツが注文すると、少年はジャガイモをほおばりながら、
「それ、持っていっていい?」
「どこへ?」
「団長のとこ」
「団長?」
「うん。怪我して動けないんだ」
「そりゃ大変だな」ジャレツのくちばし突っ込みたがり病がうずきだした。「案内しな」
「うん、こっち」
夕暮れの迫った狭い小路をいくつも抜け、少年は町の外れの空き家へジャレツを連れて行った。すきま風は入りほうだい、今にも倒壊しそうな一軒家だ。蜘蛛の巣をかき分け、冬枯れして巻きついたままの蔓草をぱきぱきと折りながら蝶つがい一ヶ所でかろうじてぶら下がった扉にたどりつく。
「食べ物だよ!」
少年は飛び込むなりはしゃいだ。
暖炉に火の気は全く無い。家具らしい家具さえないまったくの空き家の片隅に、干草を敷いてひとりの人間が横たわっていた。
生臭い血の臭いがした。
「ほら、この人がオイラにご馳走してくれたの。リダも食べて元気になって」
人影がようやく起き上がった。
ジャレツは目を凝らした。銀青色の髪の女。鋭い頬の線はもともとなのか、衰弱のためか。
女は驚いたようだ。視線に殺気がみなぎった。
突然、低い唸り声がジャレツの耳に届いた。
干草がもそりと動いた。干草とばかり思っていたのは、獣の背中だったのだ。
白地に薔薇の文様のある、見たこともない猛獣だ。思わずジャレツは硬直した。
「エクリュドなら何もしないよ」
少年が言った。
「いったいどうしたんだ」
ジャレツは一歩、床を踏みしめた。
女がただならぬ表情で、身をすくめる。
「手の傷が治らないんだ」
女が何も口にしないとわかると、少年はしょげかえって皿を下げた。
「見せてみろ」
ジャレツは患者に有無を言わさずその右腕をつかみ、血が渇いてどす黒くなってしまった布を取り去った。
「どうしたんだ、これは」
女の右手の甲は半分断ち割られ、指は親指と人差し指、中指しか残っていなかった。しかも傷口は化膿して腐臭を放っている。
薔薇の文様の獣が耳を垂れて、主人の傷を舐めた。
「・・・・ジャレツ」女の蒼白な唇が洩らした。「ジャレツだね」
「なぜ俺を・・・・?」
ジャレツも女の紫の瞳を改めて眺める。
とたんに緊張の糸が切れたのか、女はジャレツの肩に倒れこんだ。猶予はなかった。
ジャレツは手早く自分のシャツを引き裂いて傷口に巻くと、女を背負った。
「ロピだったな、この町に医者は?」
「わかんない」
「ほかに知り合いは?」
「メレアのお爺ちゃんなら」
「どこだ、その家は」
ジャレツは空き家を出て歩き始めている。
「公爵様だよ。あの城の」
「なにい」
「でもリダが駄目だって」
ロピの小さな指がさす城は、昼間ジャレツが迷い込んだ蘭の園のある場所だ。
背後にはあの古びた塔を従えている。それは残照を浴びてオレンジがかったローズ色に染まっていた。
「だめ。公爵様にご迷惑が」
背中の女が弱弱しくつぶやく。
「そんなこと言ってる場合か。ロピ、案内しろ」
ジャレツは女を背負ったまま、少年の後を薔薇豹を従えて走り出した。