唐突に静寂が訪れた。
少なくとも、キャスケードにはそう思えた。
気がつくと、海を眺めていた。
猛獣の咆哮を思わせた天変地異が嘘のように鎮まり、氷河色の大海原がのっぺりと広がっていた。空には夜明けの気配がある。さえざえと碧かった月はやわらかい蜂蜜色となって傾き、水平線近くに金の粉を振り落としている。
ここが、ほんの先ほどまで砂漠だったと、全能の神でさえ信じはすまい。
見回すと三百六十度の海。
岩山の頂上だったところが岩礁さながら点在しているだけだ。
キャスケードの立っているのは、そうしたほんのちっぽけな岩場のひとつだった。
その上に、彼とデニーゼ、そしてほんのひとにぎりのせむしどもが呆然と取り残されていた。
果たしてあの激しい戦いは終わったのか?どちらが勝ち残ったのか――――――。
「キャス・・・・」
デニーゼが背後から声をかけ、キャスケードは自分の手にジャレツの銃が握り締められていることを知った。
「ジャレツ・・・・・。どこいっちまったんだ、ジャレツ――――――――――!」
若者は身をふたつに折って吠えた。
絶叫は水の上に虚しく拡散した。
背後で、せむし一族の母子がすすり泣く声が聞こえた。わずか数人の彼らは膝を抱いてしゃがみこんでいた。
「キャス!」
デニーゼが緊迫した声で告げた。
急いで振り返ったキャスケードの目に、小さな舟が一そう浮かんでいるのが映った。
舟は淡い月の光を受けて、生まれたばかりの海に頼りなげに漂っている。
そこに立つ人影がふたつ。
「ジャレツ・・・・!」
そしてもうひとりは――――――。
幻のようなアメジスト色の身体は、ルナシルダに違いない。
ルナシルダが冥界から夫、アルノワ・ロンダムを迎えにきたのだ。つまり、ジャレツの肉体に宿った夫を。
ふたりは遠目にも燃えるような視線を絡ませ、水平線へ漕ぎ出そうとしているではないか。
「キャス、ジャレツが連れていかれちゃう」
「わかってら、わかってるけど、どうやって引き止めりゃいいんだ、くそ」
湿った髪をかきむしっても焦るばかりだ。
デニーゼはとっさに固く閉ざしていた左の拳を見下ろした。ジャレツと一緒に地下水道を歩いていた時から握りしめていた左手だ。
冬を越した蕾の開花のように震えながら開くと、手のひらに大きな真円真珠が現れた。キャスケードの手切れ金と引き換えに、真珠売りから買った媚薬の真珠だ。
「もしかして」
少女の心に閃光が射した。
キャスケードに告げようとした、刹那。
視界の隅に、何かが起き上がるのが見えた。岩陰から、真珠売りポセイディオーンが笛を口にあてがい、キャスケードを狙っている。それが武器だと、少女の直感が叫んだ。
「危ないっ!」
少女の身体に突然体当たりされ、キャスケードは危うく海に落ちかけた。
「デニーゼ?」
くず折れた少女の背中に真珠針が刺さっている。キャスケードの瞳に激情が燃え上がった。本能に任せてジャレツの銃を構え、真珠売りを狙い撃つ。
なんという帯状の光の蛇。発砲音が水の上をこだまし、少年は岩礁に沈んだ。キャスケード自身、その威力に腰を抜かした。
「おのれ、白鳳の若者を真珠針の毒で、道連れにしてやろうと思うたものを」
すでに精力を使い果たした真珠売りは鱗の浮き出た全身を喘がせ、瀕死の状態だった。懸命に水の上へ目をやる。
一対の男女を乗せて、舟はすべり行こうとしている。
「ロンダムの幽霊であろうと、竜蛇の男であろうと許すものか。私からルナシルダを奪い去って行く者。憎んでも憎みきれない者」
呪詛を吐き散らしながら、少年の真珠色の瞳は輝きをなくした。
たちまち少年の長い手足は縮み、細い身体はずんぐりと石を背負ったように盛り上がり、顔は皺が刻まれて醜く老いてゆく。
「真珠売りはあのせむしの爺さんだったのか」
キャスケードは息を飲んだ。
わずかばかりの一族が長老に取りすがって泣き崩れる。しかし、キャスケードに対し仇を討とうとするような気力が残っている者は誰も無かった。
「デニーゼ、しっかりしな!」
我に返ったキャスケードは土気色の顔になってゆく少女を支え起こした。すぐに真珠針を抜こうとしたが、弱弱しい手が引き止めた。
「駄目。毒に触れたらあんたまで」
ソバカスだらけのあどけない顔が哀しげに微笑む。
「だからってこのまま見てろってのかよ」
「いいんだ、きっと兄ちゃんも水に流されて、悲しむ人なんかいないもん、あたいには」
「何言いやがる、俺が泣くぞ!」
キャスケードは精一杯怒鳴った。

「ありがと。優しいね、キャス。短い間だったけど、あんたと旅籠の屋根裏部屋に暮らして一緒に働けて、楽しかったよ・・・・・。キスの一回もしてくれなかったのは残念だったけどね・・・・」
少女は力なく咳き込み、どす黒い血を吐いた。キャスケードは慌てて自分の袖でぬぐってやった。成す術を知らぬ自分がもどかしい。
「お別れだね、キャス」
「バッカヤロ。お前、こんなペタンコ胸のまま死んじまうつもりかよ。俺が感服つかまつるぐれえのグラマー女になるんじゃなかったのかよ、だらしねえぞ!」
少女はかすかに首を振り、左手を持ち上げた。
「これ・・・・」
血の滲んだてのひらに、燦然と輝く真珠。
「こいつぁ?」
「媚薬の真珠。これを使えばきっとジャレツの魂が帰ってくるよ」
「こんなもんであいつを奪い返せるのか」
キャスケードは胡散臭げに真珠を眺め回しながら鼻面をしかめた。
「できるわ。彼の心臓にその真珠を撃ち込むことができれば。そしてあなたの強い思いがあればね――――――――」
なんと自信に満ちた言葉だろう。
度肝を抜かれて少女の面を見たその瞬間、キャスケードの知らぬ女の面差しが見上げていた。緑色のまぶたと耳たぶが鮮烈な、見たこともない神秘的な人種の女。
「デニーゼ?」
思わず目をこすって見直すと、もう、元のか弱いデニーゼの貌だ。
「早く・・・・。ジャレツが行ってしまうよ」
舟影は水平線向けて刻々と遠ざかってゆく。
(あいつの心臓に撃ち込むだってえ?)
キャスケードは岩の上に捨て置かれたジャレツの銃に目を走らせた。たしか銃身が自在に伸びるはずだ。
「ええい、ままよ」
キャスケードは銃をつかむや、岩の上に腹ばいになった。
ジャレツを狙い撃つなんて、考えてみたこともない。それも、真珠を弾丸代わりになど、本当にできるのだろうか。
――――――――――あなたの強い思いがあれば。
あの言葉を信じるしかない。
ジャレツの来し方も行く末も、思いも霧の彼方のままだ。だが、彼を慕い、思う心は誰にも負けない。
(あんたは俺のしっぽを握ってるんだからな、ジャレツ。このまま行かせてたまるかよ)
キャスケードのアイスブルーの瞳がじっくりと標的に絞られた。
懐かしく逞しい胸の上半身がスコープの向こうに映る。
キャスケードは引き金にかけた指に、静かに力を込めた。
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