いつのまにか痩躯を目立たせた寝巻き姿のまま駆けつけていたばあやに、
「頼みます。静かに寝かせてあげて下さい」
いかにも紳士的に託すと、白水は改めて円雅を振り返った。
刻々と陽射しは漲り、窓の外では初夏の清々しい朝の空気が黄金色に染められつつある。白水永渡の視線は明らかに相手を責めていた。円雅が思わずたじろぐほどの峻烈な迫力を曳いている。
昂ぶりのあまり姉を失神に追いやるとは、この事態に円雅自身、少し言い過ぎたかと怖気づいていたが、この青年の視線に向き合うと反発したくなってしまう。
「あんまり心配をかけてあげないでください、円雅さん」
いかにも訳知りげな物言いも腹立たしい。逆らいたくなる衝動を、しかし、円雅は堪えた。今、胸には密かな思惑があったのだ。
「あなたはいつでも姉さんの味方なのね、白水さん」
「そんなことはありません」
「そりゃそうよね、人の家に押し入ってまで思い通りにした恋人ですものね。あなたの目には姉さんにか映っていないのよ。だからお父様に弟子入りしたんだわ」
円雅は拗ねたように唇を尖らせてみた。演技だった。が、白水はそれには取り合わず、
「円雅さん、大丈夫ですよ。帝都日報の天城さんならあなたのお相手としてとても相応だ。突然聞かされたから波流子さんも気が転倒しただけです。ゆっくり落ち着いて話せばきっと解かってもらえますよ」
「本気でそう思うの?天城さんが私の恋人だって?」
「でも、そうなんでしょう」
「ひどい人ね!」
何故、そしられたか判らず、黙り込んだ白水に、円雅は尚も、
「ひどい人ね。彼は恋人でも何でもない。恋しいなんて一度も感じたことさえないわ。何故、私がそんな人と一夜を過ごしたりすると思うのよ」
言いながら、円雅は白水に一歩ずつ詰め寄っていった。
「あなたに振り向いて欲しいからだわ。いつもいつも、姉さんの方しか見ていないあなたに、ちょっとでも私に関心を持って欲しかったからよ」
徹夜明けの目を驚愕に見開いて、青年はまじまじと断髪の娘を見つめた。
「何故、姉さんなの。私はこんなに若い。いくら姉さんの器量が良くても私の方がずっと若いのよ。なのに何故、あなたは姉さんしか見ないの、最初から」
青年の胸にすがりつかんばかりに頬を近づけ、甘い声を出した。
「――――何を考えているんです」
唐突に青年は反撃に出た。
「あなたの目はこれっぽっちも私を好いたりしちゃいない。鈍感な私にもそれくらいは判ります。ただ波流子さんに張り合って、そんな子どもじみた嘘を言うのならよしなさい。自分が惨めになるだけだ」
さっさと踵を返して居間を出ていこうとする。見送る円雅の唇が悔しさにかみ締められた時、白水は振り返った。
「本当に、あまり波流子さんに心配をかけないで下さい。あの人は今、普通の身体じゃないんですから」
彼が扉の向こうへ消えると、神々しいばかりの朝の陽射しが部屋に満ちた。
(普通の身体じゃない――――?)
耳の手前のひと房の髪がはらりと視界を遮った。急に背の帯や長い袂が重く感じられた。
円雅の虚ろな瞳は朝日に照り返す床の木目に当てられながら、少しも見ているものを意識していない。彼女の意識はたった今、背を向けて立ち去っっていった青年の残像ばかりが浮かび上がっている。
あざれの章 終わり
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五 青蓮の章
障子に映る青い影を、会話が途切れたしばしの間、初老の男女三人は誰からともなく眺めていた。塗りの膳の上に並んだ、いかにも京料理特有の繊細な品々は、今しがた仲居が置いていったばかりのものである。
差し向かいに座に着いた大津路洋一郎と出羽教授は、すでに酌み交わし始めており、鶴を思わせる細長い首の女将が挨拶を済ませたところだった。
清水の界隈とはいっても、産寧坂の露地を数丁も入ってしまえば通りの喧噪は異世界のように遠い。ましてや自慢の広大な庭を持つこの料亭は、翠(みどり)の滴るような若葉の洗礼を多分に受けて静謐(せいひつ)そのものだった。ようやく初夏の長い日が落ち始め、東山にも夕暮れのさやかな風が吹き抜けようとしている。
老人特有の班を浮き上がらせた手で、それでもいかにも玄人(くろうと)らしいそつの無さで、女将はふたりの杯を空かせることなく、まめに酌を繰り返す。
「おふたりさんがお揃いやすとは、玉満(たまみつ)はんもさぞ喜んでおいやすことですやろ」
この世界で長く生きてきたことを立証するかのような、女将の一筋も乱れもない髪や、灰緑の紗の着こなしである。
「あの妓(こ)の命日も忘れんと、よう参ってくれはりました、ほんまに、ほんまに」
女将の目頭にうっすらと熱いものが滲む。
「あれから何年になるかな、女将」
出羽教授が感慨深げな面持ちで尋ねると、洋一郎が代わりに、
「かれこれ三十年ですな。今年こそは墓に参りたいと、以前から個展を京都で開く算段にしていたというわけです」
「私の方は西域探検が長引いてしまい、間に合うかどうか危ういところだったのだが、まさかばったり大津路くんと出くわすとは、あれが死んで後までも君とのえにしは浅からぬわけだな」出羽教授は苦笑してからしみじみと「三十年――――もうそんなに」
「あの頃は先生は京大の研究室に在籍され、私は田舎から出てきた貧しい書生だった。先生はともかく、私なんぞは吉原の娼妓を買ったりできる身分ではなかった。でも、自分の食い扶持を切り詰め、借金をふくらませてでも彼女の元へ通わなければならなかった。何故だかわかりますか」
「私に取られると思ったからでしょう」
出羽教授は余裕のある笑いを見せた。
「そう、その通りです」
「ほんまにあの時分は、昨夜は出羽はんか、と思えば今宵は大津路はん。いつおふたりが鉢合わせしやはらしまへんやろうかと、仲居頭してましたあては気が気やおへんどした」
女将が遠い眼をして、銚子を持つ手を宙に止めた。
「そうそう、覚えてますえ。出羽はんは出羽はんで、大津路くんが買いに来ても玉満に会わせるな、言わはって、あてに無理やり袖の下握らさはりましたし、大津路はんは大津路はんで、出羽はんが来はっても、玉満に相手さすな、言わはって、骨董品みたいな簪(かんざし)やら帯止めやら持ってきはるし、あて、もうどうしたらええのか辟易しましたわ」
「てなこと言いながら、ちゃっかり双方から甘い汁吸ってたことを白状したな、女将」
「いや、えらいこと言うてしもた」
額を叩いた、大仰な仕草に部屋の空気が笑いにどよめいた。彼女の勧めでふたりの男は膳に箸をつけ、味わい始めた。筍や山家めいた季節のものが、さすがは京都の料亭と、今はすっかり地位も名誉も得たふたりの男の舌を満足させる出来栄えの品々に仕立て上げられている。