夜は更け、酒場でさえ疲れた眠りにつく頃――――――、キャスケードは廃墟に辿りついた。デニーゼが仮の宿としている場所に思い当たったのだ。
「デニーゼ」
礼拝堂には破れた屋根から濃密な月が忍び入っていた。虫がかまびすしく啼いている。
藁の上に白い背中が横たわっている。全裸だ。キャスケードは見つけたと同時に、少女に起こった残虐な出来事を解した。
「デニーゼ?」
肩を抱き起こし膝の上に乗せてみて、キャスケードはごくりと唾を飲み込んだ。
デニーゼに間違いはないが、それは彼の知るチンクシャでソバカスだらけ、肋骨が浮き出るような痩せっぽちの野良猫とは天と地ほども違った。おそらく彼が見たこともないほどの芳醇な匂いを発散させた美女――――――白絹のような肌にはシミひとつなく、はりのある乳房は水密桃、濃い睫毛は通った鼻筋に影を落とし、唇といったらルビーを蕩けさせたようだ。しなやかなブラウンの髪は滝のように若者の腕に巻きついて渦巻いている。
「デニーゼ・・・・」
しかしこの美しさと背中合わせに存在する禍々しさとでもいう臭いを、キャスケードは敏感に嗅いだ。どこかで嗅いだ臭いだ。
不意に、背中にそれに似たものを察知した。放置されたパイプオルガンの上で、小鬼の眼が真珠色に光ってこっちを見ていた。
「貴様だな、真珠売り。デニーゼを踏みにじりやがったのは」
気を失ったままのデニーゼを静かに置いて身体に藁をかけ、癇癪持ちの若者は立ち上がった。
「くっくっく」崩れ落ちた壁の影から、不気味な笑い声が響いた。「媚薬の真珠を欲しいというから、それでは足りぬと美を得る真珠を授けたまでさ」
「で、味見までしたってわけか」
「くっくっく、何をムキになっている、綺麗なにいさん。お前はその娘を愛しているわけではなかろうに」
「だからって、だまってられるか。このペテン師ガキ」
キャスケードはキバをむいた。癇癪玉が破裂寸前だ。
「お前の愛する者を知ってるよ。あの竜蛇大陸の男だろ。血の最後の一滴、魂の髄までむさぼり食らいたいほどあの男が恋しくてどうしようもないんだ」
「黙れ!お前みてえな魔物にはそんなよこしまで汚れた発想しかできねえだろうが、俺とジャレツはそんな関係じゃねえ!俺とあいつの絆は――――――キ、ジュ、ナは――――――」
真珠色の眼が真っ向から射抜いてくる。キャスケードはろれつが廻らなくなってくるのを感じた。変だ。こいつの眼を見ているうちに――――――。
手足から力が抜けてゆく。頭の中に靄がかかったようだ。いつしか真珠売りは竪琴をかき鳴らしていた。銀髪の短い巻き毛の頭部をひょいと傾げ、気だるい音律を奏でるさまは、まるで妖精のようだ。
「こいつは・・・・」
キャスケードは懸命に睡魔に似た誘惑と戦った。足を踏ん張り瞼がふさぐのに逆らい、歯を食いしばる。
真珠売りポセイディオーンはやおらパイプオルガンから立ち上がり、ひと跳びの跳躍でキャスケードの面前へと着地した。竪琴をくるりと背中へ回し、頬ずりするほど間近に若者の顔を両手で引き寄せ濃密な視線で舐めまわす。
肩までしかない背丈の少年にこうべを捕らえられ、キャスケードは身じろぎもならない。
「妬けるくらい綺麗な顔をしているねえ、にいさん。生まれつきそんなに綺麗なの?あの竜蛇の男が手放さないのもわかる気がする」
「何を、寝言、ほざき、やがる」
キャスケードは真珠売りの光沢のある顔にツバを吐きつけた。
「顔は綺麗でもその根性ではね」真珠売りは相手を睨みつけながら顔面をぬぐった。「せっかくあの男をルナシルダから奪い返す方法を教えてやろうというのにさ」
「お前、どうして、そのことを」
真珠売りは少女のような笑い声を発した。
「何でもお見通しさ、狙った獲物のことは。よくお聞き、にいさん。ジャレツを取り戻したかったら、いくらあんな女の子を美女にしたって無駄だよ。彼の心を捉えるのはとうの昔に冥府へ旅立った妻ひとりさ」
「――――――――!」
「お前、どうしてそこまで、と聞きたい顔だね。何でもお見通しだと言ったろう?」
キャスケードの脳裏で、モイザが言った言葉が甦った。
―――――――――死に場所を捜しているのさ、自分が殺しちまった女房に逢うために。
「これをごらん」
真珠売りの小さな可愛い唇から、ひと粒の真珠が吐き出された。月光を受け、てのひらに転がされるそれは、蜂蜜色に輝いている。
「冥府の女の魂が、これを飲んだ者の身体に降りる。言わば、これは冥婚を叶える真珠なのさ」
「冥婚を、叶える、真珠。目をそらしたくてもそらせない。キャスケード自身、真珠から魅入られているような気がした。
「これを飲めば、愛しい男に抱いてもらえるよ、にいさん。夢のような真珠だろう?さあ、遠慮はいらない、お飲み」
再び真珠売りの愛らしい唇はそれを含み、キャスケードの唇に近づける。
「よ・・・・せ」
脂汗がキャスケードの額に浮かび、がたがたと歯が鳴った。かすかに冷たい唇が触れる。
―――――――と、その瞬間、乱暴な足音がして、巨漢がなだれ込んできた。真珠売りは数しゃくも離れた祭壇に、キツネのように跳びすさった。
「ちいっ、もう少しのところを!」
巨漢たちは湧き水の井戸の衛士だった。彼ら八人は巨大な身体とも思えぬ敏捷さで槍を繰り出し、真珠売りを何度も跳び下がらせた。祭壇の燭台が次々に壊され、朽ちた卍字架が折られたが、槍は野ウサギより素早く逃げ回る少年を貫くことができない。
少年もまた、衛士の攻撃に眉間を寄せていた。彼らの兜に象嵌されているロンダムの紋章が彼を畏怖させているらしい。
ついに少年はあきらめた。
廃墟の壁をひと跳びにして、肥え太った月を背景にシルエットを浮かび上がらせると、唐突に消えた。
「待ちやがれ!」
気力の戻ったキャスケードが追おうとしたが、壁の向こう側には気配さえなかった。
八人の衛士たちは整然と並び、広場へ引き返してゆく。キャスケードはぞくりとして振り向いた。卍字架の陰に、長身の女が立っていた。月の光を受けた面は見覚えのある美貌だ。
「ルナシルダ・・・・」
「さっさと立ち去りなさい、若者よ。金輪際、ジャレツのことは忘れなさい。どんな手を使おうとジャレツは渡しません。また真珠売りの毒牙にかけられないうちに遠くへ行っておしまいなさい」
女は強硬な口調で言い渡すと、きびすを返し、衛士たちの列の最後に連なった。
「何故ジャレツなんだあ?」
キャスケードの問いが廃墟に虚しく響いた。
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