「そらよ、ぼやぼやすんな、新入り!」
靴ブラシのような髭をたくわえた大男が、またもや汚れた皿を山のようにキャスケードの前に積み上げた。
「ふええええ、こんなにい」
ケチャップまみれ、ソースまみれの皿を大車輪で洗うキャスケードの手はすでに真っ赤だ。当面の宿代を捻出するために旅籠の皿洗いを始めたのは、ジャレツから拝領した手切れ金を少しでも減らさないでおこうという涙ぐましい決心からだ。すべてはデニーゼに真珠を買うためなのだ。しいては、ジャレツを取り戻すためなのだ。しばらくの辛抱だ。
「ええ、くそ、旅籠中の皿でもナベでも持ってきやがれってんだ」
腕まくりしなおしてふと、窓の外へ目をやった彼は、やにわにエプロンを引っぱがし、調理場を飛び出した。
「うわ、おっとっと、どこへいく新入り!」
皿を追加しにきた靴ブラシが怒鳴るのが背後で聞こえたが、かまっているひまはない。待ち望んだ真珠売りらしき姿がちらりと窓の外に見えたのだ。
月は黄金色。月齢が満ちてきていた。
広場では、真珠売りから念願の真珠を買った邑人が、珠の艶を眺めては月光に透かしたり頬ずりしたりと、恍惚の花園に遊んでいる。
真珠売りの竪琴の音色が遠ざかってゆく。
「デニーゼ!デニーゼ!」
念のため、見張らせておいた少女の姿も見えない。手切れ金を全部、預けておいたのに。
うようよとゾンビのように群れる人々を押しのけ、蹴散らし、キャスケードは懸命に捜し続けた。
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デニーゼはふわりふわりと雲の上を歩くような心地で真珠売りの後をついていった。
この竪琴と彼の歌声を聞くと、頭の片隅しか覚醒している部分がなくなってしまう。なんとも甘やかで、世の中が楽しくって哀しいことなんか忘れてしまう。ちょうど夢迷いの薬にほろ酔い加減になったかのように。
先を行く真珠売りの瞳が時折、不敵な笑みを浮かべながら少女を振り返る。
「媚薬の真珠が欲しいんだって?だめだめ、それだけじゃ相手の心はおちやしない。お前のような不器量な娘ならなお更さ」
「じゃ、どうすれば?」
「美しさを得る真珠をお飲み。それから欲しい相手に媚薬の真珠を飲ませれば――――」
「本当?」
「その前にもうひとつ。どこか、静かな場所へ行こう。誰もいない、月光の降る音が聞こえる場所」
そしてふたりは邑はずれの教会の廃墟へとたどりついた。最近、デニーゼが夜露をしのいでいるところである。
「これが媚薬の真珠」代金を受け取ってから、真珠売りは一粒の灰色の真珠を少女の掌に置いた。そしてもうひとつ、薔薇色の真珠を取り出し、「これがお前を世界で最高の美女にする真珠だよ」
言いながら自分の薔薇の蕾のような唇に含む。
「で、でも二つ分も代金は持ってないわ」
真珠売りはかまわず少女を藁の上に押し倒し、唇を重ねた。真珠が少女の口に転がってきた。
「だからお前の魂で支払ってもらうのさ」
唇を肌から離さず、真珠売りは言った。
「でも、ポセイディオーン・・・・」
デニーゼは自分の声を洞窟の彼方からの声のように聞いた。手足は無幻の葉の呪縛にかかったように重い。崩れかけた礼拝堂の壁を、蜂蜜色の月光が滑り落ちた。
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