「きっとルナシルダの差し金だわ。ひどい女なんだから」
キャスケードはようやく少女を解放した。札を渡すのも上の空で少女から聞き出した事実を反芻する。
(ジャレツの野郎を無理やり馬車で連れて行っちまっただとお――――――?)
いくら湧き水の衛士たちがつぶぞろいの猛者どもであってもジャレツの腕っぷしの強さを知りぬいているキャスケードには信じられぬ光景である。
泥水を前髪から滴らせながら、彼は唸った。
「キャスケード」
札を数えながら、デニーゼがうって変わった不敵な表情を浮かべた。
「あんた、取り戻したいんだろ。あの人を」
「誰が!」
強がって夕空を仰ぐ若者の口元がひきつっている。
「無理しなくてもいいよ。ね、あたいにポセイディオーンの真珠を買ってくれたら、あの人を奪い返してあげる」
「なに?」
「だから、この間から言ってるでしょ。ロンダム家のルナシルダから当主を奪って、あの女を追い出してやりたいって」
頬を黄昏のヴァイオレットに染めて決意を吐く少女の言葉に、キャスケードは度肝を抜かれた。
「お前、何考えてんだ」
「ルナシルダが憎いんだよ。あたいのたったひとりの兄ちゃんをめちゃめちゃにした女」
「お前の兄貴を?」
少女はこっくりとした。
「おかげで兄ちゃんは人間でなくなっちゃった。笑いもせず泣きもせず、あたいを見ても誰だか判らない――――――木偶の坊に」
ソバカスの頬に悔し涙が伝った。
「どういうこった?」
「ルナシルダの人形にされてしまったのさ。そら、今夜もそこで忠実に勤めに励んでる」
少女の指が、路地の隙間から見える広場の井戸を――――――護りに着いている八人の衛士たちのひとりを指した。
「まさか――――――」
「右端にいるのがあたいの兄貴、ネルゴ。ううん、兄貴だったって言う方がいいかな」
目深に鉄兜をかむり、辺りにスキの無い視線を投げている衛士たちが、一人残らずあの人間離れした美しい女の操り人形にされているというのだろうか。
「まさか」
「本当よ。あの女は普通じゃない。そういう力を持った妖女なんだよ。ほら、見て」
少女はあごをしゃくった。
いつぞやのせむしで小人の老人がまたぞろ同じ体型の仲間を引き連れ、井戸へやってきたのが見えた。また湧き水をくれと懇願しているのだろう、石畳に矮くを這いつくばらせているが、衛士たちの対応も相変わらずだ。
キャスケードは路地の出口までゆき、耳をそばだてた。
「どうか、どうかルナシルダ様にお願いを」
せむしの老人が震える手を差し上げながら言った直後である。仲間たちが二、三人、横っ飛びにとんでゆき、石畳に叩きつけられた。衛士のひとりが殴り飛ばしたのだ。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うせむしの一族たち。老人だけが恐怖に身をすくませ、逃げることができずにいる。
衛士は顔色ひとつ変えず、槍をかまえた。
「危ねえ!」
自分でも無意識のうちに、キャスケードは飛び出してせむしの老人の身体を抱きかかえていた。槍がキャスケードのブーツをかすめて石畳の隙間に突き立った。
「な、何をしやがる、無力な年寄りに!」
衛士のひとりは表情も変えず槍を抜き、何事も無かったように持ち場に戻る。
「任務だかなんだか知らねえが、たかが水の一杯や二杯けちけちすんなよな」
思わず脳天が火を噴き、抗議したキャスケードの首筋を、爬虫類の這うぞろりとした冷たい感触がした。
感情の宿らぬガラス玉の眼。まさに衛士の眼は人形のそれだったのだ。
キャスケードの腰ベルトを、せむしの老人がひっぱった。
「よすがいい。やつらに何度言うても無駄じゃ。お前さんまで巻き添えくうぞ」
「けどよお」
キャスケードは情けない顔で側に来ていたデニーゼを振り返った。
「わかったでしょ。兄貴はもうあの女の忠実な番犬でしかないんだ。うっかり夜に井戸に近づこうもんなら串刺しか煉瓦で殴られて挽肉にされちまう。普通の人間の力じゃないんだ、この湧き水番たちは」
デニーゼは哀れな兄の横顔を見つめる。
キャスケードの胸を警鐘が鳴り響き、身体の内部を縦横に駆け巡った。ジャレツもまた、あの絶世の美女に操られているのだとしたら―――――――。
悪酔いも、癇癪玉も、キャスケードの脳天で凍結した。
「デニーゼ、教えろ。どうすればジャレツを取り戻せる?」
急に態度を翻したキャスケードに、デニーゼは面食らった。
「あたいに媚薬の真珠を買うお金を貸して」
「いくらだ、これで足りるか」
ジャレツから渡された手切れ金の包みを取り出しながらせっつく。
「お若いの」
せむしの老人が白濁した眼で若者を見上げた。
「まだいたのかよ、爺さん。串刺しにされねえうちにさっさとずらかりな」
「この前にわしの言うたことが現実となってしもうたようじゃの、お若いの。大事な大事な男をルナシルダのとばりの奥深く隠されてしもうたか、気の毒にのう」
「うるせえ。爺さんにゃ関係ねえだろ」
キャスケードはいらいらと言い返した。
「時に、真珠売りに用があるようじゃが」
「それがどうしたってんだ」
「それなら月が満ちるまで待ちなされ。あれは今宵のように月が痩せた夜には決して現れぬゆえ。ひっひっひい」
キャスケードとデニーゼはそろって空を仰いだ。なるほど、今宵の月は餓死寸前の魔女のようだ。
「あのくそ忌々しい護符さえなければあんな衛士の八人やそこら、わしの敵ではないものをのう」
せむしの老人がぶつぶつと口の中でつぶやきながら、傷ついた仲間に肩をかして去ってゆく。
紫のとばりはいよいよ濃くなり、邑はまた騒擾と神秘を織り交ぜた夜を迎える。
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