「終わりましたか?」
馬車に揺られながら、麗人が尋ねた。
ジャレツがうなずく。
「本当にこれであいつには指一本触れないんだろうな」
「約束は守りますわ。さあ、あなたはロンダム家の当主。くだらぬことにいつまでも関わりになられぬことです」
濃い紫のヴェールをまとったルナシルダの表情は馬車の席で向かい合っていても窺い知ることはできない。先夜、月の光に煌いていた銀髪も厚いターバンの下だ。
「あなたの義務。それは湧き水の鍵の管理。衛士たちの統率。そしてロンダム家を護りもりたてていくこと、の三つだと申し上げましたね」
「耳にタコだ」
「中でも湧き水の管理は絶対です。地下湖の一族には一滴たりとも水を与えてはなりません」
「何故だ。地下湖の一族とやらに何か怨みでもあるのか?」
「私たち湧き水の一族と彼らとは何千年も昔から敵同士なのです。詳しいことはおいおい話しましょう。当面はロンダム家の安泰を彼らに見せつけることができればよいのです」
「いきなり連行して、窮屈な生活しろってのはちと殺生だぜ」
ジャレツは脂で撫でつけた髪をかきむしった。
「ほほほ、ロンダム家で贅沢三昧させてあげようというのですよ。多少、窮屈な生活が何だというのです。気にそまぬ女まで閨に呼べとは申しません」
「第一夫人のあんたとしても、気に染まぬ男の閨に足を運ぶつもりはないようだしな」
ルナシルダのヴェールが憮然とした。
「それと」
気まずい時間が流れてから、彼女はいっそう厳しくクギを刺した。
「あの真珠売りポセイディオーンには、ゆめ近づかれませんよう」
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暦は進み、月がやせ細った。
盛り場から小路を折れ、またいっそう細い路地を行ったところにモイザの私娼窟はある。
デニーゼが一度しか来たことのないこの店へ足を運んだのは、ひょっとして、あのマダムなら大きなお金を貸してくれるかもしれないと、わずかな望みを持ったからである。
もちろん、一度は身体を売る決心をしたからには、マダムに交換条件を言われても仕方がないと思っている。真珠の代金だけでなく、自分の食べるもの、住む所さえ無い身だった。最近まで仮住まいをしていた牛小屋の軒先は、少女の兄が帰ってこなくなると、追い出されてしまった。
今日食べる黒パンのかけらさえ、少女には買う金は無かった。しかし、そんなことはちっとも苦にならない。要は、真珠代さえあればいい。
(勇気を出して)
玄関で立ち止まって、拳を握りしめてから、いざノッカーを叩こうとした時である。
扉が開け放たれたと思うと、猛烈な勢いで何かが夕暮れの路上に放り出された。次いで、荒牛顔負けの鼻息で飛び出してきた豊満な女が路上に伸びている人間にバケツの水をお見舞いした。
「無茶もいい加減におしっ!店の娼婦たちは残らず買い上げるわ、酒は浴びるように飲んじまうわ、挙句の果てに椅子は壊すわ、ガラスは割るわ、ベッドは切り裂いちまうわ、いったいこれが狂人じゃなくて何なのさ!」
鬼神の形相のモイザだ。
ずぶぬれになったキャスケードはかまいもせずへらへら笑って泥水を泳いでいる。
「へ、へ、へ、・・・・俺は邑長様のダチ公よ。いっくらでも請求書書いてくんな。そら」
虚空に札束をばらまく。泥水に散り乱れるそれを見て、若い娼婦たちが歓声をあげて群がる。
「おやめっ!」
モイザの大喝が響いた。
「しっかりおしよ、にいさん。ジャレツがくれた金なら大事にしなきゃ。これだけありゃスノウバードの都でひと仕事の元手に充分じゃないか!」
キツネ色の髪を泥色に染まらせ、キャスケードは自嘲に唇をゆがめる。
「手切れ金だとよお。へへへ、上等じゃねえか。俺との歳月がこんな紙切れでおしまいにできると思ってやがる」
「甘ったれるのはおよし!そんなだからジャレツに愛想つかされるんだよ。もう二度とうちの店には来ておくれでない!」
扉を閉めようとするモイザを、かたわらにいた少女が慌てて引き止める。
「な、なんだいお前。ああ、この前の子?」
「マダム、マダム、あたいの一生のお願い。お金を貸して!媚薬の真珠を買うお金」
「何だって?」
突拍子のない願いにマダムは濃く隈どった目を丸くした。お願い。何年でもここで働くから!」
「お断りだよ、お嬢ちゃん。いくら私娼館でも、私のお眼鏡にかなった一級品でなければ商品にしないのが私のモットーでね」
「マダム、後生だから」
店のエントランスでもみあうふたりを、酩酊していたはずのキャスケードの目が捉えた。
豹のように鋭く飛びかかり、少女のか細い腕を爪が食い入るほど強くつかむ。
「やっと見つけたぜ」
デニーゼは反射的に逃げようとした。
「おっと、逃がすかい。一週間捜しても逢えなかったんだ」
「痛い、離してよ」
モイザが渡りに舟とばかりに、
「お嬢ちゃん、金が欲しけりゃその兄さんにお言い。懐にたんまり持ってるよ」
今度こそ激しく扉は閉じられた。
キャスケードは露地の反対側に嫌がる少女を引きずっていった。
「ちょっくら聞きたいことがあんだよ。お前、この前の夜ジャレツと一緒に帰ったよな。そん時、何があった?」
「知らない!あたいは何も」
少女の眼はおどおどと落ち着かない。何を怖がってる。何か知ってるな」
「あたいが足をくじいていたから、おぶってくれて、この辺で別れた。それだけさ」
「嘘をつけ」
キャスケードは懐から数枚の札を出し、デニーゼのソバカスの頬を叩いた。
「白状したら、これをやる。お前の身体でこれだけ稼ごうと思ったら幾晩かかるかな」
デニーゼが札に手を出そうとすると、キャスケードは素早く懐深くに隠してしまった。少女は口ごもりながら、話始めた。
「あの夜、真珠売りのポセイディオーンがやってきたんだ。素晴らしい歌声で・・・・。あたい、あの声を聞くと、頭がぼんやりしちゃって自分が何をしたのかよく思い出せなくなるの。たしか、ポセイディオーンがあの人を呼んで・・・・」
少女の言うには、ジャレツが真珠売りの方へ踏み出しかけたとき、湧き水を衛る八人の衛士が突如として動き出し、彼を取り囲んだというのである。あっというまに少女は背中からはがされ、ジャレツは拉致されてロンダム家の馬車に放り込まれたというのだ。
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