第 二 章 月下の誘惑
砂漠の中の邑なのに、深い霧が発生するのは豊かな湧き水のせいだろうか。その霧を割って朝日が射し初める頃、邑の広場はもう活気に満ちている。朝市の商人は作物を山積みにして声を張り上げ、放牧に出かける羊の群れがけたたましく啼き騒ぎ、湧き水の井戸には内儀さん連中がバケツを持って並びながら噂話に余念がない。喧騒の極みである。
その中で、空間を隔絶されたかのように八人の衛生たちだけが昨夜から一歩も動いていない様子で鍵が到着するのを待っている。
「ふうう」
キャスケードは広場の隅の煉瓦塀にもたれかかりながら、大きなため息をついた。二日酔いは容赦なくこめかみにハンマー打ちを繰り出してきて衰える気配もない。
あまり覚えてはいないが、どうも昨夜は醜態をさらしてしまったようだ。子どもみたいに泣きわめいたような記憶がおぼろげに残っている。目が覚めた時にはモイザはだらしなく眠りこけており、顔をあわせるのも決まりが悪くて、こっそり娼館を後にしたのだった。
「それにしても」
ジャレツが遅い。昨夜、モイザの店で別れ際に湧き水の広場で落ち合うことになっていたのに、太陽は刻々と昇っていくばかりだ。いらいらとこめかみを押さえながら周りを見回したとたん、教会の鐘が鳴り、頭の中は大パニックに陥った。
乳色の霧の中から、昨日見た四頭立ての馬車が現れて広場に到着した。邑人たちは水をうったように静まり、道を開ける。
扉が開き、ロンダム家の家令オルビン老人が恭しく真紅のびろうどに乗せた鍵を持って登場した。まっすぐ衛士頭の方へ行き、鍵を渡す。頭が鍵で古井戸を囲った鉄条網の錠前を開けると、辛抱強く見守っていた邑人たちは歓声を上げ、どっと殺到した。
突如、広場の空気がひきしまった。
立ち去りかけていた八人の衛士が一列に並び、かしゃりと槍を鳴らして直立不動の姿勢をとる。
つるべに群がっていた邑人たちもしばし手を止める。
鍵を捧げ持ったまま、オルビン老人が鶴のように首を伸ばし、告げた。
「邑長さまのご視察――――――う」
一段と豪奢な馬車がやってきた。轍の音もけたたましく、古井戸のかたわらに停車する。
御者が飛び降り、手際よく乗車口に目も綾なしき物を敷いた。それを踏んで降り立った男を見て、邑人たちがどよめいた。
オルビン老人がしわがれ声をしぼりだす。
「ロンダム家の新しい当主、湧き水の邑の全権を統べる新しい邑長、ジャレツ様である」
キャスケードはわが目を疑った。
「ジャ、ジャ、ジャレツ――――――?」
四頭立ての豪奢な馬車を背にして立つ男。まごうことなき長年の相棒、ジャレツだ。だが、こんなに美々しく海老茶の民族衣装をまとい、剛い黒髪を髪脂でとかしつけた横顔をキャスケードはかつて見たことがない。おまけに表情はこ揺るぎもなく威厳に満ちて、すっかり当主様になりきっているではないか。
八人の衛士たちが槍を持ち上げ威儀を正す様子をゆったりと歩きながら睥睨する。
「ロンダム家の、あれが行方不明になっていた弟君かい」
「なかなかどうして品といい、体格といい、立派な当主様じゃないかね」
ささやきかわす内儀さん連中の評判も上々だ。
古井戸の水量豊かな様、邑人たちの潤った表情を確認した新しい当主は、やがてオルビン老人に頷いてみせると馬車へ戻るべく、きびすを返した。
「ジャレツ!」
人垣を蹴散らしてまろび出てきた若者を、ジャレツはゆっくり振り返った。
「ははは、こ、こりゃ何かの冗談だよな。俺をからかってるんだろ、ジャレツ。な?」
弱弱しく、けれども懸命にキャスケードは言った。しかし、ジャレツの瞳には一石も投じられなかった。かまわず、馬車に乗り込もうとする。待ってくれよ。どうしたんだよ。わかんねえはずねえだろ、俺だよ、キャスだよ」
返事の代わりに、ジャレツはやおら懐からびろうどの包みを取り出し、若者の足元に放り投げた。
はみ出た尋常でない量の札束に、人垣からどよめきが洩れた。

「手切れ金だ。とっととどこへでも行くがいい」
「手、手、手切れ金だって―――――――?」
キャスケードの心臓が凍りついた。
へなへなと石畳の上にへたり込み、ぼんやりと広い背中を見やる。目に馴染んだ逞しい背中。まだキャスケードがこんなに背が伸びる前、幾度か背負われたことのある背中だ。
その背中を、馬車の扉がさえぎった。
御者が鞭を振り下ろし、車輪が動き始める。急いで駆け寄ろうとしたキャスケードは太いひずめに蹂躙されかけ、転がった。
「ジャレツ!ジャレツ――――――!」
何度も見た光景、悪夢の再現だ。
「手切れ金てのはイロにやるもんじゃねえかよ、ジャレツ――――――!」
人だかりの陰から、デニーゼが小さな肩を震わせて見つめ続けていた。
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