白い額から汗が滴り落ちた。
粘土を捏ねる手元にそれが混じろうが、一向に気づきもせず、白水はもう何時間も一心不乱にその作業を続けている。人形の型を取るための塑像を作る粘土を捏ねているのである。
夜明けのアトリエには彼の姿しかない。もっとも師の大津路洋一郎は京都で開かれる個展のため、ふたりの弟子を連れて出かけており、留守を守るのは彼だけなのである。師や兄弟子から言われた雑用はとうに片づけてしまい、彼は何やら独り言を呟きながら一晩中、粘土と格闘している。
深夜、波流子が運んできた夜食にもついに箸がつけられた気配はない。ただ、その時には粘土だらけの手で彼女を抱いた。
師のアトリエであろうが、昼間の居間であろうが、ふたりきりになれば必ずと言っていいほど白水は波流子を求めた。
波流子は白水の視線にさらされると、まるで朝になれば鮮やかに開く睡蓮のように彼に惹きつけられ、彼を受け入れる。常日頃の、行儀作法に一糸乱れぬ彼女を知る者が見れば、目を瞠るだろう。白水の腕の中にいる彼女はまるで別人である。
だが――――、彼女を恍惚に追いやる白水の眼は醒めている。彼をつき動かすのは単なる欲望ではない。もっと深く、冥く、思い詰めて凝り固まり、長い歴史を引きずった執念なのである。うっとりと愛撫に酔う波流子にはそれが見えているのかどうか―――。
そうして、彼はまた粘土を捏ねる。
白い額から汗が滴る。濁った汗がこめかみを、頬を辿り唇へと流れ込む。いかにも知性的なその唇が、今は狂おしく吐息混じりにしきりに言葉を洩らす。何やら聞き取り難い呟きを、まるで粘土に煉りこんでいくかのように、
――――マルガリイタ……。
幾度も幾度も青年の口からその言葉は洩れる。
どれほどの時が過ぎたのか…。白水がようやく顔を上げた時、窓の外の棕櫚の葉は明け方の菫色の空気の中で息を顰めていた。腕で額の汗を拭い、大きく息をつく。手元の粘土の塊はただ、それでしかない。まだ遠い工程を思って、白水のそれを見下ろす視線はやや疲労を浮かべた。
彼の耳に、唐突に女の高い声が届いた。アトリエとは真向かいの母家の方からである。
そういえば、昨日の夕方から外出した円雅がまだ帰らないと、深夜、波流子が苛々とした眼でこぼしていた。苛々などさせたくはないというのに。
白水は舌打ちするとアトリエを出て、中庭を渡る廊下を通って母家に向かった。母家に入ると言い争う声はさらに迫った。
居間に入った彼の前で、ふたりの女が睨みあっていた。
波流子は昨夜から着替えていない素袷のまま、円雅は昨日、出かけた時の振袖姿のままである。
「どれほど……」波流子の昂ぶった声が沈黙を破った。「どれほど心配したと思うの、あなたって人は。あんまり遅いものだからホテルへ電話してみたら、早川先生の方から円雅さんはどうされたんですか、と尋ね返されたわ。さ、お言いなさい。いったい何処でどうしていたの」
「言わなければいけないの」
円雅は手提げ巾着をぶらつかせたまま唇を尖らせた。
「当たり前じゃないの」
「卒倒しても知らないから」くるりと後ろを向いてみせた。「この帯、結んでくださったの、どなただか姉さんに判る?」
ふくら雀に見事に結ばれた西陣織の帯は昨日の結び方とはっきり異なっている。妹の言いたいことがつかめずに呆然と見入る波流子に、円雅が大きく息を吸い込んでから言い放った。
「天城さんよ。帝都日報の天城さん」
「………」
波流子の唇の端が痙攣した。
「そういうこと。私はもう姉さんのお人形さんじゃないの。大人の女なのよ」
「まあちゃん!あなたのどこが大人なの、私がいないと何もできないねんねじゃないの」
「できるわ、自分で物事を選んだり、自活だって。何にもできないだなんて、姉さんがそう思い込んでるだけよ。その方が自分に都合がいいからだわ」
円雅の、澱のように淀み積もった恨みがこの朝、爆発した。こんな勇気が湧いたのは、朝帰りを叱られた反発もさることながら、昨夜、天城が味方になることを約束してくれた心強さも手伝ったからに相違ない。暗黙のうちにタブーになっていた言葉さえ飛び出す。
「私は自分の意志で生きていきたいの。妹だからって、娼妓上がりの後妻が産んだ娘だからって、どうして何から何まで姉さんに服従しなけりゃならないの」
「まあちゃん、私がいつ服従なんてさせたというの。いつもいつもあなたのためを思い、女学校だってあなたが行きたいところに決めて、ピアノだって存分させてあげてきたわ。いずれはあなたに相応しい立派な旦那様を決めてあげようと、それが母親代わりの私の努めだと思っていたのに、それなのに、穢れの無い身体をあんな無頼の人に」
波流子の全身が憤怒に震えて後は言葉が詰まった。
円雅は、つと身を翻して断髪を振りさばき、大きく息をついた。そして戸口に棒立ち青年を蔑みの視線でちらりと見やり、
「ご自分はどうなの、姉さん」
姉の急所を刺し貫いた。
「整いかけた縁談をお断りになって、ご自分を凌辱した方と、だなんて」
「まあちゃん……!」
波流子の顔から血の気が退いた。
揉みしぼっていた両手は行き場を失い、頬や喉元、両の腕(かいな)を忙しく彷徨い、かさついた唇は二、三度声無き声を発そうと試みたが失敗し―――そして、ついに瞳がすう、と吸い込まれるように上瞼に消えたと同時に、彼女の身体はくずおれた。間一髪、音もたてずに白水がその背へ廻り込み、支えていた。