一 沈丁花の章
湯気を立てるやかんの音が耳朶に届いている。
円雅(まるが)はそれを睡(ねむ)りと現実のはざまで聞きながら、風紋のイメージを描いていた。
見たこともない砂の世界である。幼い頃、動揺歌集の挿絵で見たような、一面、砂だけの世界。
夕日なのだろうか、赤とも黄ともつかぬ強烈な色彩に染められた、生き物、いや、いっさいの有機物を閉め出した砂だけの丘陵に、まるで目に見えぬ巨人が描き記していくかのように風紋は鮮やかな縞模様を連ねてゆく。見たこともないはずなのに、何故か懐かしい。しかし、それは甘い感情ではなく重苦しい懊悩(おうのう)を伴っている。無念さ、怨み、もの狂おしい激情。それを、時折甲高い風の雄叫びが逆撫でするように突き抜ける。
やかんが声の調子を上げた。
円雅(まるが)は唐突に現実に戻った。そして思い出した。ここは自分の部屋ではない。
すでに幾度となく通って目に親しんだ染みのある壁、原稿用紙の散乱した小さな文机。
その上の古びたランプよりも、今は障子越しに射し入る西日の方が明るい橙色(だいだいいろ)だ。たった今しがたまでまざまざと瞼の裏に鮮明にあった砂漠の風紋と同じ色である。
薄い壁の向こうからは細々と、どこかの宗教に入れ込んでいる隣人の唱えるお経が洩れ聞こえるのさえ、もう馴染みとなっている。
姉の波流子(はるこ)が知ったなら、なんという顔をするだろう。西日に染まった狭い下宿屋の片隅、黴(かび)臭いせんべい布団にくるまって、男の体温を背に感じながらうたた寝しているなどと。それも、生徒への出稽古の帰りに立ち寄っているなどと。
厳粛な姉は夢にも知るまい。すでに何年も前から異母妹が男を知った身体であることなど。あの女(ひと)自身は三十路に手が届こうというのに、ろくに男と口をきいたこともなく過ごしてきたに違いない。何せ、殆ど家を出たがらない女なのだから。自分のことはすべて後回し、何をおいても妹をかまいたがる。今度の縁談は父の一方的な命令で決められてしまったが、妹をさしおいて自分だけが結婚するわけにはいかない、とばかりに今頃、方々から釣書を目を血走らせて眺めているに違いない。
誰が、これ以上あの女の言いなりになど。
円雅(まるが)は布団に口許を押し当てたまま、小悪魔めいたひとり笑いを浮かべた。姉の知らない秘密を持つのは心地好い。彼女のささやかな溜飲(りゅういん)の下げ方なのだ。
遠くの部屋で柱時計が鈍く五時を知らせた。それを機に彼女は上半身を起こそうとして引き止められた。
「もう帰るのか」
男の、背から巻きついた腕は強靱で円雅は少しも身じろぎできない。もの慣れた手つきで獣のような姿勢をさせられそうになると、折角鎮まった身体の奥の火がまたも熱を持ち始める。多分、人より敏感な体質は、やはり血、なのだろうか。
円雅は理性をかき集めて男を拒絶した。
「夕食までに戻らなけりゃ姉さんがうるさいのよ」
耳の線でぷつりと切り揃えられた髪も、その姉へのささやかな反抗である。円雅はようやく男――――天城俊也(あまぎとしや)の手から逃れ、手早く襦袢の前をかき合わせた。
「また姉さんか」
天城はため息を共に呟くと、枕元の煙草に火を点けた。煙を吐きながら、陶然と女の身支度を眺める。そして四年前、初めてこの女と寝た時の記憶をひもといてみる。
まだ清らかな矢絣に袴すがたの女学生だった。
大粒の涙を散らしてこの湿気た下宿に飛び込んでくるなり、抱いてくれと縋ってきたのには面食らったものだ。
仕事上、彼女の家には頻繁に出入りするものの、その申し出は唐突すぎた。動機が愛でないことは明白だった。
あの時も例の異母姉との間に何かがあったことは想像に難くない。まるで何かを忘れ去りたいかのように、挑みかかるかのように処女を捨てたものだ。
(結局、姉さん、姉さんか。憎んでいるのか執着しているのか、俺はとんだとばっちりを受けているわけだな)
天城はすっかり成熟した円雅の身体の線を目で愉しみながら、苦笑いする。この肢体をここまで女らしくさせたのが自分であると思うと、まんざら悪い気はしない。だが、ふたりの関係は恋人同士であるとか情人であるとかでは、断じてない。
女性関係の派手な天城の下宿には、清潔とも趣味が良いともお世辞にも言えぬ部屋であるにも関わらず、思い出したように円雅が訪れても、必ずどこかに女の匂いが残っている。
鉢合わせしたことも何度かあるが、その度に相手が違う。女給風の女であったりどこかの名家の令嬢風であったり、人妻のようであったり。だが、円雅はただの一度も嫉妬を感じたことがない。
元々、愛ゆえの関係ではないことはお互い百も承知だ。しかし彼との関係が一番長続きしているのは自分であることを、円雅は薄々知っている。
自分が焦燥を抑えきれなくなる度、何も言わずに羽根を広げて束の間の安らぎを与えてくれる彼に感謝もしている。しかし、その返礼に身辺の世話を焼こうとか、彼の新聞記者だかジャーナリストだかの仕事の域に踏み込もうという気は、さらさらに無い。ましてや怪我や病気で彼が寝込んだとしても看病に駆けつけるなどと、それこそは彼が抱えている複数の女たちの役目であって、自分は一切関与するつもりもない。いや、それどころかもし、天城か自分がこの世から消えてもふたりの関係はそれっきり涙のひと粒とて弔いのために流されることもなく、過去へと埋没していくに違いない。
しかし、それでいいのだ。いっとき、情熱をぶつけあい求め合う間柄であれば、それ以上の何も望まない。望めば、いつか裏切られる。傷つくことは目に見えている。いったいいつからこのような殺伐とした考えを持つようになってしまったのか。
円雅は乙女時代から愛の存在など否定してきたように思う。
女学校の同級生たちが、やれあの高校生がどうの、どこそこの書生さんがどうのと、かまびすしく騒ぎたてるのさえ、妙に白けて聞いていたものだ。天城に処女を捧げてからは尚更である。
「どうした」
円雅の帯締めを結ぶ手が止まった。