夜は深々と更け、月の光はさえざえと家並みの瓦に真珠のように振りこぼれる。黒々と眠る民家は静まりかえっていた。
さすがに日中の暑気も遠のき、淫靡な娼館を解放された身には夜気が美味しい。
石畳を黙々と歩くジャレツの孤影の後ろを少し間をあけて、やせっぽちの少女が歩く。
さっきの乱闘でくじいたらしく、びっこをひいている。
「そら」
ジャレツが背をかがめて促した。少女は息をのんで立ちすくむ。
「家まで送ってやる。それとも俺が怖いか」
少女はかぶりをふったとたん、広い背中へ乗せられていた。革ジャケットと混じり合った香ばしい体臭は少女の肩越しに伝わった。
「デニーゼだったな」
「・・・・」
「詳しい事情は知らんが、その歳で身体を売るなんざやめとくこった。本当に結ばれた相手に逢った時に、絶対に後悔するぞ」
容貌からは想像できぬ優しい言葉がジャレツから洩れた。ややあって、少女の苦しげな声が応える。
「兄さんの仇を取るためよ」
「仇――――――?穏やかじゃないな」
話の飛躍にジャレツは唸った。この少女の言うことは真珠売りの真珠と、ロンダム家とどうかかわているのか。
「あっ」
突然、デニーゼは叫び、ふりむきかけたジャレツの口元に人差し指を立てた。
笛か、と最初は思われた。澄んではいるが悩ましい音。女の声色のような高い琴線だ。
いつの間にかジャレツたちは邑の中央広場にさしかかっていた。夕暮れに見た湧き水の井戸には、白銀の月光を浴びながら屈強な衛士が環列をなして取り囲み、人形のように動かない。目深に被った兜の奥の眼は、聞こえてくる妖しげな音律にも毛筋ほども動ずることなく、井戸を侵す者がないかと警戒を続けている。
やがて、音律が少しずつ近づいてくるのが判った。人間の声と、竪琴だかの音色がまじりあって独特の音を紡ぎ出しているのだ。
ジャレツは習性にならって反射的に小路の陰に身を隠した。
真昼のような月光の中を、ふわふわと曖昧な足取りでリズムに乗りながらやってくる者がいる。
「真珠、真珠はいかが?小ぶりの竪琴を奏でながら謳っているのは、まだ成長しきっていない、アンバランスな細身の少年だということが判った。
妖精のかしらとでも言い表わせばいいのか、肋骨の浮き出た上半身にまとっている布がひらひらと月の光に映えて美しい。
「あれが真珠売りだな」
ジャレツが問うと、うっとりと見入る背中の少女の声は別人のように蕩けていた。
「そうよ。真珠売りのポセイディオーン。どこからやってくるのか、どこの誰だか誰も知らない。判っているのは彼の売る真珠が、私たち貧しい者たちの願いを何でも叶えてくれること、ときおり洩らす予言が外れたためしの無いこと。そして―――――」
「そして?」
「彼ほど美しい人間は古今東西きっといないだろうってこと」
やがて大勢の邑人が真珠売りの後を追ってやってきた。飢えた者のように口々に「真珠、真珠とつぶやきながら、跳ね回る真珠売りの一挙一動に波のように揺れ動く。
「さあ、今夜は満月だ。お祝いに、ささやかな願いを叶える真珠を行い正しい皆さんにプレゼントしてあげようね」
少年は竪琴を背にまわすや、腰につけていたビクのような小さな籠に手をつっこみ、中天の月めがけてほうり投げた。
夥しい真珠の花が弾けた。
月光に煌きながら古井戸の屋根、衛士の兜など、てんでばらばらに雨のようにふりそそぎ、石畳に散らばってゆく。
邑人たちは眼の色を変えて殺到した。
「あっははははははは。ほんのちっぽけな真珠さ。明日一日の平穏無事だけしか効力は無いさ。それでもよけりゃ持っていきな!」
「ふたたび竪琴をかき鳴らしながら、小鬼のように跳ね回る。
ジャレツは小路の陰から視線を離せない。少年の尋常でない美貌はもちろんだが、醸しだす魅力も強烈すぎる。そしてどこかで接したような気がしてならない。どこだろう?
古井戸を衛る衛士と、真珠売りと、満月と。
おそらく一生この幻想的な光景を忘れないだろうとジャレツは思った。
刹那――――――、
「誰?そこにいるのは」
少年の顔がこちらを向いた。遠目にもわかる真珠色の瞳。ジャレツは総毛だった。
「出ておいで。真珠をあげようね」
冷や汗がこめかみを伝い落ちる。その時、喉元に冷たい感触が押しつけられた。おなじみの、刃の冷たさだ。
「お行き」
背負った少女が月の雫のような刀身を閃かせながら耳元でささやいた。
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窓辺のレースのカーテンがそよめいた。
モイザの背中が弓のようにしなったと思うと、あられもない声を上げて全身を震わせ、シーツの上にブラウンの身を投げ出す。
「なんて坊やだい、モイザ姐さんとしたことが、つい商売を忘れちまったじゃないか」
「・・・・・・」
キャスケードはもう寝台の上に上半身を起こし、昂ぶりから冷めた視線を窓の外へ向けている。その一瞬の後に吹き出した汗が肩に光っているのが艶かしく生々しい。
「どうしたのさ」
「あいつの昔を知っている人間に会うのはあんたが初めてだ」
「ジャレツかい?」
「教えてくれ。あいつは一回だって自分の来し方を話してくれたことがねえ」
アイスブルーの眼には涙がにじみ、珊瑚色の唇を噛みしめている。モイザのなけなしの母性本能が甘美に疼いた。
「私だってよく知ってるわけじゃない。竜蛇の都で、彼は私たちが踊り子をしていた店の常連だったのさ。彼と結婚した娘は私の後輩で――――――」
キャスケードの眼が猛禽のそれに変貌した。
「あんた、今なんて言った」
「彼の女房になった娘は私と同じ踊り子でね、そりゃあ器量も気立てもいい娘で」
キャスケードの耳にモイザの言葉が虚しく反響した。思いがけない事実に横殴りにされた気分だった。
女は大きなため息をついた。
「あんた、女と寝ていても心はずっと彼のことを追いかけているんだね」
「苦しい夢を見るんだ。あいつが俺を見捨てて豪華な馬車で行っちまう夢。何度もだ」
乱暴に赤い瞼をぬぐった。
モイザは覗きこみ、
「恋?」
「そんなくだらねえもんじゃねえ」
「定命?」
「そんな仰々しいもん、くそくらえだ」
「じゃ、何さ」
「俺が俺でいるための根っこの尻尾みたいなもんを、あいつはしっかり握ってる。握られてなくちゃ俺はどこへ飛んでいくか自分でも判らねえんだ」
激情のほとばしりに気おされて、モイザは黙り込んだ。
「で、どうしたんだよ。あいつの女房は」
「踊り子をやめ、ふたりで小さな部屋を借りて暮らし始めた。端で見ていても羨ましいかぎりだったよ。それが、一年足らずで」
モイザの表情は強張った。
「一年足らずで――――――?」
「ある朝、女房の亡骸が見つかった。彼女の銃創から発見されたのはジャレツの愛用していた軍用銃の弾丸。彼の姿は忽然と消えちまった。私が知っているのはそれだけ」
血も凍る内容を、モイザは肩をすくめて締めくくった。
キャスケードは息苦しさに襲われて立ち上がった。不意に自分がどこにいて何をしていたのか、判らなくなるほどの衝撃だった。
ジャレツが竜蛇軍の人間だったことはあの愛用の銃と、今もって彼の身体にこびりついているきな臭さはっきりとものがたっている。無論、彼が少なからず人を殺してきたことをも暗黙のうちに承知していた。混沌とした大陸間の情勢、どこの大陸にも共通する治安の劣悪さからして、人殺しなど珍しい存在でも何でもない。
だが、ジャレツが己が妻を殺した経歴の持ち主だったことは、キャスケードには衝撃だった。幻滅したわけではない。
決して自分の来し方を語らなかった理由がこれだったのかと判ったとたん、彼の胸中を思うとたまらないものがこみあげてきたのだ。
祖国、竜蛇を捨ててから彼は何を思い生きてきたのだろう。キャスケードに接する時の彼はいつも暖かく、厳しい。どれだけ沢山のことを逞しい背中と態度から学んだことか。彼はキャスケードにとって父親であり、兄であり、悪友であり、もちろん最高の相棒であり――――――。
なのに自分は彼の何も見えていなかった!
キャスケードは娼婦の膝にすがりついた。
「年がら年中人捜し稼業をしていながら、依頼された行方不明の人間をじゃなく、俺はいつもそばにいるあいつの心を捜してる。見えねえ。来し方も行く末も、何を望んでいるのかも、何ひとつ見えやしねえ」
「あの男の望みかい?そうだねえ、多分」
紅い爪で幼子をなだめるようにキャスケードの滑らかな背中をたたきながら、モイザは自信ありげに言った。
「死に場所さ」

「死に場所――――――」
「殺しちまった女房に逢うために、一番自分に似つかわしい死に場所を捜しているのさ」
キャスケードは心臓に氷の杭を打ち込まれたような気がした。
レースがざわめき、遠くからかすかな音律が忍び入ってきている。モイザは若者の抱擁から身を抜き滑らせると、ブラウンの肌にシーツを巻きつけて窓辺に立った。
「ポセイディオーンの竪琴だ。ああ、今夜は満月だったねえ」
物悲しい旋律がキャスケードを新たな慟哭の渦にひきずりこんだ。
(この先、火炎地獄をのたうちまわろうと、この身を水で砕かれようと、俺はおっ死ぬその瞬間もあんたを思うだろうぜ、ジャレツ)
湧き水のごとく、穢れ無き涙は夜明けまで涸れそうにない。モイザが気だるげに洩らす。
「虚しいねえ。何を手に入れても人の心が本当に手に入るわけじゃなし、罪作りな真珠さね。それでも真珠売りは繁盛する・・・・か」
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