悪魔のはばたきが耳元を掠めた。
スノウバードの街は日没を境にその表情を豹変させる。雑多ながらも喧騒著しい昼間の街の姿は、海の彼方に日輪が没すると、一挙に悪魔の跳梁する廃墟さながらに変貌するのである。
深まりゆく秋を告げる街路樹を吹きぬける風でさえ、不吉なざあめき――――――地獄から這い上がってきた妖魔のささやき―――――――にしか聞こえない。
人影のひとつも見えない。
そんな物騒で不気味な幽霊街と化したスラムの通りを、ゴミを蹴散らしてジャレツがバイクを飛ばしていた。
すでに夜風は膚を刺すように冷たい。しかし、キャスケードを救出すべく心をたぎらせている彼には寒さなど感じられなかった。
脳裏には、キャスケードの面影ばかりが訪れる。
けたたましく笑い弾ける大きな口。
すぐに拗ねて、唇を尖らせる表情。
一向に身なりに構わず汗臭い身体。
嬉しいことを聞いた時の大輪の花が開いたような笑顔。
思春期特有の、伸びかけた手足がアンバランスな肢体。
ジャレツの手元を覗きこみにくる意外と真剣な眼差し。
ホコリのついたキツネ色の巻き毛。
世界中の秘宝を捜したとて、めぐり逢えそうにない碧い双眸。
蘭の庭で、力無げにくず折れてきたか細い身体。
ジャレツの背を、必死の思いで抱きしめてきた――――――指先。
(キャスケード・・・・・!)
あの瞳、あの指先、あの腕、あの表情無しにこれから先、生きてはいけない自分をジャレツは感じていた。
轟音を轟かせて工場跡に乗りつけると、彼は憎しみをこめてその建物を睨み上げた。
キャスケードを飲み込んだ巨大な化け物。
(あの無垢な魂を汚されてたまるか)
砂利を踏みしめて近づくと、物陰から飛び出してきた華奢な影があった。
「マレーヌ先生・・・・」
マレーヌは銀縁眼鏡の奥の眼をおどおどさせて、両手を揉みしぼった。
「ジャレツさん、丁度いいところへ来て下さったわ。キャスケードがこの工場跡に入っていってしまったんです。虎鮫のコルギンのアジトだというのに」
「やはりそうか」
「キャスケードを助けて。コルギンは少年とはいえ残忍極まる性格なんです」
「もとよりそのつもりだ。先生、あんたは憲兵に連絡を」
「わかりましたわ」
胸に手を組んで背後から見送るマレーヌの口元が、嗜虐を乗せてつりあがるのをジャレツは知るよしもなく扉に手をかけた。
濃密な闇がジャレツを迎えた。
吐く息だけが洩れ入る街の明かりを受けて白い。
「キャスケード・・・・」
つぶやくように呼びかけながら、ジャレツはジャケットの内側の銃を抜き、暗闇の中へ踏み出した。
数メートル進んだところで―――――――。
スポットライトが真上から当てられたように、忽然と前方に人影が現れた。
大きい。
ジャレツに劣らぬほどの長身。筋肉を盛り上がらせた幅などはジャレツを上回る量感だ。敏捷そうな小型恐竜を彷彿とさせる、七色のトサカを美しく整えたその少年が噂に聞く虎鮫のコルギンなのだと、ジャレツはすぐに閃いた。
驚くべきことに、彼は鏡の向こうにいた。
ガラスでも、立体映像でもない。
一枚の鏡の向こう側から仁王立ちになって待ち受けているのである。
「尋ね人かな」
その声を聞いたとたん、ジャレツの胸を激しい衝撃が貫いた。
初めて聞く声ではない。それどころか、かつて側近く毎日接していた主君、竜蛇皇帝リシュダインの忘れようとて忘れられない、耳朶の奥にしみついたボーイソプラノなのである。
コルギンの獰猛な瞳は、たちまち黄水晶の三日月型の瞳孔に変貌してジャレツを映した。
すずやかな美貌さえ、コルギンの凶暴な面立ちに重なる。
「皇帝リシュダイン・・・・・!」
皇帝が虎鮫のコルギンに宿っている・・・・・!
思いもかけない再会に、ジャレツはうめき声しか搾り出せなかった。
「久しいな、邪烈」
「・・・・・・・」
「どうした、あれほど忠実を示してくれたお前が主君に挨拶もできんのか?」
「どうしてここへ・・・・・」
「そちらへ遣わしている者の手を借りて、意識だけを別の人間に入りこませている。少しばかりお前と話してみたくなったのだ。何せお前は二年前、何の前触れもなく余の前から姿を消したきりだったのでな。せっかくあてがってやった美しい妻さえ手にかけて――――――」
「言うな・・・・」
「言うな?大した出世だな、邪烈。いつから余に命令できる身分になったのだ、クローンの分際で」
「言うな!」
ジャレツはぎりりと歯を食いしばった。
二度と、皇帝の声でクローンという言葉を聞きたくはなかった。
「邪烈・・・・」
皇帝はねめ回すような視線を鏡の向こうから繰り出しながら、優しく語りかけた。
「目を覚ませ、邪烈。余の手となり足となり、修羅のごとく敵を引き裂き、肉をむさぼり喰らい、魔物のように同志を呪縛し魂をわしづかみにし、獣のように女を喰いちらし、ひたすら畜生道を奔りぬけてゆく・・・・・。それが竜蛇の牙と言われたお前の本来の姿ではなかったか。女々しくひとりの少年を庇ってうろたえている今のお前は真実のお前ではない」
皇帝は白鳳大陸に渡ってからのジャレツの行動を何もかも見通しているようだった。
「遅くはない。今一度のチャンスをやろう。黄金蘭の少年を手に入れ、蘭の館の地下に咲く黄金蘭を真紅の琥珀柱から取り出し、その蜜を持ち帰れば今までの愚かな行動はすべて許し、竜蛇宮廷に再び迎えてやろう。・・・・・」
「黄金蘭の蜜だと?」
「いかにも、それが余の不死の能力を活性化させる妙薬。真紅の琥珀は竜蛇のどのような化学兵器をもってしても破壊することができない。それを溶かすことができるのは、モルモデス家に生まれ、五百年に一度黄金蘭の名をつけられた子どもだけだ」
ジャレツの脳裏に、蘭の館での夢の中のような光景が蘇った。
キャスケードが激昂した瞬間、琥珀が歪み沸騰し、波うっていた光景が。
「黄金蘭の名を持つ少年は、自在に琥珀を溶かし、沸騰させ、拡散し、集結させられるのだ。念じるだけでお前を琥珀の中に閉じ込めることも、身体の中に流し込んで無数の針状に再生して内臓を突き通すことも、剣の形を作ってお前の心臓を刺し貫くことも、な」
「キャスケードが俺を?」
「今のあやつはお前を憎んでいる」
皇帝は愉しそうにくつくつと笑いを洩らした。
「企んだな、皇帝リシュダイン」
ジャレツはねめつけた。
「見ものだな、これは。キャスケードの敵意を丸め込んで竜蛇に連れ帰ることが、果たしてできるかな」
「誰が竜蛇に連れ帰ると言った!」
ジャレツは激しく右手を走らせ、懐から銃を引き抜いた。
「連れ帰るとも、邪烈。お前は所詮、余のクローン。本体に逆らうことなど不可能なのだ。お前が真実愛しているのは本体の余だけなのだから」
「言うな!たとえクローンでも意志がある。何もかも本体の言うなりだと思ったら大間違いだ。俺は人間らしく生きてみたい。キャスケードはそのために俺に必要なんだ。絶対に渡しはしないぞ、皇帝リシュダイン!」
ジャレツが銃爪を引こうとした時、唐突に黄水晶の瞳は消え去った。
「待て!」
「キャスケードは鏡のこちら側だ。早くせぬと間にあわんぞ。あやつの母親が狂乱してあやつを殺そうとしている・・・・。あやつを救い一刻も早く余の元へ竜蛇へ連れ帰れ」
皇帝の声だけが、鏡の向こう側からいんいんと響いてきた。
罠かもしれないと思いながらも、ジャレツは迷わなかった。
頭から鏡の内側―――――――皇帝の懐へとダイビングしたのである。