運河沿いの並木の陰から、長身の男が姿を現した時、キャスケードの後姿を見送っていたマレーヌの表情に少しも驚きは見られなかった。
やおら白いブラウスの腕を組み、男が長い黒髪を川風になぶらせながら近づいてくるのを待つ。その表情には情け厚い女教師の面影は欠片も無い。
「何を考えている・・・・・真麗」
男は杖を使って不自由な脚を運んでくると、いきなり口を開いた。アスンシオンだった。
「気づいていたのか。霊感の強いお前には記憶中枢を操作する術は通用せぬかと思っていたが、やはりな」
マレーヌは先ほどまでの鈴音の声とはうって変わった低い声音で言った。
「何をしようとしているのだ。黄金蘭の名の少年が目的なら、さっさと皇帝の元へ送ればいいものを」
アスンシオンの声もしのびやかだ。
「邪烈はあの少年をいたく気に入ってしまったようではないか。愛する者を痛めつけられた時のやつの表情が見たくてな。少しばかり遊んでいるのよ」
女の口角が嗜虐につり上がる。
「お前こそ何をしている亜州紫苑。裏切り者の邪烈を仕留めろと、皇帝陛下から厳命を受けているのではなかったか。たったひとりの妹を人質に取られているのだろう?」
「どうしてそれを・・・・・」
「操るはままならないようだが、お前の記憶を読むくらいネオンを読むよりたやすいこと」
マレーヌは相手を値踏みするかのように周りを歩いて、アスンシオンの頭から爪先までを眺め回した。そして彼の瞳で視線を止めた。
「迷っているな。妹をとるか、親友をとるか。つまり・・・・」
「皇帝を敵にまわすか、味方にまわすかだ」
「つまらぬことは考えない方がいい。皇帝を裏切れば遅かれ早かれ確実に抹殺されるだけだ。お前も元軍人ならそれくらいのことはわかっていよう」
アスンシオンは眼光鋭く女を睨みつけた。
「お前は人間か、真麗。友人というものを持ったことがないのか」
「ない」
マレーヌはひと言で答えた。
「たとえ持ったとしても皇帝陛下と天秤にかけるような愚かな真似はせん。お前とて、陛下のご命令を振り切れるだけの友情を邪烈に持ち合わせてはいないくせに・・・・おや」
女の舌がさぞ美味いものを見つけた蛇のように唇を舐めあげた。
人の記憶中枢から、関心のあることを読み取った時の彼女のクセだった。彼女にとって、人の思考など薄絹をまとった美女の裸体同様だった。
「ふむ、そうか、そうか。お前、邪烈に殺しても飽き足らぬ憎悪も抱いているのか。これは面白い。恋というものは、人生を狂わせる毒薬だな、まったく」
ぶん、とアスンシオンの杖が飛んだ。マレーヌが跳び退った時、それは歩道に落ち、彼女の頬にはカードのつけた切り傷がついていた。
アスンシオンは続けてカードを投げる構えを見せながら、押し殺した声を発した。
「今度、俺の記憶を読んだ時はその白い喉にカードを食い込ませる。死神のカードをな」
「ふん、死んだ女のためにつまらぬ苦悩に惑わされるとは、男とはほとほと愚かな生き物だな。邪烈も、お前も」
哄笑を残して、マレーヌは身を翻し、人込みに紛れていった。