霧が出てきた。
先ほどまで晴れていたというのに、みるみるうちに小麦畑や彼方の雑木林が乳白色のスクリーンの向こうにぼっしてゆく。
かろうじて判別できる人影に向かって、ジャレツは馬上から尋ねた。
「爺さん、ちょっと尋ねたいんだが、この辺りの地主は?」
「モルモデスさまじゃが。蘭の館の」
陽に焼けた老農夫は霧の彼方を指し示した。
「モルモデス。・・・・・・」
ジャレツはアスンシオンを振り返った。
「蘭の館と言ったな。どうやらそこが占いの示す家らしい」
「驚いたな。地主を訪ねれば何か判る程度に思ってたんだが、当の地主が蘭の館とは」
ふたりのやりとりに、またキャスケードがわめきだした。
「蘭の館だか何だか知らないけど、いったい俺をどこに連れてこうってんだよ」
「お前の親が見つかるかもしれないんだぞ、キャスケード」
「誰が捜してくれっつったよ、このお節介男!俺は天涯孤独のキャスだ。スラムで野良猫のボスをやってりゃそれでいいんだ、親なんかいらないんだ!」
「おとなしくしろ」
「ジャレツとかいったな、覚えてろ!」
碧い焔のような目でにらみつけた。
この少年の気迫にジャレツは圧倒される。
これが若いということだろうか、いつも自分を百パーセント燃焼させて、全身全霊で人にぶつかっていく。
あの福祉協会のマレーヌという女教師にも、抗争相手にも、憲兵にも、仲間にも。そしてジャレツにも手加減なしにぶつかってくる。
(狙撃などしたところで到底、殺せやしないタマじゃないのか―――――――)
そんな気さえしてくる。
この山猫のどこに、竜蛇皇帝リシュダインの命を永らえさせる能力が秘められているというのだろう。ジャレツは少年の手をたてがみの上にぬいつけながら首をひねった。
霧はますます深くなってきた。
馬がたてがみを震わせるたび、細かい水滴が飛び散った。
「アスンシオン、脚は大丈夫か」
「ああ」
アスンシオンは笑顔を作って答えたが、その実、脚の古傷が湿気をいちばん嫌うことをジャレツは知っていた。
「あの爺さんの話じゃそう遠くはなさそうだったんだが。もうしばらくの辛抱だ」
馬を急がせようとした時、背後から蹄の音、それに混じって車輪の音も聞こえてきた。
ほどなく霧の中から小さな馬車が追いついてきた。御者台にはひとりの女性が手綱をにぎっている。
「お、・・・・」
「あら・・・・」
ソバカスだらけの頬に銀縁眼鏡、それはスラムであった女教師だった。
「ま、あなたがた。それにキャスケードも」
マレーヌは思いがけない人物に出会って、眼鏡の奥の目を丸くさせた。
「これは奇遇だな」
ジャレツが声をかけたとたん、キャスケードが叫んだ。
「マレーヌせんせ、助けてくれえ!俺、こいつらに誘拐されたんだよお」
「ええ?」
マレーヌがいっそう目を白黒させたのを見て、ジャレツは慌てた。
「こら、誘拐なんかじゃないだろ。俺たちはお前の身元を捜してやろうと・・・・」
「キャスケードの身元ですって?それを、何故あなたがたが?」
「それは・・・・」
言い淀んだジャレツに、アスンシオンが助け舟をだした。
「先日、キャスケードに会って身につまされたっていうか・・・・。こいつも俺も、この子と同じような境遇で育ったもんですから、放っておけなくて」
「まあ」
女教師は目頭を押さえた。
「騙されるな、せんせ!こいつら俺を売り飛ばすハラ・・・・」
とんでもないことを口走るキャスケードの口元を、ジャレツは慌てて押さえつけた。
「この先にキャスの身元らしき家があると聞いてきたので」
「この先といえば、モルモデス家しかありませんわ。まあ、偶然だこと。私も今からモルモデス家を訪ねるところですのよ。蘭夫人にチルドレン救済所の寄付のことでお話があって」
「蘭夫人―――――――?」
「モルモデス家の奥様です。ご主人は亡くなっているので、館や領地のいっさいは奥様の蘭夫人がとりしきってらっしゃいますのよ。救済所にも沢山ご寄付をいただいていますの」
「もしや、その女性がキャスの?」
「まさか。蘭夫人にはご令嬢がおひとりいらっしゃるだけですわ。私もお会いしたことがないくらい内気な方のようですが」
マレーヌは目を輝かせた。
「でも、この地方一帯のことはよくご存知のはずですからお尋ねしてみては?なんにしてもそんなにご奇特な目的なのなら、蘭夫人もお力になって下さるでしょう」
「俺は親なんかいらないって言ってるのに!」
キャスケードがジャレツの手に噛みついて引き剥がすなりわめく。
しかしすっかり乗り気になっているマレーヌには何の効力もなかった。
「まあ、キャス、そんなことを言ったらバチがあたるわよ。せっかく身元を捜して下さろうとしているのに。さ。まいりましょ。霧がこれ以上濃くならないうちに――――――
ハイシ!」