ミイラを見るのさえ嫌がっていた冬木の態度の変わりように、天城は呆れながら彼らの後に続いて女のミイラの柩へと戻った。
教授の助手がピンセットを持ってきて彼女の口の中に差し入れ、注意深く探った。少しの落ち度も許されぬ繊細な作業である。天城たちは辛抱強く待った。が――――、
「教授、真珠がありません」
「そんなはずはない。安置した時、確かにあったのだから。もう一度探してみなさい」
助手はさらに念入りに探ったが、結果は同じだった。教授の声色が変わりつつあった。
「馬鹿な。いったい、どうして……。ここへは今日まで我々とほんのひと握りの博物館員しか出入りしていない。外部の人間を入れるのは今が初めてなのだが」
「出土してから旅の間は、白水が衛兵のように守ってましたしね」
助手が言い添えた。
(白水が衛兵のように守って――――)
天城の耳朶にその言葉が何故か居座り、なかなか去ろうとしなかった。
大津路洋一郎は肘掛け椅子にだらしなく身を投げ出して窓外の葉桜に目をやった。
季節は急ぎ足でやってきて桜も盛りを過ぎ、麗らかな春の陽気が続いている。しかし、季節に反して彼の胸中は暗く濁っていた。
理由は長女の波流子である。
いったいどうしたというのか、一度は承諾した縁談を断ってくれと言い出し、結納を延期せざるを得なかった。厳しく諌めようが、腹を割って話そうと持ちかけようが、気分を変えて久しぶりにデッサンのモデルを頼んでみようが、娘の態度は変化が無い。父親には背いたことのない娘にいったいどういう変化が起こったのか。
すべてはひと月ほど前、彼が芸者を伴って小旅行をした時を境に狂ってきたような気がする。自分の留守中に何かがあったとでもいうのだろうか。それとなく、円雅やばあやに探りを入れてみても彼女らは顔を強張らせて貝のように口を閉ざしたままである。いっそのこと、世間の父親のように本人に有無を言わさず強行に嫁がせるべきか。
じりじりとした焦慮に焼かれて、洋一郎は火酒のグラスを一気にあおった。
酒の不味さの原因はもうひとつある。
ここ数年来、会心の作に恵まれないのだ。なるほど、人形作家、大津路洋一郎と言えばその世界では今や第一人者とまで言われ、彼の作品を手に入れることは稀有の果報者とされている。
華族も実業家も政界の人間さえ、まるで自身の勲章のようにこぞって彼の創る人形を手に入れたがった。真珠を施した彼の人形の数々は実際、名誉欲のためばかりではなく、美意識の発達した人間にとっては垂涎の的だったのである。
しかし、最近は彼自身満足のできる作品を生み出せないままに時を送っていた。低迷期に入ると彼は酒と女に溺れ、放蕩を繰り返す。若い頃からの悪癖であった。近頃はふたりの弟子さえ嫌悪して足が遠のくほどなのである。
なんとか真珠を人形に取り入れ、一世一代の作品を生み出したいというのが、彼の熱望であった。
しかし、思い通りにならない今は、アトリエは冷たい空気が満ちている。彼の創った人形たちさえ空々しい視線を主人に投げかけているようなのである。
洋一郎はもう一度酒をあおって飲み干し、乱暴にグラスを作業台の上に置いた。
ドアが鳴った。ばあや特有の、小刻みな叩き方である。人形たちがいっせいに振り向きかねないほどの唐突さだった。
「何だ」
洋一郎が面倒そうに答えると、ばあやが恐る恐る薄く開いたドアの隙間から視線を差し入れて主人の顔色を窺った。
「お客様でございます」
彼女の老いた目は何故か脅えている。
「誰だ」
「白水さまとおっしゃるお方です」
「白水――――」酒臭いしゃっくりをひとつしてから、洋一郎は視線を彷徨わせた。「知らんぞ」
「出羽教授の助手の方ですわ」
そう言いながら、ばあやの背後から声をかけたのは円雅である。
「おお、そうか、出羽先生の。何か先生から言伝だろうか。ばあや、聞いておいてくれ」
「それが、旦那様に直接お伝えしたいと申されまして」
ばあやは消え入りそうな声で言った。
洋一郎は舌打ちして酔いの回った身体を起こし、立ち上がった。至極ゆっくりと客間へ向かう背後に円雅とばあやが続く。
円雅の表情は蒼く強張っていた。ついに彼―――白水永渡が自らの予告通り訪ねてきたのである。おそらく洋一郎に波流子との結婚を承諾させる腹づもりに違いない。初めに父親の目を盗んで娘を我が物とし、後で余裕たっぷりに結婚を申し込みに来るとは、なんと図太い神経なのだろう。円雅はむらむらと腹立ちを感じ、この場を見届けなければならないと意気込んでいた。
「客間ではありませんで、お玄関でございます」
「なに」
客間に向かいかけた洋一郎は、ばあやを振り返った。
「どうしても上がろうとなさいませんので」
主人にいつどやされるかと脅えながら老女は言い訳をした。
チューリップ型の装飾燈がぶら下がる大理石造りのエントランスに、白水はさっぱりとした背広姿で待ち受けていた。やはり先日、円雅が直接訪問した時の自信に満ちた空気を彼はまとっていた。姿勢は清々しく目の輝き、やや大きめの口の引き締め方から知性と気骨が察せられる。かつて時岡男爵のサロンで見かけていた頃となんという違いであろうか。
洋一郎が眼前に姿を現すと、青年の目は一瞬、その後ろの円雅に流れた。が、次の瞬間、彼は大理石の上に手をついて座り込んでいた。
「先生」
「な、何の真似だね、いきなり」
面喰らった洋一郎は酔いを覚まされたようだ。
「先生、どうか僕を弟子にして下さい」
白水は額をこすりつけんばかりに頭を下げた。茶色がかった前髪が大理石の床に触れた。あまりの突然な願い出に、一同、言葉を失って立ち尽くした。
(お父様の弟子に、ですって)
円雅も混乱した。今日、彼が来たのは波流子との結婚を許してもらうためではなかったのか。
「お許しいただけるまで、帰らぬ覚悟で参りました」
「待ちなさい、白水くん。君は考古学者じゃないか。それも将来を期待され、出羽先生にお世話になっている身ではないか」
洋一郎は慌てて言うのへ、青年はこうべを垂れたまま、
「出羽先生には大変可愛がっていただきましたが、先日お暇をいただきました。考古学には未練はありません。これからは大津路先生に師事し、人形作家を目指したいと思っています」
「突然そんなことを言われても、君」
「アトリエの掃除でも使い走りでも結構です、先生の弟子にして下さい」
円雅は彼の決死の願いが嘘ではないことを感じ取った。そして同時に、言葉は父に対してこの上なく慇懃であるにもかかわらず、この場の成り行き全部を自分が把握しているぞとでもいうような余裕をも、彼の態度の裏から察していた。
白水永渡という男が、よけい解からなくなった。