それにしても、我ながら大胆な訪問をしたものである。たったひとりで凌辱者の住まいに出向くとは、虎の檻に飛び込んだようなものである。しかし、先日の一件を問いたださなければ気がすまず、頭に血が昇った勢いでここまで来てしまった。
円雅の今にも破裂しそうな胸の内をよそに、男は至極、優雅に香り高い湯気を立ちのぼらせた茶器を運んできた。趣味の高い、チャイナ陶器である。
この広い客間にも東洋の品々はふんだんに飾られていた。流麗な線の、ひと目で東洋的と判るチェストの上に置かれているのは、馬頭琴というものだろうか、それに、純白の地に黒い斑点の毛足の長い猛獣の、ガラス玉の目を爛々(らんらん)と光らせ、赤い口腔をくわりと開けて威嚇している剥製。凝った織物の壁掛けの上には、見慣れぬ装身具。じゃらじゃらとした細かい細工は胡族の娘の額や胸元を飾るものなのだろうか。
中でも一番目を釘付けにされたのは、奥の壁に大きく飾られた油絵である。それは、砂漠の情景であった。鮮やかな風紋が落ちゆく日輪の光線を受け、陰影濃く存在している。生き物のように一瞬たりと静止していない砂の表情を、その絵は見事に捉えている。まざまざと思い出すことが出来る。あの夢の時の、息苦しい懐かしさを覚え、また自分の夢を眼前にあらわにされたような気恥ずかしさを感じ、円雅は身を竦ませた。
茶器の触れ合う涼やかな音が彼女を我に返らせた。
「古ぼけた家でしょう。家人が死んでしまって僕ひとりになってしまってから、よけいに黴臭くなってしまった」白水の落ち着きはらった顔が言った。「あの絵がお気に入りられましたか、大津路さん?」
不意に名前を呼ばれた円雅はそれを契機に口を開いた。
「支邦に行かれていたのではなかったのですか」
「十日ばかり前に帰朝したところです」
再度、椅子を勧めても動かぬ相手に諦めた白水は、ゴブラン織りの長椅子に身を沈めた。すかさず床にいた虎猫がその膝に飛び乗り、短く啼いて甘える。その喉を撫でる男の、紬の肩の線がとても逞しいことに円雅は気づいた。今まで口を聞いたこともなかったが、白水という男はこんなに体格が良かったろうか。こんなにもの慣れた話し方をし、こんなに物怖じしない視線を投げてくる男だったのだろうか。
「よく降りますね」彼は紫色にけぶる窓の外に目を移し、ため息をついた。「数週間前まであの絵のような砂の世界にいたとは信じられない。本当に、なんという渇ききった土地だったのだろう。生き物の影といえば、僕たちが乗っていったラクダをおいて殆どいない。一日中、びょうびょうと渇いた風が吹きすさび、人間はラクダの影でじりじりとした痛いような日光をやり過ごす。飲料水は何日も保たず腐り、そうなればラクダの乳で次のオアシスまで永らえるしか手は無い。夜は夜でかたちばかりのテントの中で、絶えず耳の底を離れない風の音を枕に、浅い眠りにつく。ゴビの砂漠を越え、トルファン盆地を過ぎ、彷徨える湖ロプノールをも過ぎて、タクラマカンの東の端にまで足を伸ばしました。荒涼とした砂ばかりの世界に狼煙台(のろしだい)や城壁らしきものを発見すると、そこが何千年、何百年も昔に主を失っていると解かってはいても、人間の気配を感じてほっとします。同時に涙が溢れてくる。あんなに渇いた世界でまだ流す涙が残っていたのかと、仲間で笑いあったものですが――――」
すっかり追憶に浸っていた彼に引きずり込まれ、自分もあの砂漠の絵の世界に入ってしまっていた円雅は彼の言葉が途切れた時に気持ちを奮い立たせた。今日は彼の支邦行きの土産話を聞きに来たわけではないのだ。
「白水さん」
「はい」
彼は真面目な顔で向き直った。
「姉はあれ以来、部屋に引きこもって出てこようとしません。そればかりか、整いかけていた結納を取りやめてほしいと言い出しました。父は激怒しています。無理ありませんわ。姉も私もこの前のことを喋っていないんですもの」
「ほう」
白水はのんびりと愛猫を撫で続けている。円雅の胸から熱い塊が競りあがってきた。
「ほう、って、白水さん。よくもそんな他人事のように。あなたのせいよ。あなたのせいで姉の縁談が壊れようとしているんですよ」
「望むところです。元々そうしようと思ってしたことですから」
あまりのふてぶてしさに、円雅は眩暈を感じた。
「よくも、いけしゃあしゃあとそんなことを。私たちが警察に訴えればあなたはすぐにも刑務所行きなのよ」
「できるものならば」
「なんですって」
「波流子さんがそんなことは許さないでしょう」
「汚辱にまみれることは耐えられないと?」
「いや、そうではなく。彼女は僕を刑務所へ送ったりなどしないはずだ」
この得体の知れぬ自信はどこから来るのだろう。
「いったいあなたは、どういうつもりで姉をあんな目に」
「波流子さんをたったひとりの女(ひと)と見定めたからです」
男の返答に淀みは無い。「多少、性急な行為に走ってしまったが波流子さんも僕を愛し始めたはずだ。縁談はご破算、そして僕が波流子さんをいただきに、先生にお願いにあがります。これで万事めでたしでしょう。あなたもお姉さんの幸せを喜んでさしあげなさい」
「自惚れも――――」
ほどほどにして下さい、という言葉があまりの憤怒で出てこない。
「どうしたのです、あなただって、お姉さんが顔も知らぬ人の妻になるのはお気の毒と思うでしょう。その点、僕ならあなたがた姉妹を存じ上げている。何より、さっきも申し上げたようにお姉さんは僕を慕い始めているのです。今の世で、好いた者同士が結ばれるのは稀有の幸せと思わねばなりませんよ。お姉さんに、幸せになってほしいと思うでしょう」
男の言葉がじりじりと円雅の心を焼いた。
姉をこのまま、平穏な結婚生活につかせてたまるものか。母を追い出し、自分をも操り人形のようにがんじがらめにしておいて、姉だけがのうのうと人の奥方の座に着こうなどと、虫が良すぎるのではないか。そうはさせない。その執念が、結納前に天城に依頼させたのである。
それを、この目の前の男はぶち壊した。天城の代わりと思ってしまえばそれでもよかったが、姉への行為は一夜限りの凌辱ではなく将来の責任を踏まえたものだという。彼の言うように、もし姉が彼を憎からず思っているなら、姉には先の縁談よりさらに幸せな結婚生活が待っていることになるではないか。円雅の目論見がどんどん遠ざかる。