〜小説「中天より地平へ」第二部 タタール編〜
(五) 驪珠(りしゅ)
応天府を発した使者の一行は、北平を経て長城にたどり着いた。内陸の深い雪が、ようやく溶け始めていた。軍都・北平(※)は、途方も無く巨大で、兵士と軍馬が辻や広場に満ちている。その中心の王宮はどこまで歩いても石畳が続き、何層もの城壁が囲んでいて、皇帝の居室がいったい何処なのか、見当もつかない。かつての明の太祖洪武帝に、<朕に北顧の憂い無し>と言わしめた、勇猛な永楽帝の本拠地らしい造りである。その北平の背後に位置する長城もまた、何千年という時を経て北の地を守り続けていたが、靖難の変以後の明の武力の低下で、タタールの脅威は長城の目前にまで迫りつつあった。
長城は、歴戦の威厳と共に、ゆったりとした曲線を描きながら山々の稜線を結び、累々とうち続いていた。奏姫は、護身のため男装し、馬の背にまたがって使者の一行に連なっていたが、長城を見てピタリと止まった。隣の馬の背にいた臥龍が様子をうかがうと、彼女は、溢れてくる涙を拭おうともせず、静かに泣いていた。

(イラスト・まもと鶴)
「いかがなされた」
臥龍が声をかけると、姫は自分が泣いていることに初めて気がついた様子で、急いで頬を押さえた。そして再び城壁を振り仰ぎ、
「あの長城の石ひとつひとつは、長い間色々な戦いを見てきたのでしょうね。兵士達の血と汗と涙をさぞ多く吸ったのでしょう」
「じゃからあのように赤黒いのかも知れぬな」
「はい…」
姫に言われて城壁の方を見ていた臥龍が、ふたたび奏姫に向き直ると、彼女は、まだ泣き続けている。
「ここで戦った兵士達を思って泣かれるか」
「はい。私もこの長城を越えられるのかと思うと胸がいっぱいになります」
「旅はこれからじゃ。心されよ」
「あ…」
奏姫の返事を待たず、臥龍はくるりと馬首を返して列の後方へ下がってしまった。姫はその後姿を見つめながら、熱いため息をついた。長く、共に旅をしているにもかかわらず、彼は相変わらず奏姫などは眼中にない様子で、いつも行く手へ静かに視線を投げていることが多かった。タタールへの使者の護衛と監視という重責の中で、彼が何を思っているのか、その胸の内は奏姫にははかり知れなかった。
残忍非道な錦衣衛官の行動は、応天府に生活したことで奏姫もよく知っていたが、何故か臥龍が勧んで為している事とは思えなかった。権力をカサに着る錦衣衛官としてよりも、龍頭賊と名乗る彼の方に好意を抱いた。好意?…いや、それは狂おしくつきあげてくる愛しさであった。
生まれ育った国も、民族も、言葉も違う。だが奏姫は、黒い龍を思わせるこの男に、強い絆を感じていた。玉綸の安車に乗って応天府を脱出したことがきっかけで、臥龍に近づくことになった、そのことも偶然ではなく「定命」のように思われた。
もう一度、いつかの夜のようにこの目を見すえて「中天より地平へ」と解き聞かせてくれないだろうか。それとも、あれは夢だったのだろうか…。
奏姫の心に一抹の淋しさがよぎった。
※北平=のちの北京
☆「タタール」についてのコラムが
第二部・予告の追記にありますので、そちらも覗いてみてくださいね。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・脚本・演出 ...真先裕
リライト・挿絵 ...まもと鶴
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