「恐ろしいこと」
奏姫はそうつぶやき、それから背後の桂靖に振り返って話した。
「そなたたち龍頭賊は、どこまで恐ろしいのです!都の人々をあざむいているばかりか、永楽帝さまを裏切ってタタールに内通しているなどと」
ケルレン河の河辺りからゆるやかな勾配が続き、それを登りきった丘に臥龍とアロタイの姿が見えた。奏姫は水面に視線を戻し、唇を震わせた。
桂靖は言った。
「タタールはあくまで敵でございます。姫さま、お信じくださいませ。我々は靖難の変が終わって間もなくこの平原にやってまいりました。私は臥龍さまに拾われて間もないころで、まだ子どもでございましたが、よく憶えております。『永楽帝を憎む建文帝側の落人』と偽って、タタールの内情を探るために彼らに近づいたのです」
「タタールをたたくためにですか」
「臥龍さまはおそらくそのおつもりでございます。ここを離れる際には、タタールを安心させるために、人質まで差し出したのです」
「人質を?」
「そうです。あ…あのお方、驪珠(りしゅ)さまでございます」
驪珠さま?

彼の指差すほうを見ると、ひとりの女人が丘を登って臥龍とアロタイのところへ行こうとしていた。幕営地に着いた時に見た、色白の美しい女人であった。彼女が二人のところに行き着くとアロタイは入れ替わりに丘を下り始めた。
夕焼けに染められた幾筋もの紫色の雲を背にして、三つの人影は二つと一つに分かれて行こうとしていた。
「驪珠さまとは変わったお名前」
「本当の御名かどうかは存じませぬが、臥龍さまはそう呼んでおられます。驪珠とは驪龍(りりょう)の珠のことでございます」
「黒龍の顎の下にあると言われている?」
奏姫は、自分の言葉にはっとして、もう一度丘の上の二人に目をやった。
「そうでございます。黒龍にとっては滅多に手に入らぬ命のような珠。驪珠さまもその御名の通り、臥龍さまのためにここ数年、タタールでよう辛抱なされました。正に得がたき珠…」
そこまで言った桂靖は、奏姫が悲しそうな顔をして震えているのに気づき、思わず言葉を切った。
「姫さま…」
「臥龍さまは、そのような素晴らしいお方をお持ちだったのですね」
奏姫は、胸の高鳴りを抑えられずにいた。
「知りませなんだ…」
丘上の影から川面に眼を移し、奏姫はよろよろと歩きはじめた。背後に桂靖の呼ぶ声が聞こえたが岸辺を進む足は止まらなかった。
何処を見るともなく、何処へ行くともなく、ひたすら上流へと歩いていった。
どのくらいの時間が経っただろう。奏姫は、ひょうひょうと鳴る風を頬に受け、そのあまりの冷たさに、思わず立ち止まった。いつしか日はすっかり暮れていた。
振り向くと下流のほうに赤々と篝火を炊いた陣営地が見えた。タタールと龍頭賊の再会の酒宴が始まったのであろう。時折、風に混じって人々の笑い声も聞こえてくる。
だが、奏姫の視界に広がる草原は、不気味なほどに寂しい静けさを保っていた。
奏姫は、再び歩き出した。その静けさの中でじっとしていることが苦しかったからだ。かといって、いったい何処に行けばよいのか、自分でもわからずにいた。
臥龍にとって…。
奏姫の心は迷っていた。
臥龍にとって、一体、自分は何なのか。配下の者でもなければ、捕虜でもない。まして、妻や愛人というわけでもない。
春の淡い光の星が夜空を埋めてつくしていた。風は、彼女の結った髪を解かし、もてあそんだ。
風の音を聞きながら、奏姫は、臥龍の顔を思い出していた。臥龍の、あの鋭い眼光が好きだった。いつもその前に己が身を置きたいと願っていた。だが、今の自分にとって、そこは何と遠い場所であることか。

「意外だな、臥龍が女の供を連れて来るとは」
突然、そばで声が響いたかと思うと、あの瑠璃色の瞳が真近に現れた。
「酔い醒ましに河辺へも来てみるものだ」
強靭な腕が、奏姫を捕えた。
「嫌です!…離して!」
「それにしても、美しい」
「臥…」
臥龍さま!助けて!そう叫ぼうとした時、彼女の脳裏には、先ほど見た二人の姿がよみがえった。その瞬間、奏姫は、その腕に抗う力も気力も失っていた。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・脚本・演出 ...真先裕
リライト・挿絵 ...まもと鶴
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