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浪漫@kaido kanata

. 獅子座のシザリオン 第1回

熱砂の原を碧い眼が見渡す。
 いつもの情景であった。足元から彼方の地平まで、白い小石が太陽の光を反射している。その向こうにかすかに青黒い稜線が横たわる。
「都はあの山の向こうでございますな」
 背後から老人の声が聞こえた。シザリオンは黙々としてラクダの背に揺られ続けていた。老人はロバを止めてしばし彼方へ見やった。
「都は今日もさぞ賑おうておりましょうて」
 シザリオンは尚も答えない。
 この若者がほんの、ごく気の向いた時以外は寡黙であることを老人はよく知っていた。
「しかし あの噂は…。王が人が変わられたという噂…まことでございましょうか。都の民は貧しさに喘いでいるという…」
 シザリオンの長い金髪が風になびいいた。彼はやがて言った。
「信じぬ」

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 十六世紀初頭、長くペルシャのサファヴィー朝とムガル帝国に西と東から支配されてきたこの地に、それを覆そうという動きが起こった。カンダハールで、アフガン族の族長、ミール・ワイスが蜂起したのである。彼はやがて王(ハーン)を称した。
 ミール・ワイスには六人の息子があった。
 やがてミール・ワイスが年老いて世を去ると、父親の右腕として兄弟の中で最も勢力を持っていた長兄のマフムードが即位した。絶対的な即位であった。
 弟たちは彼に命ぜられるがまま、次々に処刑された。
 この地では王位継承者を持つ者は即位するか、処刑されるかのふたつにひとつであった。
 しかし、例外があった。末弟のシザリオンである。
 彼は兄たちとはまったくの異腹であった。西洋の血を受けていたのである。
 その昔、商人の父親と共にこの地を訪れ、ミール・ワイスの愛を受けてひとつぶ種を産み落とした碧い瞳の娘―――母親の顔を、シザリオンはおぼろげにしか覚えていない。
 記憶にあるのは顔形よりも白く柔らかい手に包まれ、膝の上で聞かされた色々な話だった。
「シザリオン、お前は獅子座の生まれ」
 母親は常にその言葉を口にした。彼女は王宮の奥で―――他の妃たちから追いやられた隅の一室で、哀しげな笑みを浮かべていた。
 獅子座の生まれであることが、どのような意味を持つのか、幼いシザリオンにはまったく知るよしもなく、また興味もなかった。
 シザリオンは母親ゆずりのほとんど金に近い褐色の髪を持っていた。母親はその髪を撫でながら、はるか西の、故郷のことを話して聞かせた。
 想像のつかないような形の寺院や、街並みや、人々や、海や―――様々なことが彼女の口から語られた。
 そのような時、彼女はこの世の哀しみを知りすぎて、もはや明るくなってしまった瞳を窓の外へ向けるのだった。
 何十回、何百回と毎日のように彼女の話は繰り返されたが、シザリオンにはその異郷がどのようなどのようなところであるのか、想像することは出来なかった。王宮の窓から見える景色は赤茶けた砂漠と、青い巨大な廟と市場の喧騒だけだったのである。だが、彼は母親の話を聞くことがいやではなかった。時には彼の方から母親にねだることもあった。
 白く、細く、まるで少女のような母親が消えいるように亡くなったのは、シザリオン七歳の時であった。
 幼くして母を失くしたシザリオンを、父王ミール・ワイスは片時も離さず側に置くようになった。
 かつてこの地を狼の如く駆け、制服した勇士もこの頃には老いた優しい父親だった。彼はすでに政務の大部分を長子マフムードに委ねていた。実際、アフガン族の蜂起を成したのも息子の彼であった。
 シザリオンは父親の膝の上で毎日のようにマフムードと会った。彼はことごとく、どのような時でもシザリオンを無視した。まるでシザリオンがそこにいないかのように振舞った。
 ―――異国の血の混じった髪の赤い奴など王家の一員であるものか。
 その態度はありありとそう言っていた。

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. 獅子座のシザリオン 第2回

 にも関わらず、シザリオンは年老いた父よりも、むしろマフムードが好きだった。幼心にも彼が自分を忌み嫌っていることは判ったが、そんなことはどうでもいいことだった。日々、都を馬で駆け回る逞しい、この父ほども年齢の違う兄をシザリオンは尊敬してやまなかった。
 その気持ちがシザリオンを徐々に変えた。
 十歳を過ぎる頃には一日中母や父の側で過ごした弱虫の子どもの影はどこにもなかった。兄、マフムードのように、より強く、より気高く!!―――すべてはその願いに付随した。神そのものとして兄を崇め、憧憬した。
 時には城壁の外、都邑を離れて遠方まで馬を駆り、自らを鍛えた。まだまだ兄には足元にも及ばぬ。そう痛感することが自身を厳しくさせた。
 シザリオンは又、他人に対してもそうであった。
 召使いを含む周囲の人間は愚かしくあってはならなかった。
常に寸分の手落ちもなく彼に接さなければならず、そうでない者は二度とシザリオンの面前に出ることを許されなかった。召使いたちはそのために常にひどく神経質にならざるを得なかった。
 マフムードはシザリオンが成長しても無視し続けた。だがシザリオンは兄の関心を得ようと媚へつらったり、わざと反抗的になったりしなかった。あなたを神のように崇めている、などと口が裂けても言うつもりはなかった。
 シザリオンが二十歳になった時、ミール・ワイス王が崩じた。
 王宮内はにわかに殺気立った。王位が継がれるにあたり、多くの血が流されなければならなかった。
 マフムードに次ぐ勢力は皮肉にも末弟、シザリオン自身であった。彼は臣下に対し痛烈なほど厳しかったが、それが逆に人望を集め、結束を強くしていた。長老、アブドゥラ・ハッサンまでもが彼を推した。
 しかし彼は首を横に振った。
「王位は兄上のものである。私は彼の弟として死にあまんじることを嬉しく思う」
 しかしマフムード即位の後も、処刑の命令は依然として下らなかった。
 暗く垂れこめた空気のうちに他の兄たちの処刑は終わった。そしてようやくしてから、マフムードからの召しがあった。
 シザリオンは二十歳にして初めてマフムードから言葉を賜ったのだった。
「弟よ」
 玉座から下ったその言葉が、シザリオンの心を感動にうち震えさせた。兄が自分の存在を認めてくれた今、処刑死は名誉以外のなにものでもなかった。
 しかし次の言葉は意外なものだった。
「余はそなたに辺境の蛮族討伐を命ずる」
 シザリオンは思わず伏せていた顔を上げた。明らかに自分とは違う砂漠の民の黒く鋭い瞳が泰然とかまえていた。
「兵士は与える。直ちに発つがよい」
「王(ハーン)はッ」シザリオンは立ち上がった。「王はこの弟に死をご命じにはならぬのか」
「そなたは生きて蛮族討伐から帰城するつもりか?シザリオン」
 シザリオンの気持ちはその場で決まった。
 命を賭して蛮族を討てと兄は言う。使命を与えられて死ぬならば、処刑を受けるより明らかに本望であった。それが、生まれて初めて兄から下された命令ならばなんとしてもやり遂げねばならなかった。兄の治める国の辺境を一掃できる光栄に、シザリオンは燃え上がるような心地を味わった。
 しかも、それが体(てい)の良い国外追放であることを彼自身、百も承知していた。

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シザリオンにはひとりの妃があった。
 一夫多妻制が常であるこの国にあって、父王ミール・ワイスが数あまたの貴族の娘を与えようとしても、彼は頑として聞き入れなかった。
 その娘は家畜と共に平原を移動する貧しい遊牧民族だった。
 ある時、シザリオンは峡谷深くひとりで馬を駆り、泉の畔でその娘と出逢った。重苦しい(※)チャドリに身を包んだ都の女を見慣れたシザリオンにとって、顔をあらわにしたその少女は新鮮そのものだった。
 彼女は黒く、艶々と波うつ髪、浅黒く健康そうな肌、濃い碧の瞳を持ち、目の覚めるような群青の衣服の上に、ありったけの装飾品を着けていた。
 ふたりの周囲には夥しい数の羊と牛が放たれていた。ひとつ丘を隔てて数個の小さな(※)ユルトが見え、辺り一面、瑞々しい青草の世界だった。
「水を飲みたい」シザリオンは馬上から声をかけた。「器を貸してもらえぬか」
 娘は食い入るように相手を見つめて突っ立ったままだ。
「水を飲みたいと言ったのだ」
「……」
「言葉が通じぬのか」
「いいえ」少女は初めて口を開いた。まだ女の声ではなかった。「馬から下りねば差し上げられない」
「何と―――?」
「届かない」
 少女は小さな両手を合わせて上に向け、差し出してみせた。
 シザリオンは思わず微笑んで、すぐに馬を下りた。そうして少女が手のひらにすくった清水を飲んだ。少女は言われるまま、三度も水辺と彼の間を往復した。
「美味かったぞ、娘」
 シザリオンが三度目の水を飲み干した時、少女の顔が笑みに輝いた。
「名は?」
「エクセルシア」
 答えたとたん、少女はすくい上げられ、馬の背に乗せられた。谷を過ぎ、平原を越え、都城に着いた時から少女はシザリオンの妃になった。
 まさしく略奪されてきた妃―――エクセルシアはしかし、故郷の平原や父母を思ってシザリオンの母のように泣き暮らしたりはしなかった。
 シザリオンから受ける愛情の深さそっくりそのまま、いや、それ以上を彼に返し、彼の住む居城を、周りの人間を、都邑を、幼い頃から慣れ親しんだもののように愛した。
 シザリオンの愛は、直線的であった。兄を憧憬する上への思いがそのまま下へ、エクセルシアへ向けられた。厳しさを求めるのは臣下と同様、エクセルシアに対してもそうであったが彼女はシザリオンの思いやりを日を追う毎に深く知っていった。
 いつか、シザリオンは声をかけてみたことがあった。
「故郷が恋しくはないか」
「恋しい」エクセルシアは真顔で答えた。「季節ごとに山野を移動した生活も、羊も、ユルトも、家族も、恋しくないなどということがあろうか」
「では何故私の元から逃げぬ」
 すると彼女はいたずらっぽく笑って、
「何度逃げても王子は私を連れ戻されるであろう」
 その通りに違いなかった。
 そうやってはぐらかす若い妃がよけい愛おしく思われるのか、シザリオンはそれから政務の合間をぬってエクセルシアを遠乗りに誘うことがよくあった。
 美しい流れの際や、白い岩肌を望む峰や、銀色の原や、いたるところでそれぞれの馬に乗った仲睦まじいふたりの姿が見られた。

 (※)チャドリ…この地方独特の長い裾の重々しい衣装。
 (※)ユルト…この地方独特の移動式住居。
        モンゴルではゲルという。

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. 獅子座のシザリオン 第3回

 シザリオンはその最愛の妃に、蛮族討伐のことを話さなければならなかった。
 エクセルシアは彼が話す間じゅう、ぼんやりと燭台の灯を眺めながら寝台の上に座っていたが、やがて静かに口を開いた。
「案じられることはない。私は遊牧の民の娘、旅には慣れている。王子の足をまとわせるようなことはあるまい」
 シザリオンはゆっくりと彼女の横に腰を下ろし、その眼を見据えた。
「エクセルシア。私はお前を連れては行かぬ」かすかに声が震えた。「お前は明日から兄上の…マフムード王の妃をなるのだ」
 エクセルシアの顔から血の気が退いた。
「王子は…恐ろしいことを言われる。王子は私に死ねと言われるのか」
「王の妃になれと言ったのだ」
「王が言われたことか。それとも…」
「王の仰せだ」
 エクセルシアは両手でシザリオンの腕を握り締めた。
「私はついて行く」
「ならぬ」
 シザリオンは鉄壁のような表情でかぶりを振った。だが若い妃も必死だった。
「では、待つ。このまま誰のものともならずに」
「ならぬ」
「何故っ!?シザリオン!!」
 エクセルシアは叫んだ。
「エクセルシア……」シザリオンは妃の震える手に自分の手を重ねた。「私は明日発つ。その瞬間から王子ではなくなる。蛮族を討ち、もし生きながらえても二度とこの都に帰ることはない。ミール・ワイス王の六番目の息子として…いや、マフムード兄の弟に生まれた時からの定めだからだ」
「……」
「唯一の気がかりはエクセルシア、お前のことだった。しかし、幸い兄の方から妃に迎えたいとの仰せがあり…」
「それで…」エクセルシアは彼の言葉を遮った。「あなたは承知なされた」
 大きな瞳から真珠がこぼれたと思うと、彼女は頭を垂れ、肩を震わせた。しばらく沈黙が流れた。
 シザリオンにとって、この妃は最愛であった。いや、最愛のふたつのもののうちの片方であった。もう片方は…愛と呼ぶにはあまりにも荒々しく厳しい、兄、マフムードへの忠誠であった。どちらかひとつを選ばねばならないとすれば、後者でしかない。そしてそれを決断した以上、前者に用は無かった。
 突然、エクセルシアの手がシザリオンの腰の短剣を抜いたと思うと、刃先は彼女自身の喉へと向けられた。
「エクセルシア!」
 間一髪、シザリオンの手で短剣は取り上げられ、テラスの闇に放り出された。エクセルシアはシザリオンに鋭い視線を向けた。
「ついて行くこともならぬ、待つこともならぬ、死ぬこともならぬ……!いったい私はどうすればよいと!」
「……」
 彼女はシザリオンの襟元を両手で握りしめた。
「私は王子がいなければ呼吸(息)ができない。目も見えない。耳も聞こえない、歩くこともできない。この身体じゅうの血は私の中をめぐり、王子の中をもめぐって初めて赤い色を保つ。この眼はいつも王子と同じものを見、この耳はいつも王子と音を聞き、この魂はいつも王子と共にある。そうではなかったのか!?この髪、肌、手、足、胸―――すべては王子のためにある。王子が存在するから息づいている。そうではなかったのか!?そうでは…なかったと言われるのか!?」
 語尾は涙にまみれていた。

背にかかる濡羽色の髪を、シザリオンは優しく撫でた。
「お前の言うとおりだ。私もまたそう思う。お前と別れることは半身をそがれるにひとしい。しかし兄上は私の全身を、全身全霊を所有されている。その命令に背くことはできぬ」
 兄のことを口にする時、いつもそうであるようにシザリオンの眼は光を発するほどの輝きに満ちた。エクセルシアは改めて驚いた。
「逆境…」
「え?」
「王子を見舞っているこの運命は逆境でしかない。ミール・ワイス王のお血をひいて生まれながら…それもマフムードさまにひけをとらぬ王位継承のお力がありながら、地の果てへ旅立たねばならぬとは…逆境でなくして何と呼ぼう。なのに…」
「……」
「なのに王子のお顔はこんなに希望に満ちておられる」
 エクセルシアは見てとった。シザリオンの内部(なか)でのマフムードとの闘いに己が負けたことを。この黄金の髪の青年は私がいなくても生きてゆける。だが、マフムード兄無しには生きてゆけない。
 エクセルシアは大きくため息をつくと、シザリオンの胸から離れ、ふらふらとテラスに出た。彼方の闇にどんよりと浮かびあがるモスクの影の真上に、細い三日月が出ていた。
「王子さえご満足なら私には何も言うことはできない」
 彼女は背後のシザリオンに、というより独り言のように言った。
「王子がそうしろと言われるなら私は都に残ろう。マフムードさまの妃にもなろう。一生、王子と会えなくとも耐えてみせよう」
 彼女はあふれる涙を落とすまいと月を仰いだ。シザリオンも星明りの下へ足を運んだ。と、彼女は振り向きざま、
「だが、このわがままだけは許されよ。いや、これだけは王子に口出しはさせない」
「……」
「私の心は永遠(とこしえ)に王子のものである。王子が何処におられようと、私が王妃になろうと、ふたりの身体が滅ぼうとも」
「幾十年経とうとも」シザリオンが後を続けた。「幾百年、いや幾千年経とうとも……私の妻はお前ひとりだ」
「シザリオン……なんという身勝手な……私の獅子」
 ふたりは溶けあうように抱き合った。
 降るような星空が辺りを青く染め、最後の夜は静かに更けた。

3


 翌朝、朝陽が真横から射すのを合図にシザリオンは都城を発った。
 王から与えられた兵数は、ほんの申し訳ていどであった。わずか五十騎の兵と、荷を運ぶロバとラクダ、食用の羊などが後に続いた。王位継承争いに敗れた者の旅立ちは見送る人々の姿もなく、ひっそりと行われた。
 折りしも、この国は隣国サファヴィー朝と交戦状態にあり、人々の関心は今、それのみに向けられていた。隣国とは逆方向の辺境に向かう蛮族討伐隊などその存在すらも人々の知ったことではなかった。

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. 獅子座のシザリオン 第4回

「王子!」
 突然、馬蹄音と共に逞しい声が追ってきた。
「ダヒム」
 浅黒い精悍な顔、褐色の瞳、いかにも若い好漢である。彼は言わばシザリオンの竹馬の友であった。
 幼い頃から共に学び、遊び、主従の壁を越えた友情で結ばれた仲である。
 彼は若輩ながら武将としての優れた力を発揮し、昔からマフムードの信頼も厚かった。
 長くサファヴィー朝との闘いに参戦していたため、シザリオンとの再会は数年ぶりであった。
 久しく留守にしていた都に立ち戻ったダヒムはシザリオンの辺境遠征を聞くや、すぐに駆けつけたのだった。
「王子、くれぐれもご健勝で」
 その瞳を見れば彼の心の内は手にとるように解かった。
「ダヒム、お前もな」
 これがこの世で最後の対面になるかもしれぬ。ふたりの心は百も承知していた。
 ダヒムの熱い視線を背に感じながら、シザリオンは馬の首をめぐらせた。
 隊列の影が長く伸びる中、シザリオンは一度だけ王城を振り返った。ダヒムの他、誰ひとり見送らずとも、王城の中からたったひとり、血を吐くように夫の名を呼ぶ若い妃の声だけは、耳の奥から湧き上がるようだった。
 可哀想なことをしたとは思ったが、どうにもならぬ、と視線を前に戻した。兄に差し出した以上、もう彼女とは何のつながりもなかった。
 しかし、王城から隊列を見送る眼がもうひとつあった。
 マフムード王であった。
 彼は隊列が地平の彼方に消え去るまで長い間、テラスに立ち続けていた。その漆黒の瞳が厳しさと深い感慨に満ちていたことは誰も知らなかった。
 シザリオンは一路、バクトリア地方を目指した。
 一行には、思いがけず前王、ミール・ワイスの側近でシザリオンにも即位を勧めた長老、アブドゥラ・ハッサンも自らの意志で同行していた。ミール・ワイスには命も惜しまず仕えたが、マフムードとは折り合いが悪いらしかった。一族の気質がそのまま年輪を着た、白髪の好々爺であった。シザリオンもこの老人には幼い頃から親しみが深く、今度の旅でも教えられることが多々あった。
「待たれることじゃ」
 老人はひとりで頷きながら、シザリオンによく言った。彼が何のことかと訊くと、
「そのうちお解かりになる。とにかく今は待たれることじゃ」
 そう言って白い顎ひげを撫でて、又、頷いた。
 だがシザリオンはのん気に待っているわけにはいかなかった。都の人々の関心はどうであれ、この国が隣国と事を交えている以上、背後の防衛は重要な任務であった。
 都を発って数日、ひとり、またひとりと兵士が一行に加わってきた。どの顔もかつてシザリオンの配下にあった精鋭であった。一行がヒンズークシュの山脈を間近に見る頃には、その数は倍以上になっていた。
「わしの言うとおりでしたろう」アブドゥラ老人は目を細めた。「これも王子のご人望じゃて」
「更には兄上の」
 シザリオンは付け加えた。

彼はまず山脈の麓に勢力を持っていた部族を討って出た。
 兵数では遥かに劣っていたが、国家の軍として日々、訓練を繰り返した精鋭と、山賊とでは勝敗は明らかだった。シザリオンは己が手で族長を討つと、たちまちのうちにその一族を従えた。
 この地方の部族は交戦して族長を失うと彼を討った敵を新しい族長として仰ぐ。族長に殉じて後を追う忠誠心を持ち合わせている者などいない。弱小な長(おさ)に用は無かった。新しい族長も一族を処刑したりしない。彼らは次の闘いでの大切な戦力になるからだ。
 こうしてシザリオンの一行はまたたく間に大所帯に膨れあがった。
 都を発ったのは秋の終わりだったが、シザリオンは酷寒の間にヒンズークシュの麓一帯を征し、雪どけを待って山脈を越えた。春は雨が多かった。
 シザリオン一行はすでに数部族から成っていた。一部族を呑み込むごとに彼には部族中一番の美女が差し上げられた。人々はこの見慣れぬ外見の、若い統率者を、遥か西方の幻の都、バビロンの獅子が甦ったと噂しあった。それほどに馬を駆って金髪をなびかせる彼は、逞しく崇高であった。
 しかし、彼は各部族から差し上げられたどの娘の(※)ユルトにも足を運ぼうとしなかった。
 長老、アブドゥラ・ハッサンは、これを知るとすぐさまシザリオンに言上した。
「各部族から差し出された娘は言わば盟約の印。シザリオンさまがそれらを愛さぬとなると礼儀に反するばかりでなく民からの信頼も失せるやも…」
「解かっている」
 鼻息を荒くして詰め寄る老人と対照的に、シザリオンはさほど気に留める様子もなかった。
「いいや、解かってはおられぬ。他の部族を統率することは武力だけでは成りませぬ。あなたさまのお父上もそうやって」
「解かっている」
「シザリオンさまが今もエクセルシアさまのことを思われるのはこの爺にもよう解かります。しかし…」
「そうではない」
 シザリオンは口に出してから、もう一度心の中で繰り返した。そうではない。
 確かにそうではなかった。別れ際に妻はエクセルシアひとりだと言ったことを守り通すほど、自分は誠実でも純朴でもないと思った。現に、妃としての娘は数多く迎えている。彼女らのユルトに足が向かないのはただ、それ以上の関心事がシザリオンの心を大きく占めているからにすぎなかった。
 言うまでもなく兄の命によってバクトリア一掃を目指していることだった。
 幼い頃から待っていた、兄からの初めての命令に自分があまんじていることに無我夢中だった。自分はこれを遂行するために生まれてきたのだ、とさえ思った。
「女が必要になれば自分で見つける」
 シザリオンは言い捨てた。
「それはそれでよろしかろう。しかし、選ばれてきた娘たちも愛おしまねばなりませぬ。お気に召さずとも、しかも平等に。―――王(ハーン)とはそうしたもの」
「王(ハーン)?」
「そうでございます」
「王は私ではない。私はあくまで兄上の代行をしているのだ。王はあくまで兄上」
「……」
 長老はやれやれ、というようにかぶりを振って退散した。
 だが依然として、シザリオンは妃たちのユルトを訪ねようとはしなかった。
 彼にしてみれば、いくら美しくとも自分の選んだ女でなければ妃として扱うつもりはなかった。

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. 獅子座のシザリオン 第5回

6


 やがて夜空に獅子座の大鎌がかかる季節になろうとしていた。
 シザリオンはこれまでにも十日と空けず都に戦況を報せる馬を放っていたが、兄からの返事も指令もまったく無かった。国外追放者など知ったことではないと言いたげに、蛮族討伐をシザリオンのひとり相撲にしてしまっていた。
 都かた戻った使者は必ず悔し涙を流した。マフムード王はシザリオンさまを何と思われているのか、血も涙もないお方だと並べたあげく、結局、早く都に帰りたいと言った。シザリオンはいつも黙って報告を聞くだけであった。
 そんなところへ、突然、都からの使者があった。マフムード直轄の兵士であった。
 使者はシザリオンの前にひざまずくと、言った。
「先日、エクセルシアさまが王子をお産みになりました」
「……」
「お世継ぎがご誕生になりました」
「解かった。兄上に心から祝いを述べると申し伝えてほしい。ご苦労だった」
 シザリオンはそれだけ言うと、すぐに奥の部屋へこもった。
 衝撃も動揺も無かった。意外にもこの時、彼の心に広がったのは満足であった。
 あの女は逃げ出すことも死ぬこともせずに、自分の言ったとおり大人しくマフムード王の妃でいる。しかも今度生まれた子はマフムード王にとって初めての男子である。悦ばしいことだと思った。
 シザリオンはユルトの外に出た。空は強烈な夕焼けの赤に染められている。
 逆境…
 不意にエクセルシアの言葉が思い出された。シザリオンの口元に苦々しい笑みが浮かんだ。
 確かにこの実を逆境と思わぬわけではなかった。一歩間違えば野垂れ死にするかもしれぬ碧落の地にひと握りの兵と共に放り出されたのである。
 彼はこの時、マフムード王が自分にとって憧憬の対象であると同時に敵視していることに気づいた。敵も敵、全身全霊を投げうって闘ってもかなわぬ巨大な壁であった。しかし敵ゆえにその命にあまんじ、敵ゆえにそれを完璧に成し遂げねばならなかった。そうすることが唯一、マフムード王に勝つことだと思った。
 嵐である。
 シザリオンは感じた。強烈な熱い嵐が自分を取り巻いていた。

翌年、バクトリア地方に足を踏み入れたシザリオンは、その次の秋には一帯の部族をことごとく従えた。
 ある時は族長と闘い、ある時は族長と盟友を約し、ある時は族長の血縁の中から妃を迎えた。しかし、勝利の決め手は何といってもシザリオンの統率力であった。
 草原の人々は闘いが終わると一変して平和な遊牧の生活に戻るのが常であったが、彼はそうはさせなかった。男たちには毎日、戦闘訓練を義務づけ、女たちには男たちがいなくても充分、家畜を扱えるよう指導した。
 シザリオンの居所として巨大な張幕が張られた。
 彼のかたわらには長老のアブドゥラ・ハッサンが影のようにつき従い、更にその周囲を十数人の精鋭が取り巻いた。張幕の周囲にはそれよりひと回り小さいユルトが点在した。未だ夫を迎えたことのない妃たちのユルトである。
 それらはすでに国家の規模を成していた。
 カンダハールの都を発って三年が過ぎようとしていた。バクトリア一帯を征したシザリオンには、今やっとほんの束の間の安らぎが訪れた。新たに春、東へ向かう前にこの地で冬を越すことになったからである。
 内陸の冬は厳しい。
 雪が辺り一面を覆い、人々はユルトに閉ざされる生活を余儀なくされた。
 そんな折、西から来た踊り手の一団が身を寄せてきた。兵士たちにとって、何よりの骨休めと退屈しのぎになった。シザリオンの張幕でも、連日連夜、宴が催された。
 きらびやかな衣をまとった踊り娘たちが炎を囲んで舞い、その周囲に様々な楽器を持った男たちが居並んだ。
 シザリオンは中央の座から器を手にしたまま、それらにぼんやりと目をあてていた。
 頭の中は今、目の前で華やかに催されている宴とは無縁であった。春が訪れたなら―――雪が溶けたなら―――どのようにして東方へ兵を出し、どのようにして今まで征した地域を治め―――いや、それよりムガル帝国の脅威を恐れなければならぬ。いやいや、西方、ペルシャのサファヴィーとて油断はならぬ。考えることは山ほどあった。
 (※)茶(チャイ)を一気に飲みほし、一息ついた彼はふと踊り娘たちの向こう側へ視線を向けた。そして我が眼を疑った。
 ――――エクセルシアがそこにいた。シザリオンと炎をはさんで向かい合う座に座り、伏目がちに一心に琴をかき鳴らしていた。

               
                   つづく…

 (※)茶(チャイ)…この地方独特のお茶。
   イスラム教徒なため、宴でもお酒が出なくて迫力なし!

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. 獅子座のシザリオン 第6回

 口元には薄い地のヴェールを着けているが、目元や額の生え際、白い手…まさしくエクセルシアではないか。シザリオンは思わず立ち上がった。その時手から落ちた器がけたたましい音をたてて砕け、いっせいに男たちの目を集めた。
 その険しい表情に、一同は何か彼の機嫌を損ねることでもしたのかと萎縮した。踊り娘も舞いをやめてしまい、その場は異常にしん、となった。
 エクセルシアだけがシザリオンの食い入るような視線を受けながら琴を奏でていた。
 恐る恐るシザリオンの側に来た男があった。踊りの一団の団長で、ひどく太った、顔じゅうヒゲだらけの四十がらみの男だった。彼は背を丸くして揉み手をしながら近づいてくると、シザリオンに耳打ちした。
「あの女がお気に召しましたか」
 シザリオンは怪訝な面持ちで団長を見た。
「あの女は―――」
「エリドゥと申しまして、私の五番目の妻でございます」
「エリドゥ?」
 エクセルシアではないのか―――。シザリオンは力が抜けたように腰を下ろした。
 冷静になってみれば、エクセルシアがここにいようはずがないことがすぐ解かった。ここはバクトリア、都のカンダハールとはヒンズークシュの連峰を挟んで何百里と隔たり、エクセルシアは幼い王子とマフムードの元で平和に暮らしているはずである。
 シザリオンは焦った。団長の妻をエクセルシアと錯覚した時の自分の狼狽ぶりは何なのだ。そしてそうではないと解かった瞬間の心、それは落胆ではなかったか?
 頭の中が混乱した。
 宴はいつのまにか元の賑やかさを取り戻していた。
 団長が言った。
「エリドゥはまだ年齢は若うございますが、琴を弾かせればあのとおり、舞いも右に出る者はおりません。ご覧になられますか?シザリオンさま」
「いや、よい」
 シザリオンはもう一度彼女に目をやった。確かに面差しがエクセルシアとよく似ている。
「それだけではございません。エリドゥの行う占星術がよく当たるのですよ」
「ほう?」
 彼は元々、占星術を信じなかった。
 忌み嫌うとまではいかずとも、それによって闘いの計画や準備を左右することは考えられなかった。この地方の歴代の王者(スルタン)がそのような方法をとったのに反し、彼はひとりの術者も参謀に置くことはなかった。
 だがこの時、どうしたわけか占いを聞いてみる気になった。
 団長は踊り娘たちに舞いを止めさせ、エリドゥをシザリオンの前に呼んだ。一同は水をうったように静かになって、それを見守った。
 琴を離したエリドゥは真っ直ぐな視線でシザリオンを射た。エクセルシアの持たない烈しさであった。彼女はやがて細いがはっきりした声で、
「シザリオンさまは…獅子座宮のお生まれであられる」
「よく解かったな」
「すぐに解かる。まさに天の大獅子が地上に下りられたお姿」
「私は人間だ。あまり馬鹿馬鹿しいことは信じぬ」
 エリドゥはそれには何も答えず、やがて目を閉じた。しばらく沈黙が続いた。全天の星の輝きが彼女の頭の中で駆け巡っているのかもしれなかった。
 やがて彼女は口を開いた。
「…殺戮と征服が繰り返されよう。シザリオンのお身を、これからも幾度となく嵐が、炎が襲いかかろう。また、自らもそうした嵐や炎となって、他を襲われよう。しかし……どのように世が乱れようとシザリオンさまの辿りつかれるところはたったひとつ……」
「たったひとつ……何処である?」
 シザリオンは面白そうに訊いた。占いなど座興でしかなかった。
「獅子座は宝瓶座(みずがめざ)を愛す……」
「む?」
「宝瓶(みずがめ)……つまりは泉…更にはひとすくいの水……。シザリオンさまが闘いの果てに得られるものはこれである」
「……」
 エリドゥは言い終わると一礼して張幕の外へ出て行った。権力者の機嫌など窺う様子は一片もなかった。シザリオンは彼女の占いの忌みがまったく解からなかった。が、占いとは所詮、こういった抽象的なものだ、と思った。
 それより、飾り気のないエリドゥの態度が印象に残った。

7

 団長がまた、耳打ちした。
「どうでしょう、シザリオンさま。我々一団を冬中、ここにお留め置き願えませぬか。お許しいただけたら先ほどのエリドゥ、シザリオンさまに献じましょう」
 しかし、エリドゥはなかなかシザリオンの召しに応じては来なかった。使いをやるごとに夫のある身だから、と断ってきた。おそらくあの熊のような団長に身売りされてきたのだろうに、義理堅いことだ、とシザリオンはそれもまた彼女らしく思った。彼はこれまでにも時折、民の中で娘を見初め、張幕へ召すことがあったが、これほど頑固にそれを拒む娘は珍しかった。
 やがて、何度目かの使いに応じてエリドゥはやってきた。粉雪がふぶく夜だった。
「では、やはりあれは真実(まこと)のこと」
 エリドゥはシザリオンの胸の中ではらはらと涙を流した。
 彼がたったひとりの妃のエクセルシアを兄王に捧げてこの地に赴いてきているという噂を耳にし、それが真実か否か、シザリオン自身にただしたのだった。
 彼は素直に認めた。エリドゥのハシバミ色の瞳から涙がとめどなくあふれた。
「なんとお可哀想なエクセルシアさま」
 エクセルシアの不幸を我がことのように考えているらしかった。
「シザリオンさまもむごいことを」
「むごいか」
「はい。女は弱いもの。夫の命令には逆らえぬ。唯一、逆らうには死ぬしかない」
「では、お前も団長の命令だからここへ来たのか」
「……」
エリドゥはおし黙った。
「私のものになるのが嫌なら死ぬしかないと言うのだな」
「……いいえ」
「今、お前はそう言ったではないか」
「確かに」
「では…」
「シザリオンさま」彼女はシザリオンの言葉を遮った。「女とは哀しいもの。拒むには死しか道はなく―――それでも、より強烈な存在を知ればふらふらとその方へ流されてしまう……そういうものである」
 そう言ってエリドゥはシザリオンの胸に顔を埋めた。彼はエクセルシアを腕の中にしているような錯覚に襲われた。エクセルシアもまた、より強烈な存在を求めてマフムード王の妃になることを承知したのかもしれない。そう命令したのはシザリオン自身のはずであったが、今は彼女が腹立たしかった。それに引き換え、腕の中で震えながら吹雪の音を聞いている娘がひどく頼りなげで、愛おしく思われた。
 彼は娘を、はじける焚き火の側へ近づけてやった。
「エリドゥ…と申したな、来るか、私とともに」
 彼女の予言した、この先襲ってくる殺戮と征服と、嵐と炎の世界に連れて行ってもいいと思った。彼女は形ばかりの妃たちとも、部族の娘たちとも違っていた。エクセルシアによく似たこの娘は都を発って以来、張り詰め続けたシザリオンの心に灯をともした。
 エリドゥは明け方近く、シザリオンの張幕を出た。
 東の空が仄かに明るく、宵のうちに唸りをあげていた吹雪はすっかり止んでいた。彼女は黒いショールで顔を包み込むと、新しい雪の上を急いで歩き始めた。
 ……と、突然、背後に人の気配を感じたエリドゥはゾクリとして立ち止まった。

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. 獅子座のシザリオン 第7回

彼女が冷たい骸(むくろ)となって発見されたのは、その朝であった。背中を一刀のもとに剣で切りつけられ、雪の上に倒れていた。
 報せを聞いたシザリオンは張幕を飛び出してその場に駆けつけた。張幕からはいくらも離れていなかった。
「なんということだ…」
 シザリオンの抱き上げられたエリドゥの顔は安らかだった。
 だがシザリオンの心は大きな打撃に襲われた。彼女を喪ったことも大きな哀しみだったが、むしろそのこと自体よりこうした事件が起こったことの方を恐れなければならなかった。統率者の愛人に剣を向けるなど万が一にもあってはならぬことだった。
 シザリオンはエリドゥを葬ると、すぐさま凶行に走った者を捜させた。調べは連日厳しく行われたが、誰の仕業によるものかようとして知れなかった。民たちの間では、もっぱらシザリオンの妃たちの誰かが指図したに違いないと噂されていた。
 彼の召しを受けた踊り娘に名ばかりの妃たちのうちの誰かが醜い嫉妬の剣を突き立てたというのである。
 それを耳にした時、シザリオンはそれもあり得るかもしれぬ、と思った。だからといって、妃のひとりひとりを引き出して糾弾するわけにはいかなかった。むしろ罪は自分にあった。
 各部族から差し上げられた妃たちをうやむやに扱っていたことを悔いた。若いシザリオンには女の寵の争いがこれほどに厄介なものだと解からなかったのである。
 エリドゥを手にかけた者の名はついに判明しなかった。
 シザリオンは雪を踏みしめながら考え続けていた。夕もやの中に妃たちのユルトが並んでいた。
 思えば彼の母も大勢の王妃たちの末席にあって常に哀しい表情をたたえていた。
 幼いシザリオンにもそれは感じられたが、何故に王城の奥の一隅でひっそりと暮らさなければならないのか、解からなかった。
 度々、部屋を訪れる父王は母にもシザリオンにもこの上なく優しかったが、他の王妃たちや子どもたちに対しても同様であったことが今になってよく解かった。
 エクセルシアも今はマフムードの数あまたの王妃たちの中のひとりであった。そしてその立場に投じたのはシザリオン自身であった。
 権力者の寵は、言わば愛の分配であると同時に権力の公平を図る手段であり、王である者の義務と言わねばならなかった。ミール・ワイス王も、マフムード王も、そしてシザリオンもそれを背負っていた。
「煩わしいことだ…」
 シザリオンは思った。もっと他に各部族を統治する方法はないものか――――。
イメージ9


 春が来るとシザリオンは張幕を解いた。
 妃たちはすべて親元へ返し、統治の中枢をバクトラの街に置いた。選りすぐりの有能な人材を臣として政務に当たらせることにした。そして自らは―――長老のアブドゥラ・ハッサンはそれを聞いて仰天した。
「独りで旅をすると申されますのか!?」
「独りではない。爺、お前も一緒だ」
「衛兵も着けずに!?」
「そうだ。ただの旅人として今までに征した各部族の間を廻る」
「バクトラはどうなされます!シザリオンさまがおられませいでは……」
「アフマッドたちが私の代わりを務めてくれる。都にいた頃よりの腹心の部下である。だが評議の決はあくまで私が下し、マフムード王の名で各部族に公布する。絶えず私とバクトラの間を伝令の馬が行き来するであろう」
 シザリオンは落ち着いて言った。
「東方への遠征はどうなされるおつもりじゃ」
「しばらく延期する。今度の旅のためにはやむを得ぬ」
 アブドゥラ・ハッサンはますます顔を曇らせた。
「いったい何のための旅なのです?張幕をお解きになり、妃さまたちをお返しになり……東方への遠征を遅らせ、政務を臣たちにお任せにならねばならぬほど大切な旅なのですか!?もし、あなたさまがバクトラ不在の間に違背の輩が謀反の旗でも上げればどうなりましょう!?」
 シザリオンの目元が鋭く張りつめた。
「そのようなことはさせぬ」その言葉には絶対的な響きが込められていた。「何びとたりとも私に歯向かうような真似はさせぬ。二度と私のものを奪うことはさせぬ」
「……」
「そのための旅である」彼は穏やかな表情に戻り、老爺を見つめた。「征服地を拡げるより、今ある支配地や民の心を確固たるものにしたいのだ。我々は遊牧民族である。羊を追いたて、育てながら季節ごとに山野を移動する民である。父上もかつては多々ある中の部族の族長であり、そうした生活をしてこられた。そして私もその血が流れている」
「そのような生活をなさると?」
「うむ。民たちの中に入り、民たちと同じ物を食べ、同じ所で眠り、同じことをしてみたい。そうしてこそ、初めて民の信頼が得られるのではないだろうか」
「……」
「今のままでは、民たちは砂漠の砂と変わりない。その時々の風によって西に流れたと思うと、次は東に渦を巻き、かと思えば南に山を作る。解かるか、爺?いつか、私やマフムード王以上の権力者がこの地を襲えば民たちはすぐさま彼の味方につくだろう。かつて、族長を失って私に服したように…」
「ですが、それが世の常…」
「……であってはならぬのだ、アブドゥラ爺。私はたとえ私ひとりになっても最後まで忠誠を誓ってくれる兵士や民が欲しい。手に入れたい」
 シザリオンは熱っぽく語り終えると、窓外のバクトラの空に目をやった。
「シザリオンさま、あなたさまはまだまだお若い。事は理想通りに運ばぬものじゃ。心から信頼される民を持とうなどとは……」
 長老はため息をついた。するとシザリオンはすかさず、
「ではお前はどうなのだ?」
「は?」
 長老は度肝を抜かれたように一歩退いた。
「仮に、サファヴィー朝かムガル帝国が攻めてきて、私を差し出せば命は助けてやると言われたら、お前はその通りにするのか?」
 しばし沈黙が置かれた。
 会話の途切れた部屋に、路上の人声が遠くザワザワと響いてくる。
「おっ怒りますぞ、シザリオンさま!」突然、長老は大声を上げた。「前王に長年お仕えした私が、前王の特にご寵愛されたあなたさまを裏切るわけがございません!」
「解かった、爺、冗談だ」
 シザリオンは苦笑した。彼はこの老人を誰よりも信じていた。
「仮初めにもそのような!あまりといえばあまりにも…!」
 老人はまだ顔を赤くし、荒い息をしていた。シザリオンは笑い流し、
「そう怒るな。旅の供はお前だけだと言ったはずだ」
 その笑顔に、青年らしい明るさが満ちていた。彼はいつしか二十四歳の夏を迎えようとしていた。

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. 獅子座のシザリオン 第8回

 やがて、ふたりはバクトラの街を後にし、北へ向かった。
 シザリオンはラクダに、長老アブドゥラ・ハッサンはロバにそれぞれ乗り、旅人を装った。彼らを見る人々は、それがこの地の支配者とは夢にも思わなかった。
 シザリオンは今度の旅のことや、バクトラでの統治の状況を逐一、カンダハールのマフムード王の元へ書き送っていたが、王からの返事はなかった。使者は直接、王に書簡を渡すことも許されず、毎度うなだれて戻ってくるのだった。
 シザリオンはそのことで兄を怨んだりはしなかった。むしろ当然だと思った。
 都の様子や、サファヴィー朝との戦況も気にならなくはなかったが、それらは最早、国外追放者の関知するところではなかった。それよりも成すべき任がシザリオンを待ち構えていた。
 アム・ダリヤの大河以南が、シザリオンの征する地域であった。
 流れに近い平原にとどまっていた一部族に、彼と長老は身を寄せた。族長はかつて彼に自分の娘を妃として上げていた。シザリオンは族長に、娘を返したことを素直に詫びた。そして自分が統率者であることを民には伏せておくように言った。
 彼は部族の若者たちと遠乗りを楽しんだり、族長の張幕で開かれる長老会議に出席したり、料理を作る女たちを遠くから見守ったりした。その目立つ容貌のため、民たちにはいつしか彼がシザリオンであることが解かってしまったが、皆は物怖じせず彼に接するようになっていった。そうせずにはいられない雰囲気が常に彼を包んでいた。
 彼自身、民たちに混じっての生活に、思いも寄らず平和な安らぎを見出していた。そこには王位継承争いも、血生臭い闘いも存在しなかった。
 しかし、バクトラからの使者が訪れた時だけ、彼の顔は瞬時にして支配者の顔に切り替えられるのだった。
 ある日、シザリオンはアブドゥラ・ハッサンを連れてアム。ダリヤの流れを見に行った。
 巨大な河幅を持つアム・ダリヤの若い流れは、ヒンズークシュの雪解け水を満々と湛え、ゆったりと流れていた。それは遥か北のアラル海へ、次第に河幅を縮めながらようやく辿りついているのだった。
 シザリオンは彼方の対岸に目をやった。そこはムガル帝国の領地であった。
「みごとな流れでございますなあ」
 長老が背後から言った。
「このアム・ダリヤの向こうはどんなにか素晴らしい土地でしょうのう。アム・ダリヤとシル・ダリヤに挟まれた肥沃の地ソグディアナ地方……。歴代のスルタンが都としたサマルカンドやブハラの街……」
「……」
 シザリオンは河の碧に見入っている。
「シザリオンさま、どうでしょう。ソグディアナに兵を向けられては」
「ソグディアナはムガルの領地である。そこを侵せば最早、辺境討伐ではなく侵略になってしまおう」
「では―――侵略なさればよい」
 その言葉に、シザリオンは思わず振り向いた。長老の視線が真っ直ぐシザリオンの顔を射た。
「お前は私に兄上の命令に背けと言うのか」
「いえ、背けとは決して…。ですが、そろそろお忘れになってもいい頃では」
「……なに?」
「今のシザリオンさまのお力でサマルカンドの街を陥とすことも充分可能。そしてソグディアナ全域を征し、新しい国家をお築きなされ。決して夢ではございませんぞ。更にはカンダハールを攻め、故郷に帰り咲くことも―――」
「爺!!」
 シザリオンの全身が怒りに震えた。長老は静思している。
「二度と言うな。言えば、その時は主従でも何でもない!よいな」
「……」
 長老は慇懃に頭を下げ、その場を下がった。

 シザリオンは再び水面(みなも)に目を落とした。
 河は相変わらずゆったりと白い雲を映し、流れている。彼は恐ろしい、と思った。このアム・ダリヤも、その向こうに果てしなく広がる大地も、恐ろしかった。それらは確かに征服欲をそそった。河を越えれば次の河までの山野、それを手にすれば更に次の河までの平野、山地、砂漠……おそらく地の果てまでも野心は駆けようとするであろう。かつてこの地を割拠した群雄は大地と征服欲の魔法にかかり、つき動かされたに違いない。
 シザリオンも思わずその誘惑に圧倒された。河の音が、稜線の輝きが、目を、耳を、手足を、心を虜にしようとした。だが、それらを拒む理性を、彼は持ち合わせていた。自分のために兵を動かし、他国を攻め、征服欲を満たすなどもっての外である。自分は兄の命令で動いている。兄の心で生かされている。その兄を……。

――――兄上を討つ――――?

 それこそもっての外だった。忠誠心を知らぬ冷血の輩ならいざ知らず、何ゆえ自らの心のよりどころを抹消しなければならぬ。誰よりその心根を知っているはずの長老が浅ましい欲望をあからさまにし、自分にまで勧めたことに、シザリオンは烈しい怒りを感じた。
 だが長老はシザリオンの言いつけ通り、その後決してマフムード王を討て、とは口にしなかった。


 シザリオンの旅は続いた。
 部族と部族の間を渡り歩き、民との交流を図った。そして民の心に確実に統率者への信頼を植えつけた。
 故意にへりくだったり族長の機嫌をとったりするのではなく、ごく自然に彼らの生活に溶け込むことが出来た。
 民たちの、ほんの小さな暖か味に触れる時、シザリオンの心に打算は存在しない。もはや闘いのための結束など忘れてしまうことさえあるのである。民を、羊を、粗末なユルトの中で聞く風の声を彼は愛した。
 部族間を移動する際の旅もまた、愛すべきものであった。広大な山野は人間の愚かしさを思い知らせた。特に長老とふたりきりで地平を眺める時、この世のあらゆる権力者や闘いは無意味に思われるようになっていた。
 しかし、マフムード王の存在が頭を掠めるとたちまちのうちに、シザリオンは現実の厳しさに目覚めた。彼にはやはり旅情よりマフムード王の方が重い存在であった。

 翌年の春、シザリオンはコーヒ・バーバー山脈の北側を山脈沿いに東へ進んだ。
 彼の耳に、不審な風聞が届くようになったのはこの頃からであった。その噂は立ち寄ったユルトの集落や街や行き交う旅人たちからも聞くことが出来た。
 マフムード王が乱心し、都も乱れているというのである。


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. 獅子座のシザリオン 第9回

 長老のアブドゥラ・ハッサンは日に何度もそのことを口にし、執拗に案じる風をシザリオンに聞かせた。
「信じぬ」
 彼の返事はいつも決まっていた。本心からそう思った。マフムード王が仮にも乱心するなどあろうはずがないことを確信していた。ただそのような根も葉もない噂がこの遠く離れた地にまで広がっていることが不快であった。
「つまらぬ噂など気にかけることはない」
 今日もしきりに心配して背後を歩く長老に、シザリオンはラクダの背から言った。
「しかし、火の無いところに煙は立たぬとか。人々がこれだけ騒いでいるのですぞ」
「信じぬ」
 夢を見続けていたいのだ、と彼は思った。たとえ自分は辺境でどれだけドロまみれになろうとも、都にいる兄王は輝きを失わないでほしい。いや、失ってはならぬのだ。
 ふたりの前に、バーミアン渓谷が待っていた。天をつくような断崖に無数の岩窟僧院があり、二体の巨大な磨崖仏が彫られていた。仏像は顔面を削り取られ、両手両足をも失っていた。
 仏教徒の都邑であったこの地にイスラム教徒が入り込み、その果ての闘争の無残な痕であった。今は住む人とてない渓谷に、冷たい風が吹き荒れていた。
 シザリオンは顔面を失った仏像を見上げた。唯一絶対神アッラーを信じるイスラム教徒である彼にとって、仏像は理解の域を越えた存在であったが、それに迫害を加えたイスラム教徒の気持ちも解からなかった。今、砂漠の風にさらされている仏像は、すでに人間同士の醜い争いを過去へ押しやっていた。
 しかし―――、宗教のため、征服のため、様々な理由で闘いは今も続いている。
 何千年も前から、そしてこの先もおそらく―――。そしてシザリオン自らもその渦中にある。何ゆえに。彼はふと我に返った。今までそのようなことは考えたことがなかった。何者にも変え難い兄のため、その命令にあまんじていることで精一杯であった。多分、このバーミアンの渓谷が人間の心を揺るがせる雰囲気を持っているのかもしれなかった。
 日没が迫っていた。
 シザリオンはいつものように日輪に向かって礼拝した。
img161.jpg


 バーミアンの北西へ数里、ラクダの背からそれを見たシザリオンは一瞬、気が遠くなるような思いがした。
 果てしなく底深い碧(あお)、バンディ・アミールの湖群である。それら七つの湖はバルフ川より流れ出で、乾燥した土地の中に点在していた。
 砂の上に落ちたサファイヤさながらに、湖は見る者の心を魅了してやまない。シザリオンは湖を囲む断崖の上に立ち、その場に縛り付けられたように動かなかった。
 砂漠を旅する者の憧れ……この湖から感ずるのはそれだけではなかった。はっきりと言い表すことは難しいが、それはいつかどこかで見たような懐かしいものの面影だった。
「おや、誰か参ります」
 長老アブドゥラ・ハッサンの声に、シザリオンは長い間見つめていた湖面から引き離された。一頭の馬が断崖の上をこちらに向かっていた。馬上の男はやがて馬から下りると、ふたりの元へ走りより、ひざまずいた。
「ダヒムではないか」
 シザリオンの顔が輝いた。
「シザリオンさま、ご健勝で何より」
 都を発つ時、たったひとり後を追って見送ってくれた竹馬の友の姿がそこにあった。

 「バクトラの街で王子はバーミアン辺りだと聞いた。ずいぶん捜した」
 ダヒムは白い歯を見せ、人懐っこい笑顔で言った。シザリオンも思いがけぬ旧友との再会に、心和む思いであった。
 その日の夕刻、三人は湖畔の岩陰で火を囲んだ。長老が付近の遊牧民族から羊を一頭もらってきたので食事は華やかなものになった。
「よくぞこのようなところまで訪ねてきてくれた。嬉しいぞ、ダヒム」
 シザリオンは彼に(※)ナンを渡しながら言った。
「王子こそ―――」
「西の戦況はどうである」
「一進一退、敵もこちらも相変わらず。近く、マフムード王ご自身が遠征されることになろう。そうすれば我が軍の士気も上がるはず。私もじき、戻らねばならぬ」
 サファヴィー朝との闘いは決して予断を許さぬものであるらしかった。シザリオンは身体中の血がざわめくのを感じた。許されるなら、今すぐにも都へ帰り、兄の下で存分に闘ってみたかった。何ゆえダヒムがそれを許され、弟の身の己れがそれを許されぬのか。シザリオンはこの親友を熱烈に羨望した。
「ダヒム、都の様子はどうなのじゃ」
 長老はすがりつくような視線で彼に尋ねた。
「べつに変わりはない」
「な、何じゃと。この辺りでは都はひどい荒れ様という噂じゃぞ」
「何と言われた?ご老人」
 シザリオンが声高に笑った。
「それ見たことか、爺。噂などあてにはならぬ」
「王子、いったい何のことである?」
 ダヒムは怪訝そうに訊いた。シザリオンは近頃の不快な噂を彼に話した。ダヒムはそれを聞くと大きな仕草で手を振った。
「マフムード王が乱心などと、とんでもない!」
「やはり。これで爺の心配のタネは無くなったわけだ」
 そう言いながら、自分自身ホッとしたものをシザリオンは感じた。
「ただ…」ダヒムは焚き火を見つめて、表情を固くした。「変わられたと言えば統治に新しい策を打ち出された」
「どのような?」
 シザリオンも焚き火の踊る影に目をやった。ダヒムは続ける。
「占星術師の参謀を新しく起用され、その者の言うがままに―――。占いによれば王のお命を狙う輩が王の身辺に数多く発見された。膨大な数である。民、商人、兵、中には臣も。彼らはことごとく捕らえられ、投獄され、処刑された者もある」
「真実(まこと)か!?」シザリオンは叫んだ。「その者らに逆心の証があったのか!?」
「いや、無い」
「なに――――!?」
「占いによれば、その中のひとりが何年か後に王の命を脅かすということだ。受難の芽は小さいうちに摘みとっておかねばならぬ。王をお守りするためには多少の犠牲はやむを得ぬ」
 シザリオンの額を脂汗が伝い始めていた。対して冷静なダヒムはとつとつと先を続けた。
「そうだ、捕らえられた者の中に、エクセルシア王妃と幼い王子の姿もあった」
「――――!!」
 シザリオンは我が耳を疑った。

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. 獅子座のシザリオン 第10回

 火の中の薪(たきぎ)が爆ぜる音と湖の小さな水音だけが響いている。
「ダヒム!」シザリオンは彼の両肩を掴んだ。「いったい、兄上は何を考えておられるのだ。まさか本当に乱心されたわけではあるまい!?」
「先ほども申した通り、王は乱心などされてはおらぬ」
「では、何故、そのように多くの、おそらく無実の民を捕らえ、エクセルシアとご自分の子まで―――何故だ?」
「彼らが……獅子座の生まれであったからだ」
「獅子座の……?」
「捕らえられた者たちと幼い王子は獅子座生まれである理由で。エクセルシア王妃はその王子を産んだという理由で」
「……!」
「すべて星占いの結果、獅子座生まれの者が将来、マフムード王の王位とお命を脅かすという出たため、王ご自身がそれに対処されたことである」
 ダヒムの眼が異様な光を帯びてきた。

5

「そして―――最も捕らえられるべき逆心の輩は、まだ手を下されておらぬ」
「……!」
 シザリオンは喉元に冷たい刃の感触を感じた。
「王子、あなたである」
「ダヒム…!」
 シザリオンの頭の中で吹き始めた突風は、その極に達した。兄王が自分を逆心の輩と思っている!全身全霊をかけて忠誠を誓い、愛している兄王が!
「動かれるな、ご老人!」
 シザリオンを助けようと剣に手をかけた長老はダヒムのひと声に封じ込められてしまった。ダヒムはシザリオンの首に短剣を突きつけたまま、
「許されよ、王子。私も幼馴染みの王子にこのような真似をするには忍びぬ。だが、マフムード王のご命令である」
「私にはとても信じられぬ」
「これもあなたの蒔いた種…」
「私が何をした。ただ、獅子座生まれというだけで―――」
「辺境の部族民を懐柔し、密かに謀反の備えをされているではないか。星占いの正確さを裏付けたようなものだ」
「馬鹿な!」
 その瞬間、衝撃は怒りに豹変した。
 シザリオンとダヒムの身体は砂の上に烈しく倒れた。食器類は四方に飛び散り、砂塵が舞った。ふたりはそのまま湖の方へ急な坂を転がった。烈しい水音。
「シザリオンさま!シザリオンさま!」
 薪(たきぎ)の一本を松明にかざして暗闇の中を追ってきた長老は、水際から立ち上がろうとする両者の姿を認めた。ふたりはそれぞれ短剣を構え、一歩も譲らぬ体(てい)である。睨みあいは続いた。
 が、やがてダヒムは身を翻して走り出すや、口笛で愛馬を呼び、飛び乗った。
「王子、これで済んだと思われるな。これからも第二、第三の暗殺者が放たれよう。あなたを仕留めるまで……な!」
 蹄の音を高らかに残し、彼は駆け去った。
 シザリオンは身じろぎもせずその場に立ち尽くしていた。雫が髪や衣服や指先からとめどなく垂れている。夜景の中で湖だけが白く、のっぺりとその面を見せている。昼間見た紺碧の水面と同じとは信じられぬほど、それは不気味で殺伐としていた。
「シザリオンさま…」
 長老が声をかけると同時に、シザリオンの手から短剣が落ちた。そして水の中に両手をつき、その場に崩れ落ちた。長老はしわがれ声で呻いた。
「やはり!!やはり王は乱心されたのじゃ!!」
「――――違う!!」
 シザリオンはかぶりを振って絶叫した。
「兄上は私を裏切ったのだ!……いや違う!兄上は初めからそのつもりで私を辺境へ赴かせた……。兄上は私を陥れたのだ!!」

4


 拳を空(くう)へ突き上げ、何度も湖面を叩き、シザリオンは号泣した。
 どうして兄は自分の心を解かってくれぬ。自分は今まで何のために生きてきたのだ。
 いつの日も、心の支えに兄の存在があった。それを兄はどうして解かってくれぬ。今になってこのような屈辱を受けるなら、ミール・ワイス王が崩じた時、他の兄弟と同様、処刑されていた方がましである。そうだ、これは紛れもなく屈辱だ!
 憧憬の対象であった兄が、急激に憎しみのそれになりつつあった。流れはもう止まることを知らない。ここ最近、シザリオンの心に忍び入っていた、闘うことの疑問や長閑(のどか)な旅情はことごとく消し去られ、兄への戦意だけがむくむくと頭をもたげてきた。
 兄は幼少の頃より己が存在を無視してきた。最愛の妃エクセルシアを取り上げ、己が身を辺境へ追いやった。そして今、途方も無い濡れ衣を着せ、逆心の輩と見なし、己が身を葬り去ろうとしている!
 シザリオンは身も心も冷え切ったかと思われるほど、半身を水に埋め、うずくまったまま長いこと微動だにしなかった。涙も声も涸れ果てていた。やがて西の空が白みはじめた頃、湖畔に立ち続けていた長老が恐る恐る彼に声をかけた。
「シザリオンさま、お身体に障りましょう。どうか…」
「爺」
「は」
 シザリオンは頭を上げ、ゆっくりと立ち上がった。その表情は長老も未だかつて見たことのないものであった。敬慕と憎しみと哀しみと戦意がない交ぜになった、険しい貌(かお)であった。
「ただちにバクトラへ戻る。バクトラへ使者を発せよ。各部族の男たちすべてを集め、兵を挙げ……南下する。……そして」
「そして?」
「兄上を討つ」
 手負いの獅子の声が朗々と湖面の上を響いた。

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. プロフィール

海道 遠(かなた)

Author:海道 遠(かなた)
小さい頃からお絵描き大好き
お話創るの、大好き
      ↓ 自然に
漫画家になりたい
      ↓
OLを退職。デザイン学校の漫画科へ入学
      ↓
家庭の事情で後、半年というところで退学、OLに戻る
      ↓
技量不足とひどい肩こり症のため、もの書きに転向
      ↓
結婚、妊娠、育児のブランクを経て再度ペンを持つ。
      ↓
が、コンクールに落ちる事、数知れず。
      ↓
諦めてアマの道へ

★著作★
 ペンネーム:海道 遠(かいどう かなた)
 「“海王の接吻”を抱きしめて」新生出版
 「CROSS」新風舎 
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★海棠結実(かいどう ゆみ) ペンネームで 

 【 遠雷去らず 】風詠社(鎌倉時代もの)
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