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浪漫@kaido kanata

. 「漆黒のレオパール」第1回

               漆黒のレオパール




プロローグ




 なんてぇ寒さだ、この森は。
 やっと吹雪がやんで助かったと思いきや、しんしんと凍てついてきやがった。あの樹も枝も、まるで氷の彫刻じゃねえか。俺の足も、いまに氷柱になってポッキリ折れるんじゃねえか。
 しかし、凍え死にしそうなこの寒さのおかげで腕の怪我が痛まないのだけは助かる。いや待てよ。いったい、俺の左腕はまだくっついているのか。見届けようにもまつ毛が凍りつきやがってよく見えやしねえ。かすかに白いまつ毛の間から見えるのは俺が点々と雪の上に残してきた血痕だけか。へっ、俺の血も真っ白い雪の上でシャーベットになってやがら。
 流れたいだけ流れちまえ。役立たずの腕なんかちぎれてしまえ。
 イェニチェリの禿げタカどもにくれてやるくらいならこの森で狼の腹の足しにでもなった方がどれほどましかしれやしねえ。トルコ野郎のくそったれ。てめえたちこそこの雪に呪われて全滅するがいいぜ。
 俺たちセルビアの男を馬鹿にすると後悔するぞ。バルカンは、ベオグラードは俺たちのもんだ。禿げタカども、血も涙もないイェニチェリの鬼ども、今に見ろ。これくらいで俺たちがおとなしく引き下がると思ったら大間違いだぜ。
 ああ、ボディンの奴、弱音を吐きやがって。あれほどイェニチェリを木っ端微塵にしてやるっていきまいておきながら、だらしねえったらありゃしねえ、ばったり雪に埋もれてそれっきりだ。ステフェンときたら、銃声が聞こえて振り向いた時にゃ、奴の頭が吹っ飛んで。でももうあの間抜けた面が眺められねえとなると、すっとするような寂しいような。トウモロコシ頭ミローシュも俺の横で冷たくなっちまいやがって、イモ班長も、イヴァンも、エルシャスも、ラーデンも――――――――みんなみんな、俺を置いていっちまいやがった。俺はひとりだ、ひとりだ、俺はこの真っ白い、だだっ広い、母なる大地のど真ん中にたったひとり、置いてきぼりだ。北はどこだ、南は、俺たちのベオグラードは、あったかい寝床は、あの娘のいい匂いの胸ふところは。
 ひとりだ・・・・。俺はひとりだ。トルコ野郎のくそったれ、どうして俺の命だけ奪りそこねやがったんだ、いつもは髪の毛一本、目玉ひとつ残さねえ禿げタカのくせしてよお。ミローシュ、イヴァン、エルシャス、ボディン、俺も連れて行け。いつだって俺たちゃつるんでうまくやってたじゃねえか、よお。
 ああ、力が抜けてきやがった。もう一歩も進めやしねえ。知ってるぞ。気づいてるぞ。もうずいぶん前から俺の血の匂いを嗅ぎつけて餓えた獣が付けねらっていることを。木立の陰、茂みのあちこちからヨダレを垂らした畜生どもの息づかいが次第に俺の耳に近づいてきやがる。狼か、コヨーテか。こうなりゃ何でもかまやしねえ、ベオグラード一の色男と言われたロドルフォ様の末路にしちゃあ、様にならねえかもしれねえが、きれいに掃除していってくんな。
 直に日没だ。貴様たちの晩餐だ。

銀世界の晴天






       第 一 章   凍樹の森にて


 日没である。弱々しい真冬の太陽が彼方の稜線に姿を隠していく。
 一段と厳しさを増した冷えこみに、ヴェロニカは身につけている毛皮を抱きしめて肩をちぢこませると、またちらついてきた白いものを黒い巻き毛の上に積もらせながら、黙々と歩みを続けた。早く野営地を決めて火を起こさねば、辺りがすっかり闇に包まれ終えるまでに狼の餌食になってしまうだろう。しかし、少女は今日に限っていつまでも足を止めようとしない。気がかりなものが、少女の行く手に続いていた。
 血痕と、足跡である。この三日間森の奥で続いていた砲撃はやんだから、おそらく負傷した兵隊のものと思われた。この辺で、戦火や負傷兵などべつだん珍しくもない。ヴェロニカ自身、生まれて十数年間、闘いのなかった時期など皆無と言ってよい。特に数年前、ひとりの豚商人カラ・ジョルジェがトルコの精鋭部隊イェニチェリの苛烈を極める弾圧に対し蜂起してからは、農民たちは次々に畑を放り出して反乱軍に身を投じた。長年虐げられていたセルビア人の怒りが爆発したのである。今や戦いは長期戦へと突入し、戦況もベオグラードの支配権も猫の眼のように変わる有様だ。
 しかし――――――ジプシーの少女、ヴェロニカにとってそれはどうでもよいことであった。
 ベオグラードが誰の手に渡ろうが、国境がどう書き換えられようが、農民が戦いに明け暮れようが逃げ惑おうが、漂泊の民ジプシーにとっては何の関心も誘わぬことだった。
 彼女の今の望みはただ一つ、自らの群れに戻ることである。そのため、彼女は真冬の旅も厭わなかった。一日も早く群れに戻りたい。明々と焚かれる篝火に照らされた彼の横顔を眺め、その語りを聞きたい。
 だが、その前にこの、目の前に雪に消されそうになりながら細々と続く血の痕跡が、何故か彼女には放っておけなかった。
 そして――――――紫色の闇の中に、半ば雪に埋もれている毛皮をまとったひとりの男を見つけた時、ヴェロニカは迷わず走り出していた。


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 オレンジ色の火焔がゆらゆらと視界に映り出した時、ロドルフォは暖炉の火かと思った。美味そうなスープの香りは遠い日、母親が作ってくれたと同じである。それは、はだか火にかけられた粗末な鍋から立ち昇る、何日ぶりかの温かい匂いだった。天井は黒い岩盤、そしてかすかに聞こえる吹雪の咆哮。その響きからすると、洞穴の内部のようである。次第に記憶が頭の内部で明確に像を結び始めた。バルカンの中央高地、深い森の中での戦闘。次々と倒れていった同胞たち。しぶといイェニチェリどもの砲撃、銃弾。
 そこまで思い出した時、急に左腕に激痛が走った。イェニチェリの魔弾が貫いた傷だ。
 (くそったれめ―――――――)
 思わず歯を食いしばった彼は、自分が何かを抱きしめていることに、その時初めて気がついた。暖かい。大きい。軟らかい。長い髪が彼の喉首にまきついている。女だ。
 「気がついたね、兵隊さん」
 女―――――――それもまだ年端もゆかぬ少女はとっくに目覚めていて浅黒い身体をロドルフォから剥がし、白い歯を見せて笑った。露わな胸はまだ熟れる前の青さを秘めているが、堂々とみなぎっている。
 「お前は・・・・・」
 「まだじっとしていた方がいい。出血がひどかったから」
 ロドルフォの左腕はありあわせの布でぐるぐる巻きにされていた。
 「お前がしてくれたのか」
 「覚えてないの?」少女は剥げた緑色の服を着込みながら苦笑いする。「ウォッカで消毒した時、クマみたいに吼えたくせに」
 野ネズミみたいに薄汚れた娘だが、意外と愛くるしい瞳にロドルフォは赤面した。どうやら、まだ生きているのはこの娘が傷の手当てをして夜通し人肌で温めてくれたおかげらしい。ふたりはお世辞にも清潔とはいえない鍋からスープをひとつしかない器に入れ、交代で啜った。これほど臓腑にしみわたるスープをロドルフォはかつて知らなかった。
 「もうすぐ朝だ。この吹雪がやんでくれるといいんだけど」
 しきりに外を気にする少女へロドルフォはぶっきらぼうに尋ねた。
 「お前、ジプシーだろ。小鹿ちゃん。なんで俺なんかを助けた?」
 「だって、まだ息のある人間を吹雪のど真ん中に放ってはおけないじゃないか」
 「いやに誠意があるじゃねえか。ジプシーは昔から嘘つきで盗人、そして見返り無しには仕事をしないらしいって小さい頃から教えられたもんだが。さては、何かが目当てか。生憎だな、俺はこの通り何にも持っちゃいねえ。イェニチェリの野郎どもにこてんぱんにやられていのちからがら逃げる途中だったのさ」
 命の恩人に対してとんでもない暴言を吐いてしまったロドルフォを、ヴェロニカは睨みつけた。
 「命を助けた報酬ならもういただいたさ。ふん、さっきまでおふくろ、おふくろってうなされてたくせに大きな口お聞きでない」
 年長の女のような説教が少女の口からぶちまけられ、その剣幕に、倍ほどの歳のロドルフォはたじろいだ。
 「報酬をいただいただと?俺は金なんて一文も・・・・」
 「何も金だけが報酬を払う手じゃないだろ。あんたがもし女だったらどんな礼の方法があるだろうね?」
 その言葉を聞くなりロドルフォは蒼白になった。ベオグラード一の色男とさえ謳われた身が、逆ならともかくこんな山中でジプシーの小娘に貞操を奪われたなんぞ、洒落にもなりゃしないではないか。
 緑の眼をあらんかぎり見開いてしどろもどろしていると、少女は堪えきれずに笑いを爆発させた。
 「あはははは、冗談だったら。いくらジプシーでも初めての時には恋しい人に捧げたい、てのが乙女心さ。あんたたち非ジプシーが何と思おうとね」
 「――――――――ったく、大人をからかいやがって、このヤマネ」
 「あれ、小鹿ちゃんじゃなかったの?」
 娘の減らず口の相手をしている間に、洞穴の外は夜が明け、風の唸りもおさまってきたようである。
 「さてと」
 ジプシーの娘は腰を上げると手際よくキャンプの道具をしまいこみ、出立の身支度を始めた。ロドルフォは慌てた。
「おい、もういくのか」
「ああ。今日こそは追いつきたいからね」
「追いつく?そういやお前はなんでひとりで旅してるんだ、この真冬にこんな森の中を」
「それを話してると長くなる。兵隊さん、歩けるかい?クマか狼の餌食になりたくなけりゃ這ってでもついてくるしかないだろうけど」
 もちろん、ついていくしかない。ベオグラード育ちのロドルフォにとってはこの地方の森はまったく不案内の場所だったのだ。しかも、食料も無く負傷している身ではいまいましくとも頼みの綱はこの小娘しかいない。
 大慌てで毛皮を肩にかけると、子犬のように娘の後を追い、ようやく朝日の射し初めた外へと出たのだった。

イラスト、キャラデザイン:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第2回

 ヴェロニカ、とその少女は名乗った。
 ジプシーの常として、彼女ももちろん群れの中で生まれ育ち、旅から旅への流浪の身であったが、最近の相次ぐ戦乱で年老いた祖父とふたり、群れとはぐれてしまったのが一年前のことであるという。以来、定住を余儀なくされてしばらく山村の隅に暮らしていたが先日、その祖父が亡くなり、ほどなく自分のいた群れが付近の村を訪れたと風の便りを聞きつけて、合流すべく彼らの後を追っているというのだ。

ロド


 「そんなに一団に戻りてえのか」
 「そりゃそうさ。あたいたちジプシーはひとつところに住めやしない。旅をしてこその自由。漂泊してこその生きている意味。ま、土地だ、町だ、領地だ、国境だ、と騒いで年がら年中戦争している非ジプシーのあんたらにはわかんないだろうけどね」
 少女は飄々と言った。
 「へん、わかりたくもねえさ。お気楽でいいやな、ジプシーなんてもなあ。死守する国がねえんだから」
 青年が垂れる憎まれ口など少女はまったく耳に入らない様子で夢見心地に、
 「今度こそもうすぐ会える。あたいにゃ気配でわかるんだ、あの峠の向こうで彼は皆を野営させているはずだ」
 「彼?」
 「漆黒のレオパールさ。聞いたことがないかい、黒髪の語り部、レオパールのことを」
 誇らしげにいうヴェロニカの瞳がいきいきと輝き始めた。
 「漆黒の豹(レオパール)―――――――?」
 ロドルフォは茫然と繰り返した。初めて耳にする名ながら、それは強烈な余韻を彼にもたらした。
 その日の夕暮れ、昨日とはがらりと違う荘厳な残照の空の下、針葉樹の彼方に行く筋もの夕餉の支度の煙がたちのぼるのを、青年と少女は見た。紛れもなくそれは、この一帯のジプシー全体を取り仕切りロマの王と呼ばれる漆黒のレオパール率いる一団の野営地だったのだ。






    第 二 章  漆黒の髪の語り部





 彼はまだ充分に青年と呼べる若さであった。
 常に地平線を眺めるような眼差し。彫の深い眼。浅黒いおもての、逞しい鼻梁。肩に豊かに渦巻き、つやつやと波うつ黒髪。

レオ

 しかし、彼が漆黒のレオパールと呼ばれる所以がその瞳や髪の色のせいばかりではないことは、飛び入りの客人である、ロドルフォにもすぐにわかった。彼の足元に片時も離れることなく従う宵闇のような大きな黒い獣。それが彼の呼び名の所以だったのだ。ロドルフォは黒豹というものを初めて目にした。しかも、この雪の中、至近距離で。
 ロドルフォは直感した。熱に浮かされながら彷徨っていた森の中で確かに感じていた獰猛な獣の気配、息づかい。あれは紛れもなくこの黒豹のものだったに違いない、と。
 ジプシーたちは六十人ばかりか。男も女も子どもも老人も好奇心に満ちた眼でロドルフォを迎え、豊満な身体の女たちはさっそく媚を売り始め、老女は占いを始めようとする。が、彼が文無しだと知るや潮が退くように散っていってしまった。呆れるばかりのがめつさだ。
 連なる幌馬車、有蓋馬車には派手な原色で着色された軽業や小動物の芸を見せる巡業用の物もあり、内部からは動物たちの蠢く気配がした。


雪原のオリオン

 「よくぞこの戦火と酷寒の中を旅してきたな、ヴェロニカ」伏し拝むようにひざまづいた少女にレオパールは慰労の言葉をかけた。「そうか、老デルカンは神に召されたか」
 改めて祖父の死を思い出し、再会の感激と相まってヴェロニカは泣き出した。
 「じいちゃんも、最期までレオパールの語りをもう一度聞きたいって・・・・」
 「そうか」レオパールは顔を上げ、取り巻く漂泊の民をぐるりと見渡した。「皆の者、今夜は老デルカンの安らかな眠りを祈って、私が朝まで語り続けようと思うが、如何か」
 民たちがうちそろってうなずくのを見届けてから、レオパールの目は後方にいたロドルフォに向けられた。思わず彼は萎縮した。
 「非ジプシーの若いお客人。この私どもの可愛いヴェロニカに伴われてここに来合わせられたのも何かのご縁であろう。後々の語り草にもなろうゆえ、今宵は私どもと共に過ごされるがよい。いや、拝見すればそのお怪我、お客人が回復されるまでいつまででもご同行してくださって結構だが・・・・・」
 「冗談じゃねえ」ロドルフォの叫びにジプシーたちの目がいっせいに振り向いた。「俺は早く駐屯地に戻らなくちゃならねえんだ。こんな森の中で昔話につきあってられるか」


黒ヒョウ 2

 ちょうどその時、レオパールの足元に寝そべっていた黒豹がやおら、大きな口腔を開けて欠伸をした。ロドルフォは飛び上がらんばかりにびくつき、杉の幹の陰に身を隠した。その様子に、ジプシーたちは大笑いした。
 「まあ、お客人。そう慌てずとも今夜くらいはごゆるりと」
 勧めるレオパールも笑いをかみ殺している。今やロドルフォは頭から湯気を立てんばかりだった。ヴェロニカが素早く彼の側へ来て、耳打ちしなければ、その場で彼が一団と別れを告げて雪原に出て行ったことは間違いない。
 彼女は言った。
 「兵隊さん、今出て行ったらあの黒豹が怖いせいだと思われるよ。それでもいいの?」
 かくして、不承不承ロドルフォはジプシーの群れに身を置くことにした。どの道それしか方法はなかったのでヴェロニカの助け舟に感謝しなければならない。

イラスト:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第3回

 「レオパールは代々の伝承の語り部の正統な血を受け継ぐ者。あたいたちの真の指導者」
 ヴェロニカの賞賛はとどまるところを知らない。
 数台の幌馬車が焚き火を囲んで円く停車され、中央にレオパールが悠然と長い手足を伸ばして座し、黒豹の喉元を撫でている。それを見つめる漂泊民の目はどれもヴェロニカ同様、陶然とし、盲目的な崇拝を窺わせる。
 辺りはすでに濃い紫の闇が包み、今宵は雪も息をひそめたようにしんと静まり返っている。
 ロドルフォはヴェロニカに首根っこを押さえつけられるように群れの中に座らされ、レオパールの語りが始まるのを待たされていた。
 新雪が針葉樹の枝からどさりと滑り落ちる音をきっかけに、長く伏せられていたレオパールの濃いまつ毛が開かれた。黒豹が気配を察したか同時に黄色い眼を開き、鋭い唸りを洩らす。ロドルフォは生きた心地がしなかった。ここで逃げ出せば、あの黒い獣はひと跳びで駆けつけ、俺の喉笛をかみちぎるに違いない。
 レオパールが激しく立ち上がった。クマの毛皮をまとっているにしても、その体躯はすばらしく大きく逞しい。
 「民よ。流浪し自由なる孤高の民よ」
 なんと朗々とした声音であろう。話している時の彼の声とはまるで別人のようだ。深く、なめし皮のように心地よく、安らかで、崇高な、魂の奥底から生命の力を引き出すような声である。
 「我らの源が果たしていずこか、それはいかなる古老も、いかなる占い師も知るところではない。また何ゆえ故郷を捨てて、千年も数百年もの間、流浪を続けなければならぬような業を、運命が我らにだけ与えたのか―――――――その答えをこそ見出すために我々は旅を続けているのやもしれぬ。いや、旅を続けなければならぬ、のではなく旅ができる特権こそ神が我らに与えたもうた恵みなのやもしれぬ。非ジプシーである定住民は自由に羽ばたきたくとも土地に執着し、その地で一生を終えるしか神から許されてはいないのやもしれぬ。故に領地争い、国境をめぐり醜い争いに絶えず苦しめられ、人間にとって真に
大切なものを探し求める使命に気づきもせず、またその勇気も持たず神から許されていない。そうして惨めな一生を送るのだ。我らは違う。我らジプシーこそは人間の真に大切なものを探すことのできる貴重な民族。誇りを持つがいい、漂泊の民よ。国が無いことを恥じる必要は微塵も無い。たとえ物乞いと蔑まれようと、盗人と後ろ指さされようと」
 その後、数百年に渡りジプシーの間で語り継がれてきた伝説が、いくつもいくつも彼の流暢な語りで披露された。一団の民たちは、もう数え切れないくらい聞かされたであろうに、老いも若きも恍惚とそれに聞き入った。
 冬の大森林にひときわ赤く燃え上がる焚き火が、周りとはまったく異なる宇宙を現出させている。

焚き火 2

 時折、唐突にレオパールの右手が持ち上がり、民の中で居眠りを始めた者が指される。
 「聞いているか」
 指された者は間髪を入れず応えなければ後々まで笑い者にされるので、夢中で応える。
 「おう!」
 そうして子どもたちはくっつきかけた瞼を開かれ背筋を伸ばし、また彼の語りに耳を傾け続けるのだった。
 ロドルフォもまた、知らず知らず彼の熱い語りの虜となり、聴衆のひとりになりきっていた。それは都会育ちの彼が初めて出会う、漂泊の民だけの神秘的な夜であった。

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 夜半、ようやくレオパールの話は果て、次に早いテンポのギターとマンドリン、大地を踏み鳴らす踊りが始まった。これが追悼の夜かといぶかしまざるをえないほど賑々しい。男たちは酒を酌み交わし、女たちは喉を震わせ歌い、踊りの狂乱に突入する。それはしんしんと冷え込んできた森の空気を寄せつけもしない迫力である。

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 強い火酒を振舞われたロドルフォは、レオパールの語りの最中こそは魂を奪われていたものの、酒が入ると本来の奔放さを甦らせ、そうすると語り部の語った内容がふつふつと彼の勘にさわりだした。
 「確かに人を惹きつける男だよ、あの黒豹の主は。しかし、定住民のひとりとして、あの説教は聞き捨てならねえな。おたくらジプシーはいったい、誰のおかげで行商なり占いなりをして生業をたてられるんですかってんだ」
 ろれつの回らない口でしきりと反論しようとするが、レオパールに面と向かって言う勇気はないので酒瓶を振り上げてヴェロニカに突っかかるばかりである。
 「はいはい、素直じゃないね、兵隊さん。レオパールにまいっちまったんならまいっちまったって言やあいいのに」
 「何だって、小鹿ちゃん。あんまり生意気言ってると喰っちまうぞ」
 ふざけたロドルフォが顔を近づけると少女は小さな山猫のように牙をむき、
 「指一本でも触れてみな、その傷口に咬みついてやるから」
 「じょ・・・冗談だよ、怖いな」
 ヴェロニカは男を追い払うと、もう深い崇拝の対象に再び視線を戻して陶然と眺める。
レオパールは語りを終えると酒もさほど飲まず、ましてや踊りの輪に入ることもせず、朱色の焔を見やりながら夥しい指輪をつけた手で黒豹の背中を飽きることなく往復させている。その仕草を見やるヴェロニカの、一点のくもりなく彼を見つめる眼が、徐々に怪訝な色を乗せ始めた。むろん、泥酔しているロドルフォは感づくはずもない。


ジプシーババ

 ふたりに、老婆が近づいてきた。オリーブ色の、皺深いおもてと抜け目の無さそうな光鋭い瞳はまだまだ衰えてはいないことを証明している。頑固そうな四角い額の両側からは白髪混じりの長い褐色の髪がもう何年も編みっぱなしの乱れようでみつ編みに垂らされ、わし鼻の下の大きな口元にはパイプがはさみこまれていた。
 「ムウシャお婆」
振り向きもせずヴェロニカは老婆に訴えた。
 「レオパールが、あたいの知ってる彼じゃない」
 その声は震えていた。うわ言のようにさらに、
 「そういえば、セレンシアーガは?彼女はどこにいるの?それにゼヨンの姿も見えない。どうしたっていうの、あのふたりがレオパールの側にいないなんて」
 「気づいたのかい、ヴェロニカ」老婆がパイプを唇の端へ押しやり、くぐもった声を発した。「そうさ、レオパールはお前の知ってる一年前の彼とは違う。セレンシアーガかね、あの女なら、ほら―――――――彼の足元に」
 ひょいと老婆がパイプを抜き取って指し示したのは、紛れもない黒豹であった。



    第 三 章  麗人の裏切り




 「教えて、ムウシャお婆。あたいが群れを離れている間に、いったいレオパールたちに何があったのさ」
 もの凄い剣幕でせまる少女に、さすがに一族の年輪を着た老婆もたじろいだ。それはヴェロニカにもたれかかってうたた寝を始めていたロドルフォがびくりとして飛び起きるほどの迫力であった。
 「まあま、落ち着きな。今、話してやるからさ」
 老婆は少女を幌馬車の陰へ誘うと、傍らでついにのびてしまったロドルフォにはかまわず話し始めた。

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 レオパールは一族の語り部の正統な血を持つ者として、生まれながらに民から敬われ、その天性の容貌と声音を使った巧みな語りと度量で民を魅了してきた。いったいいつから生きてこの一族に従っているのか判然としない、彼らの守護獣とも瑞獣ともいうべき黒豹が、彼を主人と認めていることのみを考えてみても彼が神から許された指導者であることは疑う余地がなかった。
 そんな彼に逆らう者などあろうはずもなく時は一族の上を静かに流れていった。非ジプシーの引き起こす絶え間ない戦乱の嵐が彼らを苦しめはしたものの、彼らはしょせん、オスマン・トルコの弾圧からも、ロシア皇帝の食指からも、オーストリア皇帝の支配欲からもまぬがれ、自由であり、戦いのために血を流そうとする者はなく、またその必要もなかった。
 彼らはあいも変わらず数百年に渡り続いてきた漂泊生活に身を任せ、バルカンの深い森を主のように徘徊して生活していたのだった。実際、幾度となく支配者が交代し、覇権があちこちを移動しても、農民たちが土地を捨てて逃げ出しても変わらぬ主はジプシーだった。
 レオパールは焦ることなく自らの民を率い、祖先から受け継がれた伝承を語る生活に満足していた。
 長老の孫娘、セレンシアーガは一団の中で飛びぬけた美女で、長老もこの孫娘を若き指導者に献上する腹づもりで大切に育て、ジプシーとしての厳しい慣習を教え込み、年頃になると迷うことなく彼に差し出した。


セレン

 彼女は漂泊の生活にありながら美しいばかりでなく怜悧で温和で、一団の誰からも好かれた。オニキスの瞳と見事に豊かな黒い巻き毛、象牙の肌に頬はいつもバラ色に輝き、レオパールも彼女をたいそう愛した。ふたりは一対の黒い薔薇とまで讃えられ、ジプシーたちの象徴とさえなりつつあった。古参の黒豹が、常に彼らを見守りかしずいているさまは、正にジプシーの伝説の一節そのものであった。
 そんな一団に、ある日流れ者がやってきた。
 ゼヨンと名乗るその男は精悍な風貌を持ち、豪放、磊落でレオパールには無い魅力を備えており、たちまち一団の若者の心を捉えてしまった。一団を二分するほどの彼の人望だったが、それでも、一団に争いが起きなかったのは、彼がレオパールに敵対することなくその信頼を得て片腕の地位を手に入れたからに他ならない。ゼヨンは確かに頭のきれる男だった。


ゼヨン

 戦乱の危機を彼の機転で危うく切り抜けられたことも一度や二度ではないと誰もが認めた。それでいて彼は一団に恩を売ることなく、それ以上の権力を欲することもなくレオパールの次席にあまんじていた。
 そして数年の月日が流れた。
 レオパールの一団はゼヨンという優れた補佐を得てますます結束固く、他の一団が戦乱でちりぢりになったりするのも珍しくはない世情の中で手堅く馬商や軽業の巡業、占いをしては路銀を稼ぎ各地を旅していった。
 ところがセルビア人の、トルコに対する蜂起が行われてからにわかに農民が土地を捨てて逃げ出し、町は焼き払われ、ジプシーの商売もたちゆかなくなった。巡業はおろか、農作物の収穫作業の働き口さえ無い有様である。
 少女ヴェロニカが戦火によって祖父と共に一団とはぐれたのもちょうどこの頃である。
 ゼヨンはついに主、レオパールに進言した。
 「この地を出て、もっと豊かな、平穏な地へ行ってはどうでしょう」
 ゼヨンの活力あふれる褐色の両眼には勝算があった。しかし、レオパールは首を横に振った。一団の命を担う彼は、ゼヨンが思うよりはるかに保守的であったのだ。
 ゼヨンの態度は豹変した。レオパールを腰抜けと呼び、自分はひとりでも思った通りにする、ついてきたい奴はついてこい、臆病者はレオパールという古臭い語り部と運命を共にし、飢えてのたれ死ね、と。
 一団はかつてない動揺を見せた。血気盛んな若者たちは彼についてゆかねば恥とさえ思い、おおよそ半数が彼に同行すると言い出した。それでもレオパールはその者たちを引き止めはせず、静観した。去るものは追わず。それが彼の信条であるかのようだった。
 かくて、レオパールの一団は分裂した。
 その当日、ゼヨンたちの後姿を見送っても彼の態度は森の泉のように穏やかだった。しかし―――――――その直後。
 彼を、かつてない衝撃が襲った。ゼヨンに付き従って去っていく者たちの中に、最愛のセレンシアーガの姿を見てしまったのである。
 レオパールの総身を稲妻が貫いた。
 稲妻は蒼白い光の帯となって彼の双眸に宿り、たちまち彼のおもてが穏やかな語り部のそれから鬼神のそれに変貌させた。
 その様子を見ていた古老たちは、恐ろしさに震え上がったほどである。
 間髪をいれず、彼の口から足元の黒豹に厳命が発せられた。
 セレンシアーガを連れ戻せ―――――――――と。
 老獣はその体躯にまだそんな力が残っていたのかとジプシーたちに目を見張らせるほどの俊敏さで疾駆してゆくと、ほどなくか弱い女の身体を引きずって主の元へと戻ってきた。語り部は二度と彼女がゼヨンの元へ走らぬよう、またゼヨンに奪回されぬよう、その魂を黒豹の内部に封じ込めてしまった。愛人を連れ戻しにやってきたゼヨンには抜け殻となったセレンシアーガの身体だけを返し、恋敵が土下座をして懇願しようと決して応じなかった。ゼヨンは呪いのせりふを吐いて去った。


イラスト・キャラデザイン まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第4回


 「その日からレオパールの苦しい日々が幕を開けたのじゃ」
 ムウシャお婆はうめくように言い添えた。


ジプシー女 1

 中央の大きな焚き火がひときわ燃え上がり、バラ色の火の粉を振りまいた。その色を透かして静かに黒豹の背を撫でるレオパールからヴェロニカは視線を外すことができない。
 「セレンシアーガがレオパールを捨てた――――――?」
 彼女の膝近くで眠りこけていたロドルフォは薄く眼を開け、その横顔を盗み見た。少女の驚きに震えるまだ幼い唇が、レオパールへの思慕を物語っていた。
 幼い頃からヴェロニカは黒髪の語り部の存在しない生活など考えられなかった。同じ歳頃の少女たちや厚化粧の女たち、古老たちに混じって毎夜、レオパールの語る伝説の数々に魂を蕩けさせたものである。レオパールは実際、彼らの英雄であり父親であり強烈なあこがれの対象であった。
 ヴェロニカの熱い思いが他のジプシーたちと同じく単なる指導者を慕う感情ではなく、彼をひとりの男性として捉えた思慕であることに、彼女は自分でも気づいているのかどうか。おそらく、今夜こうして彼の寵姫が彼を裏切ったことを聞かされた瞬間、気づいたのかもしれない。また、もしかすると彼女自身は依然として気づかず、寄寓にも彼女に命を救われた、このひとりの若いセルビア青年が初めて気づいたのかもしれない。
 「レオパールの苦しみはそれはそれは渓谷より深くモラヴァの流れより激しい」老ムウシャはもごもごとパイプをくわえなおして続けた。「何せ前世からの契りとまで信じ、来世も共にと誓い合った女に裏切りを目の当たりにさせられたのじゃ。それも、よりによって片腕として厚い信頼を寄せた男に奪われた、そのことが自分のまったく気づかぬうちに眼と鼻の先で進行していたことに気づかなかったとあってはのう」
 「セレンシアーガが彼を裏切った・・・・」

ヴェ ヨコ

 おそらくヴェロニカ自身、無意識の間に熱い羨望の眼差しを送っていたであろう、レオパールの想い人、たぐいなき美しいセレンシアーガの裏切りは寵姫の空席を意味していた。
 「小鹿ちゃん」ロドルフォが起き上がりずけずけと、「お前さてはあの語り部のだんなに惚れてるな。チャンスじゃねえか」
 ヴェロニカは思い切りロドルフォの手を踏みつけて立ち上がった。走り去る彼女のおもてに羞恥と怒りの入り混じった朱がのぼっていた。
 「いて―――――――!何しやがる・・・・」
 手の甲をさすりながら視線を戻すと、レオパールの姿は焔の向こう側からいつしか消え、黒豹だけがうずくまっていた。その黄金の瞳には生気が感じられず、人生を諦めきった絶望に満ちている。
 「それにしても黒豹の中に人の魂を封じ込めることなんてできるのかね」
 「できるのです」
 蔑みの独り言を洩らしたロドルフォは、いきなり背後から届いた返事に飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。
 追悼の宴の狂乱が一瞬、すべての音を失った。ロドルフォの背後に黒い絹のような髪を肩に豊かに波打たせた噂の主がたたずみ、穏やかな笑みを見せていた。

レオ 2





    第 四 章  果てしなき懊悩



 ムウシャお婆がきまりが悪そうにそそくさと席を立ち、代わってレオパールがその大きな体躯をセルビア青年の横に落ち着けた。
 「どうです、楽しんでおられますか」
 語り部はたいそう親しげに言葉をかけてきた。ロドルフォは面白くなかった。命を助けられたとはいえ、決して好ましいとは思えないジプシーの野営地に世話にならざるをえないこと自体が、腹立たしくて仕方ないのだ。
 加えて、一日も早く駐屯地に戻らねばならない焦りと、ずきずき痛む深手が彼の不機嫌さに拍車をかけていた。重なるやけ酒が傷をいっそう悪化させることも承知で、ジプシーの地酒の盃を次から次へと飲み干していくのだが、さて一向に深く酔えないのはもっと面白くない話をムウシャお婆から聞いたおかげである。楽しむなどと、とんでもない。
 「たいそう恐い顔をしていますね、お客人。そう心急かれますな。この野営を三日も続けたらモラヴァ河畔に向かいますゆえ、あなたもご一緒なさればいい。反乱軍の本拠に戻りたいのでしょう」
 「三日もこんなところでもたもたしてられるかってんだ」
 「しかし、他に方法はないでしょう」
 「あんたの指図は受けたくねえ」
 ロドルフォは遠慮のかけらも無しに牙をむいた。しかしレオパールは一向に構わず、
 「よろしければヴェロニカに踊らせましょうか。小柄ながらあれのステップはそれは力強くて見事ですよ。それとも占いがよろしいか」
 「あんたの世話になりたくねえと言ってるだろうが」青年は改めて相手を見据え、「あんたはそんなキリストのような慈悲深いつらをしながら恐ろしい人間だ。それでいて女々しく、男の風上にも置けん。女を引き止めるために魂を黒豹の中に封じ込めただと?」
 到底、通常には信じがたいことがこの幻想的な森の空気に包まれているとあり得るようにロドルフォにも思われてくる。
 彼の激しい叱責を受けて、当然曇ると思われたレオパールのおもては意外にも泉のように澄んでいる。
 ロドルフォの激しい言葉は続く。
 「このご時世に女のひとりやふたりが何だってんだ?あんたなら一団の女、ガキから婆さんまでこれだけ崇め奉られてりゃ選り取り見取りだろうに」
 「お客人」レオパールはたしなめるように、「ジプシーの女はおそらくあなたが思うよりはるかに貞節なのですよ。あなたはなかなかの美青年だしさぞ街の女性にも人気がおありでしょうが、今の言葉からすると、本当に女性を愛したことがないと見受けられる」
 ロドルフォの脳天に血が昇った。牛のような白い鼻息を吐くと目を血走らせて、
 「寄生虫風情が宿り主に説教たあ笑わせる」
 「寄生虫……」
 「おうとも。トルコのくそったれが、追っても追ってもまとわりついてくる禿げタカとすりゃ、あんたらジプシーは俺たちセルビアに寄生して養分を吸い取る虫けらじゃねえか」
 怒気に顔を紅く染めて立ち上がった。そのとたん青年は激しくくずおれ昏倒した。傷口からあふれた血が足元の雪を染め、広がった。

******************************************************************

 宴は果て、真っ暗な中にもそろそろ夜明けの気配が忍び寄っている。
 焚き火の番が背を丸めてかがみこむ他は、売買に使われる多くの馬は頭を寄せて静まり、全ての人間も幌馬車にもぐりこみ、厳しい朝の冷え込みの中で束の間の眠りについている。
 幌馬車の列から少し離れた場所に大きい幕舎が張られているのは、レオパールの寝所である。中では彼の好む独特の香が焚かれ、彼自身やっと幾重もの衣と毛皮を脱ぎ捨て、くつろいでいた。いや、くつろぐというにはあまりにもその表情は苦しげである。もう幾夜も彼の表情は変わることがない。その手は黒豹の毛並みをなぞり、耳を噛んで揺すぶり瞳を睨みつけ、喉を締めつけ牙を確かめ、愛撫のようでいたぶりのようで、果てることがない。黒豹の方も抵抗するでもなく、歓喜するでもなく、時折苦しげに唸りを洩らしては黒髪の主人のなすがままにさせている。

翡翠腕輪

 レオパールの腕にはめられた十連の翡翠らしき腕輪が黒豹の背を数えきれぬほど往復した。
 「美しい。お前は獣になりはててもこのように・・・・。私のセレンシアーガ」
 黒豹は捕らえられていたあごを外して顔を背けた。
 「泣いているのかセレンシアーガ。まだあの男の元へ帰りたいのか。喋れなくとも私には判る。判るとも。あれほど激しく、長い間慈しんでやった私なればこそ、黒豹の中のお前の気持ちさえ手に取るように、な。だのに」
 端正な目元が痙攣した。
 「だのにあの瞬間までお前の背反に気づかなかったとは」
 くちづけを受けた黒豹に突如変化が起こった。
 両の掌におし挟まれた黒豹の巨大な頭蓋が黒髪を乗せた華奢なこうべへ、鋭いひげを立てたよこしまな頬は滑らかな象牙の肌に、凶暴な爪を持った前足はしなやかな腕に。
 数瞬ののち、語り部の腕の中にあるのは黒豹ではなく、たぐい稀な麗しい女だった。彼女は消え入るような声で泣きながら、


セレン 2

 「お願い、レオパール。私を元の身体に返して。黒豹の身体から解き放って」
 「夜毎のその頼みは聞き飽きた。聞き届けられると思うのか、セレンシアーガ。お前を解き放つということは私の敗北を、つまり、お前とゼヨンとの愛の成就を意味する。そんなことを私がみすみすすると思うのか。私は生涯お前とゼヨンを赦さない」
 言いながらレオパールの強靭なかいなはいっそう彼女をがんじがらめに抱きしめて離さない。
 「あなたは私を愛してるのじゃない。自分の誇りを愛してるのよ。だからあなたの誇りを踏みにじった私とゼヨンを憎いのだわ」
 「あるいはそうかもしれない。だがそうであったとしてもお前を赦す気は無い。永久に」
 「私もあなたの仕打ちを赦さない。永久に」
 オニキスと形容された女の瞳と、同じく黒い星のような語り部の瞳が激しく絡まりあい、火花を散らした。
 「それならいっそのこと、ゼヨンに決闘を申し込めばいいわ。虚しい闘いでしょうけど」
 「それができるくらいなら・・・・」レオパールは苦しげに呻いた。「いっそ、決闘で全てを清算できるくらいの確執なら、こんなに苦しみはしない。もし彼を倒してもあのように人望を集めてしまったゼヨンの崇拝者たちは私を赦すまい。そして私が倒されれば私の崇拝者たちが報復する。血讐だ」
 「・・・・・・」
 「諦めるがいい、セレンシアーガ。お前は永劫、私のかたわら、黒豹の内部で生きるがいい。憎いゼヨンはお前の魂の抜け殻を抱いて涙し続けるがいい。それが、この漆黒のレオパールと呼ばれる語り部を裏切った報いだ」
 「あなたは一生、私たちへの憎しみを引きずって、漂泊の旅を続けるというの。苦しいでしょうに。血を吐くほどに辛いでしょうに」
 「本望だ」
 「お願い、レオパール。私をもとの姿に戻して。私の心はもうあなたのものではないのよ。どんなにがんじがらめにしようとも、私の愛は憎しみに染め替えられてしまったのよ。決してもう染め替えられぬ哀しみの紫に・・・・」
 「承知だ」
 細い腰を鷲づかみにしたレオパールの手がわななき、かつての恋人たちの口論はまたしても堂々巡りから抜けられず、不毛の時間は過ぎてゆく。
 その幕舎の出入り口近くで、懸命にせりあがる嗚咽を飲み下そうとする少女が、編んだ髪を握り締めてうずくまっていた。

イラスト・キャラデザイン:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第5回

    

       第 五 章  黒豹の慟哭




 ようやく明け初めた冬のバルカンの大地が酷寒に震えている。しかし、バラ色の稜線は形容できないほどに美しい。
 普通なら足がすくむほどの高み、大地に屹立する針葉樹の先端からの視界に、彼は不思議と恐怖を感じなかった。

夜明けの雪原 1

 (俺って、いつのまに空を飛べるようになっちまったんだろう)
 ロドルフォは驚嘆しながら、もうずいぶん昔からの熟練者のごとく自由自在に大空を泳ぎ回っていた。
 彼の故郷、バルカンの中央、セルビアの大地は人間どものちっぽけな戦いになど塵ほども関心を示さず悠久の壮大な美しさに彩られている。
 (お、ここは―――――――)
 眼下に寒村があった。針葉樹林の点在する平野のあちこちにどこにでもある小さなむらである。ロドルフォには見覚えがあった。十歳にも満たぬ子どもの頃、出て以来一度も帰らぬ生まれ故郷である。農民たちは常にオスマン・トルコの精鋭部隊イェニチェリの弾圧に苦しんでいた。彼らの圧政は実に目に余るもので、法外な税を徴収し、時には物ばかりに飽き足らず人をも略奪、わずかでも抵抗する者はその場で殺された。暴虐の限りを尽くす彼らはすでにトルコ本国の皇帝でさえ制御することができない有様で、セルビアは彼らの思うがままに侵食されていた。

イェニチェリ 1

 ロドルフォの生まれ育った村も例外ではない。幼い頃の惨劇が不思議にも空から見つめる青年の彼のはるか足元で再現されようとしている。いつしか彼の視線は煉瓦の崩れた貧しい生家の内部に入り込んでいた。
 幼い自分が、ターバンを巻いた熊のような獰猛な男に頭を踏みつけにされて身動きができないでいる。眼前では数人のイェニチェリがどれも飢えた獣の目をして母親と、上の姉と下の姉を毒牙にかけようとしていた。猛然とそれを阻止しようとした父親は半月形の長剣に背中をふりおろされるや、かまどの灰の中へどうと倒れ、二、、三度痙攣を起こしたと思うとそれきり動かなくなった。部屋の奥の柱に抱きついた祖父の目は、もう現実の情景を見てはいないのがひと目で判る。
 もがき、逃れようとする幼いロドルフォの手が暖炉の引っかき棒に触れたのは幸か不幸か。少年は無我夢中でそれをつかみ、イェニチェリの頑丈な向うずねめがけて突き刺した。
 「うわあッ、このガキなにしやがる」
 逆上した大男の半月形の剣がもどかしげに引き抜かれ、頭上に降ってきた時、もう駄目だと目を瞑ったのをロドルフォははっきり覚えている。しかし、刃は落ちてこなかった。次に目を開いた時、大男の足にしがみつく上の姉の姿が真っ先に見えた。
 「お逃げ、ロド!早く!」
 「で、でも、姉ちゃん!」

 「早く!」白人少年 1



 その絶叫に弾かれるようにロドルフォは戸外へ飛び出した。はるか背後で、姉の悲鳴が立て続けに響いた。少年は森へ逃げ、それ以来、一度も帰っていない。
 街道をどう食いつないだのか、彼はいつのまにかベオグラードの街へたどり着いていた。 
 空から見守る成人したロドルフォの魂は、当時を思い出して悔し涙が止まらなかった。
 (イェニチェリめ、人間の皮を被った畜生野郎め)
 彼の目は、町外れの橋の下で粉雪を避けて身を奮わせる幼い自分を見守っていたが、やがて自分の意志とは関係なく再び上空へと舞い上がった。
 大森林が視界を圧していた。鳶のように目ざとく彼はその森林の中にジプシーの野営地を見つけた。しかし、今、自分が身を寄せているレオパールのそれではない。幌馬車の数は少なく、何か張り詰めた空気が満ちている。ロドルフォは突然、強い気配を感じた。
 (イェニチェリだ!)
 そう思ったとたん、彼の目は一台の幌馬車の中に入り込んでいた。
 まさしく、褐色のターバンを巻いて、髭をはやしたトルコ人が三人、その幌馬車の中でひとりのジプシー青年と対峙していた。
 褐色の短い巻き毛、細面だが野生の強靭さを秘めた、自分と同年輩のその男が、噂のゼヨンであることをロドルフォは敏感に悟っていた。
 しかし、今の青年は、本来の奔放さをすっかりなくし、憔悴しきって臆病の精霊に取り付かれているようだ。イェニチェリたちを前にして、ろくに返事もできないようなのだ。眼はおどおどとあらぬ方向へと向けられ、褐色の前髪は冷や汗で濡れそぼっている。
 「漆黒のレオパールの片腕と言われた男よ」
 中央に座した片目の眼帯の男が口を開いた。
 「ゼヨンよ。我らと取り交わした約定はどうなっている。お前が元々、レオパールの一団に近づいた目的を忘れてはいまいな」
 「忘れるものか……」
 ゼヨンは苦しげな呻き声で応えた。

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 「焦らすのはもう諦めろ。今日こそはレオパールの泣き所、たったひとりの女をもらっていく」
 「だ、駄目だ」
 「金はたんまり渡したはずだ。いまさら何を躊躇う」
 「金なら返す。セレンシアーガは渡せない」
 傍らの片目の男が野猿の俊敏さで短剣の刃をゼヨンの喉にあてがった。
 「我らイェニチェリが何のためにお前のような痩せ犬ジプシーに大金をくれてやったと思うのだ」
 隻眼将軍があごひげの短気な部下を急いで制した。その眼には絶対的なものが窺われた。彼は改めて青年に向き直り、

隻眼

 「女には指一本触れん。レオパールに我らの意のままに動いてもらう人質なのだからな。それでも否、と言いはるのか」
 初めはかすかに、次第に異常なほど激しくゼヨンはかぶりを振った。
 トルコ人の堪忍袋の緒が切れた。イェニチェリどもはゼヨンの顔の相が別人になるまで殴り続け、忌々しげにツバを吐き捨てると、
 「ちっとはこたえたか、若造。さあ、レオパールの女を引き渡せ」
 「嫌だ」
 「まだ言うか」
 「セレンシアーガは渡さない。俺が……俺がレオパールの代わりを努めれば文句は無いんだろう」
 「―――――――なに?」
 隻眼将軍と部下たちは顔を見合わせた。
 「お前が―――――――?」
 「あんたたちがセレンシアーガを人質にして、レオパールにやらせたいことくらい、とっくの昔にお見通しさ」
 唇の血をぬぐいながら将軍の目の高さに立ち上がったゼヨンは不敵な笑いを浮かべた。
 イェニチェリたちが馬首を並べて去った後、遠巻きに恐る恐る見守っていたジプシーたちは幌馬車から這い出してきたリーダーに急いで走り寄った。
 「ゼヨン!さすがだな、イェニチェリの言いなりにならなかったとは」
 「セレンシアーガも女冥利に尽きるぜ」
 口々に誉めそやす仲間を、ゼヨンのささくれ立った視線が拒絶し、傷ついた身体を引きずるようにして森の奥へと向かった。
 茫然と見送るジプシーたちを残して、ロドルフォの眼は彼を追った。森林のはざまに、大地の裂け目のような巨大な亀裂が南北に走っていた。入り口にカムフラージュのため夥しく突っ込んである枯れ枝を引き抜いて谷底へと落としてから、背を丸めて中へと入る。
 同行したロドルフォの眼が驚きに震えた。揺らめく蝋燭の炎に照らし出されたのは、森の女神の化身のような娘だったのだ。
 娘は横たわり色鮮やかなジプシー衣装を身につけたまま安らかな眠りについていた。繊細な黒髪は緩やかに波うち彫の深い目鼻立ちのおもてを縁どり、肌はつやつやと息づき唇はルビーの赤だ。
 「セレンシアーガ・・・・」
 ゼヨンは意識の無い娘の身体をかき抱いた。
 「金だと?金なんか欲しくもない。市民権だって何だってお前と引き換えになんかできやしない。最初はレオパールからお前を奪い、やつらに渡す約束だったさ。でも、もうできやしない。俺はお前を愛してしまった、漆黒のレオパールの想い人、お前を―――――」
 (セレンシアーガ……この娘が……)

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 黒豹の中に魂を封じ込められながらこれほど美しく、ゼヨンを虜にする魂の抜け殻にロドルフォの視線が洞穴の天井から舞い下り、やがてはその瞼、唇、柔らかな衣装の胸元にそして腰から足元にまで、こわれものを扱うように辿った。
 (こりゃあ絶品だぜ)
 イェニチェリとの話からすると、最初は彼女をレオパールから奪うだけのつもりだったゼヨンが魅了されてしまったのも無理はない。それにしても、ゼヨンがイェニチェリに金で雇われ一団に入り込んだと知れば、レオパールはじめヴェロニカたちはどんなに驚くだろう。
 金に目が眩み、イェニチェリと共謀したはいいが人質のセレンシアーガに心を奪われて袋小路に追い詰められてしまったゼヨンに、ロドルフォは唾きしたい思いにかられた。
 それにしても、イェニチェリどもは何を企むのか。その思惑が心にずしりとのしかかってくる。
 目を開かない恋人を抱いたまま、泣きむせぶゼヨンの背中が小さくなっていったと思うと、ロドルフォは闇の中に投げ出されていた。もう、どんな情景も映りはしない。真の闇が冷え冷えと身体全体を取り巻いているのみである。身体といっても全身が麻痺してしまったように、それを所有している実感がまるでなかった。意識だけの浮遊を彼は感じて、ただ、漂っていた。
 どれだけの時が流れたのか。かすかに遠くから女のすすり泣きが蜘蛛の糸のような脆弱さで聞こえてきた。ふとあるかどうか判らぬ耳をすまそうとした瞬間―――――――闇からいきなり、現れたものがある。
 それは強い光を放つ金色の双のまなこ、そしてベルベットの毛並みに覆われた、それ自体が闇の塊のような漆黒の豹の顔だった。

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 表情の無い獣の顔の奥から、すすり泣きは聞こえてきた。それはロドルフォの心に直接訴えてくるようだった。
 (帰して。私をゼヨンの元へ帰して、非ジプシーのお方。この一団の仲間は全てレオパールの味方、しもべ。だからあなたにしかすがれないの)
 (お前はセレンシアーガか)
 (そうです。私は魂と肉体を分かたれてしまった哀れな女)
 (聞けばお前はあの黒髪の語り部にえらく可愛がられていたそうじゃねえか。何だって新参のよそ者に心変わりしたんだ)
 しばし間が空き、黒豹は鼻面を寄せて白いひげを蠢かせた。
 (私をさぞ軽薄な女とお思いでしょうね。でも、私は自分の気持ちに正直に生きたいの。レオパールは確かに私を愛してくれたけれどそれは美術品を愛でるような愛し方。それは彼の好きな香を味わうような愛し方。決して私の人格を愛してはくれないのよ)
 (何だかよくわからねえな)
 (お願い、後生です。私をゼヨンの元へ)
 黒豹が眼を瞬かせ、後はまたか細い泣き声が続いてゆくばかりだ。やがて黒豹の顔も闇に没し、ロドルフォは途方にくれた。
 吹雪をやり過ごすように息をひそめていると、今度は物悲しい調べが届いてきた。女の声だ。と、同時に身体も無いというのに左腕に火のような痛みを覚えた。


イラスト・キャラデザイン:まもとつる様


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. 「漆黒のレオパール」第6回

   


       第 六 章  疑惑


 ジプシー特有のゆるやかな調べ、メセラキ・ディリが耳の底を流れている。
 雪解け水のせせらぎ、いやもっと冥く、果てしもなく続いてゆくジャグラーのお手玉のような気だるさを伴いながら、それは彼らが悠久の昔から培ってきた逞しさを秘めて、今ひとりの若き負傷兵の耳に届いてくる。


ペンギン ジャグリング

魔女 1


 ロドルフォが眼を開けると同時に、それはぴたりと止んだ。ムウシャお婆が叫び声を上げて娘を呼んだからだ。
 「ヴェロニカ、ヴェロニカ、この兵隊さん、生き返ったよ」
 「やったね、お婆の呪文のおかげだよ」
 少女は怪我人の枕元にすり寄りながら言った。
 「なんの、お前さんの看病と歌声がこのお若いのの命を呼び戻したのさ」
 ロドルフォは自分を見下ろす少女と老婆を認めた。全身に石のおもりがついているようだ。それでも、きれい好きなジプシーの、清潔な寝具にくるまっていることは判った。
 「どうやらまたお前さんに命を救われたらしいな、小鹿ちゃん」

ヴェロ すわり

 先ほどの歌声の主はヴェロニカであるらしい。暴れ鹿のようなお転婆な印象からは想像できない悲哀に満ちた艶のある歌声だった。ロドルフォが素直にそう褒めると、少女は視線を背けて幌馬車を飛び出ていってしまった。あの宴の夜からすでに三日という時間が過ぎていることを、ロドルフォはムウシャお婆から聞かされた。

*********************************************************************

一団は移動の支度を始め、騒然としていた。
ようやく立ち上がれるようになったロドルフォは、あの夜以来会っていないこの集団のリーダーに会いたいと思い、そっと幌馬車を抜け出した。
 粉雪の舞う中、大人も子どもも荷造りに忙しく、よそ者のロドルフォに注意をはらう者はいない。すでにレオパールの幕舎もたたまれ、すっかり幌馬車に積まれていた。彼の姿を捜してジプシーたちに混じってうろついていると、数頭の馬の足元から、音もたてずに黒いしなやかな体躯が姿を見せた。黒豹である。語り部の愛獣とは知りながら、思わずロドルフォの足が凍りつく。黒豹はその背に粉雪をたっぷりと被り、猫のようななれなれしさで青年の下半身に身をすり寄せてきた。ロドルフォは冷や汗を止められずにいた。いくら夢の中で語りかけられても、現実には、獰猛極まりない獣なのである。

黒豹 2



レオ B

 「もうお加減はよいのですか」
 流暢なセルビア語で、レオパールが声をかけてきた。多分に彼らのロマニ語なまりがあるヴェロニカやムウシャお婆より、はるかに耳に心地よい。
 それにしても、なんと落ち着きはらっていることか、この黒髪のロマの王は。ロドルフォは心の中でつぶやいた。
 「世話になっちまったな」
 「危ういところだったのですよ。しかし、ムウシャお婆の調合する薬が効いて何よりでした」
 「この前は言い過ぎちまったよ」
 ロドルフォは決り悪げに肩をすくめた。
 「どうぞお気になさらないで下さい、お客人。私もつい傲慢な口をきいてしまいました」
 黒豹がロドルフォとレオパールの足元を巡り身体をすりつけてくる。
 「おい、冗談だよな、こいつに女の魂を封じ込めたなんざ。余興で口走っただけだろ。おかげでくたばりかけてる時、変な夢見ちまったぜ」
 「変な夢?」
 レオパールは興をそそられたらしく表情を引き締めた。
 「この黒豹が泣いてた。あんたの恋敵の元へ帰してくれってさ」


setugenn 1

 「はははは。お客人はずいぶん純情なお方なのですね。いともたやすく私の言った戯言の暗示にかかってしまわれるとは」
 レオパールは広い肩幅を揺らし、空を仰いで笑い飛ばした。
 「戯言だったのか、やっぱり」
 「そうですとも。いかに神秘の我らロマにもできることとできないことがあります」
 そう言って若いロマの王は黒豹の喉首を軽くたたくと、身ごなしも軽やかにきびすを返し仲間が旅支度をする方へ去っていった。
 黒豹が残って、ロドルフォを見上げていた。瞳の奥に、物悲しい思いが沈んでいるようにロドルフォには感じられて仕方がない。おっかなびっくり手を差し伸べると、鋭く牙をむかれて跳びすさる。その様子を子どもたちが見て笑いをはじけさせた。
 「うるせえ、ガキども!」
 子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。ロドルフォは悪態をつきながら、今度は側で馬に馬具を着けていた初老の男に歩み寄った。
 「よう。ちょっと尋ねるが」
 「はあ?」
 「イェニチェリの締めつけはお前たちにも厳しいのか」
 「そりゃあ……」男はシッと口の前で人差し指を立てて辺りに眼を配ってから、「厳しいのなんの。俺たちゃ農民の数倍は税を徴収されてまさあ」
 「しかし、免除されてることもあるんんだろ。そういう交渉はやはりあの語り部のだんなが」
 「へえ、そうですだ。何といってもあの方はこの辺一帯のロマの王ですからな。頭はきれる、弁も立つ」
 男はさも得意げに自分たちの長を自慢した。
 「じゃ、イェニチェリが野営地へ来ることもあるのか」
 「へえ、そうですだ」
 「―――――――やはり、な」
 「はあ?」
 「いや、何でもない。ありがとよ、とっつぁん」
 ロドルフォの瞳に妖しげな光が掠めた。
 ぶつぶついいながらムウシャお婆の幌馬車へ戻りかけた彼は軽く肩をたたかれ、激痛に飛び上がった。ヴェロニカだった。
 「このぉ、……」
 「怒らない、怒らない。その左腕切り落としてたらその痛みだって感じたくてもかんじられないんだよ。ありがたく思いな」
 相変わらずの屈託の無さだ。しかし、少女の眼が一瞬にして曇るのをロドルフォは見た。黒豹がまだ、去らずにふたりを見つめていたのである。
 「まだいたのか。あんまりいい気持ちはしねえもんだな、あいつの胃袋に入れられるかびくつきながら暮らすってのは」
 ロドルフォが鼻をすすりあげて不満をもらす。
 「あれはそんなことしないさ。あたいが生まれる前からレオパールに仕えているのさ。爺ちゃんだっていったいいつからこの一団の語り部に従ってるんだか知らないって言ってた。まして今は……」
 「今は?」
 珍しく萎れて言葉を止めた少女を、ロドルフォは怪訝に覗きこんだ。
 「ううん、何でもない。とにかくあれはあたいたちの祖先の故郷らしいインドから来た、不老不死の黒豹だと言い伝えられてるのさ。代々の語り部を護り仕える瑞獣なんだから、あたいたちに危害を加えたりしない。それどころかレオパールにとってはあれは育ての親のようなものさ」
 「彼には親はないのか」
 ヴェロニカは眼でうなづいた。その眼には慈母のように深い愛が見てとれた。
 「お前、本当にあの黒髪の語り部に参っちまってんだな」
 「優しいもの、レオパールは。森みたいに、空みたいに、河みたいに大きくて広くて……」
 「どうだか。奴こそ黒豹から獰猛さをすっかり吸い取っちまったのかもしれねえぜ」
 「どういう意味さ、それ。――――――あっ」
 いきなり青年の顔が近づいてぺろりと頬を舐め上げられ、ヴェロニカは頓狂な声を出した。
 「さっきレオパールのことを思ってたお前の顔がいやにいろっぽかったんでぐっときちまったのさ」

イラスト、キャラデザイン:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第7回




 ヴェロニカの黒いつぶらな瞳からたちまち涙があふれた。ピンクと緑の、派手な服の袖でぬぐおうと慌てるところはまだ、幼い。だが黒豹が弧を描きながらふたりに近寄ろうとしたのを敏感に知った少女は一秒を争う剣幕で、
 「見ないで!あっちへお行き!お行きったら」

黒豹 4



ヴェロ 横顔

 たまらないように地団太踏んで、激しい言葉を投げる。ロドルフォはどんなビンタが飛んでくるかと身構えていたが、意外にも少女は彼の胸に飛び込んでよけい激しく泣き出した。
 彼女に叱られてすごすごと去った黒豹に代わり、騒ぎを聞きつけた一団の男たちがいつのまにか取り囲んでいた。ブーツに挟んだナイフを取り出してすごんでみせる屈強そうな男やチェーンを鳴らして睨みつける少年を見て、ロドルフォは慌てた。

ロド 2

 「な、泣かせるつもりはなかったんだ。ほんとだってば。ちょっとキスしただけで」
 ヴェロニカがいっそう声を大きくして泣きじゃくったのでロドルフォはよけい窮地に立たされた。どうにか解放されたのは神の助けか、ちょうど出発の号令が聞こえたからである。
 長い列が動き出し、一団の最後尾の馬車にロドルフォとヴェロニカは乗り込み、足をぶらつかせて座った。雪に車輪がのめりこんで揺れるたびに南国産のおうむや小猿の、檻の中をせわしげに行き来する物音がふたりの背後からひっきりなしに伝わってきた。悪路に立ち往生するたび、前方から馬を打つ激しい鞭の音も聞こえてくる。
 ヴェロニカの涙はまだ渇かず、青年の胸にぴたりと接したままだ。持て余したロドルフォは何とかこの空気をほぐしたい。
 「小鹿ちゃん、見かけより抱き心地いいね」
 「言っとくけど」しゃくりあげる合間に少女は鋭くクギを刺す。「妙な気を起こしたら傷口に塩を塗りこんでやるわよ。いい?今だけ、ちょっと泣く場所を借りてるだけなんだからねッ」
 「やれやれ。いくら怪我人とはいえ、俺は絵に描いた聖者じゃねえんだぜ」
 まんざら冗談ではない。馬車の車輪が跳ね上がるたびに押しつけられるやわらかい感触がロドルフォには息苦しい。だが、今はその苦しさを味わうかのように、彼としては珍しく紳士的な態度を貫いていた。ヴェロニカの涙のわけがただ事ではないことにきづいていたからだ。
 案の定、彼女は泣き止むどころかますます哀しみの底に沈んでいくようで、しきりに、
 「あの人の心は今もセレンシアーガのことでいっぱい……。あたいなんか入り込む隙もありゃしない」
 レオパールのことが頭から去らない純情で一途な娘なのだ。
 「小鹿ちゃんよ」ロドルフォは白い息を吐いてできるだけ明るく言った。「考えてみりゃ俺もお前も黒髪の男にぞっこんなんだな」
 「え?」
 「小鹿ちゃんはあのレオパールに。俺はセルビアの英雄、カラ・ジョルジェに、だよ」
 ヴェロニカは濡れた瞳で青年を見上げた。
 「名前は聞いているわ。トルコに蜂起して砦を奪ってイェニチェリを追い出したんでしょう」
 「そうともさ。彼はセルビアの新しい指導者、正に故国の救世主だ」
 ロドルフォの緑色の眼がみるみる若草色に輝き、頬はバラ色に上気した。どうやら、彼のカラ・ジョルジェへの崇拝度もヴェロニカのレオパールへのそれにひけをとらないようである。
 「俺は一度だけ光栄にも彼に声をかけられたんだぜ。彼が戦線を視察に来た時だ。大勢の側近に囲まれた彼は、そりゃあ堂々として立派だった。そん時俺は思ったんだ。彼の手足となって戦いてえ。彼の指揮下で戦って死ぬなら本望だってな。ああ、早く彼のいる砦へ戻りてえ」


雪 1

 そう言って抜けるような青空を仰ぐ青年の横顔はジプシーの幌馬車に便乗してのどかに旅していることなどすっかり忘れている。
 「一回声をかけられただけで舞い上がってるなんて、おめでたい男だね」
 青年の表情があまりに輝かしいので、憎らしくなったヴェロニカは毒づいた。
 「なんだと」
 「あたいの悩みはもっと純粋なのさ。あんたの英雄とやらと一緒にしないでほしいね」
 ロドルフォの脳天が噴火した。勢いよく立ち上がるなり、
 「お前なんか猿の尻尾でも抱いてベソかいてりゃいいんだ。誰が胸なんか貸してやるか」
 飛び下りようとした途端、馬車は急停車した。ロドルフォとヴェロニカは沢山の小動物の檻ともども獣臭い床にたたきつけられた。猿もおうむも突然の災難に大騒ぎである。

青 黄色 おうむ

黒い手長さる
イラスト 馬車

 御者が馬を制すのに苦労しているようだ。
 「どうかしたの、ワルチ!」
 ヴェロニカがロドルフォの大腿の下からわめく。御者は必死で手綱をさばきながら、
 「わからねえ。前の馬車が急に止まったんだよ。おっ?どうやらお客さんのようだぜ」
 「客?どっちの?」
 彼らジプシーの巡業以外の主な生業は馬の取引と馬具、蹄鉄の取替え商である。戦時の折、それらはトルコのイェニチェリ軍側からもセルビア反乱軍側からもひっぱりだこの有様だった。彼らはどちらにも公平に商売する主義だからである。
 「トルコさんさ」
 御者の答えを聞くなり、ヴェロニカは首を伸ばして先頭の様子を窺おうとしているロドルフォの腕を大慌てでひっぱった。
 「こっちは傷が……いてててて」
 「シッ!あんたのトウモロコシ頭は目立つからね、これを被ってなよ」
 自分の赤と緑の斑模様のスカーフで強引に青年の頭を包むと、彼女は猫のように巧みに檻の散乱する馬車を抜け出していった。彼女の小さな足音が遠ざかるのを聞きながら、ロドルフォは色鮮やかなスカーフからそろりと眼だけを出してみる。

トルコ兵 1

 (イェニチェリだと―――――――。やはりな)
 その眼が黒豹に劣らぬ獰猛な光を帯びた。

イラスト・キャラデザイン:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第8回

         第 七 章  針葉樹の谷の密談


 そのイェニチェリたちはいつもの馬や蹄鉄交換の依頼にやってくる者とは様子を異にしていた。現れるなりいきなりロマの王、すなわちレオパールを呼び出した。そして自分たちの駐屯地へ同道せよというのである。
 あとでロドルフォに顔色を変えて報告したヴェロニカによると、その十人あまりのイェニチェリたちは前にも来たことがあり、レオパールとも顔見知りのはずだということだった。


イエニチェリ 3

 ひと際大型の幌馬車から下り立ったレオパールは、周囲のジプシーたちが不信に思って口々に引き止めたにもかかわらず、イェニチェリたちと共に行こうとした。褐色のターバンを巻いた男たちがその時、彼の足元を見て顔を曇らせた。レオパールの傍らには黒豹がぴたりと付き添っていたのである。
 「いつものことながら、その獣はどうにかならんのか、目障り千万だ」
 上官らしい片目の男が眉を寄せた。
 「これは私の守護を使命とするもの。いつでもどこへでも共になければならぬ」
 レオパールの頑なな態度に、彼らも諦めざるを得ない。心配げに見守るジプシーたちに優しい視線を送って安心させるのをレオパールは忘れなかった。肩に熊の毛皮を羽織って騎乗の人となり、イェニチェリたちに前後を固められて幌馬車隊を後にした。


ジプシー馬車 3

 峠をひとつ隔てて針葉樹の谷の斜面に小規模なイェニチェリの野営地があった。軍隊と呼べるほどの兵数ではない。しかし、どの男の面構えもトルコの精鋭を集めたイェニチェリの中でも、さらにえりすぐった者たちであることは察しがつく。
 レオパールが騎乗したまま野営地に入っていくと砂漠狼のような視線が集中した。奥の幕舎に案内され、ついてきた黒豹と共に絨毯の上に座る。正面には片目の男、そして数人のイェニチェリが取り囲んだ。
 「あなたがたも諦めが悪い。この前も申し上げたはずですよ。このレオパールは巡業で人形劇をお見せしても自らがマリオネットになりはしませぬと」
 イェニチェリのただなかにたったひとりであっても、レオパールの態度は自らの幕舎でくつろぐ時と寸分も変わらぬほど、落ち着き払って黒豹の耳をいじくっては紫煙をくゆらせている。
 「いや、今日、貴公にご足労いただいたのは例の件の要請ではない。貴公に代わってある人物が引き受けたのでな」
 隻眼の男が開いた方の眼で鋭く彼を射抜きながら言った。

眼帯男 2


レオ 3

 「ほう。それではカラ・ジョルジェもますます枕を高くしては眠れぬということですね」
 「奴には辛酸を舐めさせてやらなければ我々の面目が立たぬ。豚商人の分際で我々に楯突くゆえ、命を狙われることになるのだ」
 「で、私を召されたわけは?ギュネイ将軍」
 指から金の輪を抜いて黒豹の背に滑らせながら、ひどく興味がなさそうにレオパールは尋ねた。
 「依頼を引き受けた人間が貴公とゆかりの者だからな、これは耳に入れておかねば、と」
 「それは、それは。口封じに始末されるのかと道中、生きた心地がしませんでした」
 「冗談を、漆黒のレオパール」
 「―――――――で、その命知らずの名は?」
 「ゼヨンだ。以前貴公の片腕と言われた」
 黒豹の毛並みの上で弄ばれていた指輪が煌きながら黒豹の前足に落ちた。と、同時に伏目がちだったレオパールの眼が今初めて意識を宿らせたように炎を映し出す。めらめらと燃える黒い炎に、イェニチェリたちは背筋を凍らせた。
 「ゼヨン――――――」
 その名を、黒髪の語り部は一種の呪文のようにゆっくりと繰り返した。
 「ゼヨンがカラ・ジョルジェの暗殺を引き受けた……」
 「こうしてひと言ことわりを入れたからには後で口出しすることは遠慮願おう、レオパール。貴公にも言い分はあろうが、貴公に一向に引き受けてもらえないかぎり、我々としては彼に頼らざるを得ないのだから」
 ギュネイという将軍が有無を言わせぬ口調で言い添えた――――――その刹那だった。
 猛々しい吼え声が幕舎の中に響き渡り、人々は一瞬、何が起こったのか判らず茫然とした。
 それはさながら漆黒のつむじ風だった。漆黒の顔面がぱっくりと割れたと思うと、赤々とした血のしたたるような口腔が開かれ、耳をつんざく獣の声が繰り返し人々の上を襲う。らんらんと輝く黄金の両の眼。理性も知性も持たない、それにはただ本能にまかせた怒りだけが渦巻いている。むき出された輝く巨大な牙、そそり立つひげ、ぴたりと伏せられた耳はその怒りが激しいことを物語っている。しかし果たしてそんなことまで気がついた者がレオパール以外、この場にいたかどうか。この突然の黒豹の激昂にイェニチェリたちはすくみあがり、逃げ惑い、絨毯や垂れ布、茶器につまづいてはひっくり返り、叫びながら幕舎を飛び出した。
 それを追って黒豹も外へ走り、騒ぎはさらに大きく広がった。点在する幕舎を次から次へとひっかきまわし、軍馬たちは脅えて暴れ出す。それでも黒豹の激昂はおさまらない。


黒豹 5

 「レオパール、やめ、やめさせるのだ」
 歪んだターバンを押さえながらギュネイ将軍がレオパールに泣きついた。彼はまだ絨毯の上に座したまま、眼は開かれていてもこの騒ぎをまったくよそに、魂を抜かれたように沈黙している。
 が、イェニチェリたちが火器を持ち出してきた時、レオパールはようやく立ち上がった。そして、崩れかけた幕舎をやおら出ると、ぱんぱんと両手を打ち鳴らした。
 イェニチェリのひとりの靴に噛みついていた黒豹は落雷に直撃されたかのように静止した。
 「鎮まれ、セレンシアーガ」
 レオパールの声が猛獣の金縛りを解いた。
 黒豹は瞬時にして病み上がりの黒猫になった。
 「お騒がせいたしました、将軍」
 うなだれる黒豹の首を軽くたたきながら、レオパールは涼しい顔で言った。辺りは正に嵐の過ぎ去った後であった。イェニチェリたちは今にも腰に下げた半月形の剣を抜かんばかりだが、やっとおとなしくなった黒豹がまたぞろ荒れてはかなわないので口出しできない。
 ギュネイ将軍は向き直ったレオパールのおもてを見て、今引っ込んだ冷や汗が再び額に噴きだしたのを感じた。
 暗く黒い炎が彼の瞳の中心に置かれていた。
 「将軍、かねてからのご依頼、私こそがお受けいたしましょう」
 「何と?」
 「ゼヨンには到底不可能です。カラ・ジョルジェの命、私が将軍に捧げましょうと申し上げたのです」
 いとも簡単にレオパールは言ってのけた。
 「な、何故、今になって?あれほど長年にわたり再三依頼したのに断り続けていた貴公が……」
 「なに、つまらぬ意地です。ゼヨンがもし見事カラ・ジョルジェを討つようなことがあれば私は生涯、自分を許せぬでしょうから」
 湖の水面のような静かなおもてから、熱情が吐かれた。
 「それに――――――」彼は改めて将軍を見据え、「元々ゼヨンは私を承諾させるためあなた方が送り込んだ者。役目が違うのでは?」
 見透かされている―――――――――。ギュネイ将軍は黒髪の語り部の底知れぬ恐ろしさの一端を垣間見て、絶句した。
 ほどなくレオパールは馬を断り、黒豹を伴ってイェニチェリたちの野営地を後にした。傾きかけた夕陽が去り行く彼の黒髪と背中に虹色の光沢を投げた。

雪景色の画像 2



イラスト・キャラデザイン:まもとつる様

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. 「漆黒のレオパール」第9回


 ギュネイ将軍の耳に、部下のひとりが口を寄せた。
 「よろしいのですか、将軍。カラ・ジョルジェを始末するのに彼までもが動き出しても」
 「もとより計算づくだわ」将軍は濃いひげの下から乱暴にツバを吐き、腕組みした。「あのゼヨンの若造にカラ・ジョルジェ暗殺ができるはずがないではないか。あれはレオパールを動かすためのエサでしかない。案の定、あれが承諾したと聞いてレオパールのやつめ、慌ててその気になりおった。青二才が」
 「それではレオパールの女をさらわせて人質に取り、彼を操る必要もなくなったわけですな」
 「そういうことだ」
 「しかし、ゼヨンめはどうして自分からレオパールにさせようとしていた役目を引き受けると言い出したのでしょう」
 部下は首を傾げながら洩らした。
 「わからん。だが、おかげでようやくレオパールの重い腰を上げることができた」
 「カラ・ジョルジェを討てるでしょうか」
 「こういうことは身が軽く俊敏なあやつらジプシーが最も得意とすること、任せておけばよい。これでセルビア反乱軍はジプシーの仕業と思い込む。またもし、レオパールとゼヨンが役目を奪い合ったとしても、それはジプシー社会でのもめごととみなされる。我々には関わりもないこと」
 「なるほど……」

オスマン・マフムト2世

 部下は感服したと言いたげに大袈裟にうなずいてみせる。しかし、ギュネイ将軍の胸には一抹の不安がよぎっていた。ゼヨンがイェニチェリの差し向けた人間であることを、レオパールが見破っていたとは――――――――。
 報復、という言葉が頭に浮かび、百戦錬磨のトルコの将軍の背筋を脅かした。

***********************************************************

 帰路、黒豹は拗ねたように立ち止まって動かない。すみれ色のとばりが真冬の森に刻一刻と深くたれこめ、彼方の山のてっぺん辺りが茜色を残すばかり、寒さも身体の芯に迫ってこようとしている。
 何度目かに振り返ったレオパールは黒髪を軽く肩の向こうへ投げ、膝まで食い込む雪の中を戻ってきた。
 「急がねば日が暮れてしまう。皆も心配していよう」

黒豹 6

 黒豹はあごをつかまれる前にツイと顔を背けた。紛れもない乙女の声がレオパールの耳の奥に届く。
 「ああ、ゼヨンはどうして危険な役目を引き受けたりしたのかしら」
 身悶える黒豹のかたわらに、レオパールはうずくまり、そのベルベットの毛並みに頬ずりした。
 「お前をイェニチェリに渡したくない一心ではないか。それがお前に判らぬはずはなかろう、セレンシアーガ」
 「ああ、では彼は私のために、人をあやめ、自分の身も危険にさらそうと……」
黒豹は哀しげな唸りを洩らした。
 「愚かな男。そうまでして抜け殻のお前を守ろうなどと。お前の魂はここにあるというのに。二度と戻りはしないというのに」
 レオパールのくぐもった笑いが徐々に大きく広がっていく。
 「レオパール!」
 黒豹の体躯が素早く彼の腕の中を抜け出て対峙する。怒りのために彼女の背の毛は逆立っていた。
 「蔑まれるべきはあなたよ」
 「美しい眼をして。私のセレンシアーガ」
 ひきつった笑いはますます激しく上りたち、針葉樹の谷に傲慢にこだましてゆく。

夕焼けの森



    第 八 章  美しき人身御供


 日が暮れてもジプシーたちの統率者は帰らない。
 仕方なく付近の適当な場所で野営することにし、焚き火の番以外の者は幌馬車の中で寒さに耐えて身を寄せ合い、眠りについている。
 月がさえざえと冬の空に輝いている。

月の森 1



 ロドルフォはふと目を覚まし、まだ深い夜を確認してかたわらに眠る女を引き寄せた。久々に安らいで眠りにつくことができたのは、この豊満なジプシー女の温もりに包まれていたお陰だ。
 ネッラというその女は、今宵、レオパールが留守なのを見計らってロドルフォに甘い視線を投げてきた。
 売娼を固く禁じているレオパールのいぬ間を狙ってのアバンチュールなのか、ロドルフォが文無しだと断っても一向構わず、強引に自分の馬車に連れ込んでしまったのだ。一族間の争いを招く情事ならこうはいかないが、セルビア男のつまみ食いくらいなら大目に見てやろうということなのだろう、周りのジプシーたちも見て見ぬふりをしているようだ。
 ここしばらく小娘の御守をしていたロドルフォにとって、これはなんと薔薇色の災難だろうか。ネッラはその熟れた肢体と蕩けるようなワザでまだ怪我の痛々しいロドルフォをやさしくいたわり、たっぷりとジプシー女の濃密な味を堪能させてくれたのである。

ネ

 民族の掟で短く切ることを禁じられているネッラの長い黒髪にロドルフォは巻かれ、そして何度もくちづけた。いつしか、彼の脳裏には傷の熱でうなされた折、夢の中で見たセレンシアーガの面影が浮かんできた。ネッラの身体の重みがまるでセレンシアーガのように感じられる。
 (あの美女にゃおよびゃしねえがこの女もまあまあじゃねえの、あのはねっかえりに比べりゃ……)
 夢と現実のはざまでそんなことを思った時である。突然、
 (助けて!)
 あの時の声が響いてきた。
 (助けて、セルビアのお方。大変なことになったの、早くゼヨンのところへ連れていって……)
 夢か?いや、今度はちゃんと起きてるぞ。ロドルフォは両瞼をもぎ開けて闇の中に飛び起きた。まず見えたものは光るふたつの黄金の眼。
 「どうしたのぉ……」
 かたわらで、寝ぼけたネッラの声がする。今まで彼女の黒髪だとばかり思っていた、しっとりとした感触は―――――――黒い獣の毛だったのである。

 イラスト・キャラデザイン:まもとつる様


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. 「漆黒のレオパール」第10回

 すすけたランプの光を、額を焼かんばかりに近づけて皺深い手が古ぼけたビロウドの上に一枚いちまい丁寧にカードを並べてゆく。

ババ


タロット

 使い込んだ占いカードの、老婆が今つかんだ一枚は良くない運命を提示していたらしく、長々とした彼女のため息を引き出した。
 ムウシャお婆はようやく長い間カードを見つめていた面を上げて、狭い馬車の中、背後を見やった。少女が、まだあどけない横顔をして一心不乱にレース編みの手を動かしていた。ジプシーの伝統的な、そして貴重な収入源となるレース編みをする手つきもまだたどたどしい。
 ムウシャお婆はパイプを口の隅にやり、おもむろに声をかけた。「そう根を詰めずにもうやすんだらどうじゃ」
 「……」
 少女は手を止めない。憑かれたように編み針を機械的に動かし続ける。その手つきには編み物を楽しむ風も、心を込める風も見られない。何か、辛いことを忘れ去りたい一心で目の前の作業に打ち込んでいるようである。
 「そんなに思いつめたところでどうにもならんのが恋というものじゃ」
 ムウシャお婆の言葉がようやく少女の手を止めた。
 「だって、……」
 「レオパールの心はセレンシアーガ一色に染め上げられておる」
 「そんなこと言われなくたって・・・・・」
 純白のレースに目を落としたまま、ヴェロニカは唇を噛みしめた。

すわり

 「よいか、ヴェロニカ」ムウシャお婆が膝を進めてきた。「亡くなった老デルカンも口を酸っぱくして忠告していたはず。レオパールを愛するな、彼を愛した者は必ず不幸になる、と」
 ヴェロニカはレースを睨みつけて応えない。
 「因果なものよのう。これほどに一族に慕われ、ロマの王として皆の信望を集め、崇めたてまつられている語り部が、ひとりの男に立ち返ってみれば、うとまれる存在でしかないとは」
 「うとまれる?そんな馬鹿な」
 「いや、誠のことなのじゃ」ムウシャお婆の顔には小娘には到底逆らえぬ厳しい色が浮かんでいた。「よいか、これは誰にも他言は無用。一団の中でもわしと、亡くなったお前の祖父、老デルカンとセレンシアーガの祖父、亡き長老ダーコしか知らぬことじゃ」
 「な、何なのよ」
 ヴェロニカの喉がごくりと鳴った。
 「代々の語り部たちがそうであったように、レオパールの中に流れる血もまた、愛する相手の身も心も、その激しすぎる業火のごとき愛で焦がし、焼き尽くし、骨までも食らい尽くさねば収まらぬ忌まわしい血なのじゃ。たとえそれが自らと相手を滅ぼす、散華としか呼べぬ愛であろうと――――――――な。そして彼の血は歴代の語り部のそれをはるかに凌ぐことを、わしらはこの占いで知ったのじゃ」
 ムウシャお婆の眼はぎらぎらと輝き出し、かさついているはずの頬は脂をにじませた。
 「彼の愛に応えられる娘は容易には見出せぬ。が、彼自身が白羽の矢を立てたのは――――――セレンシアーガじゃった」
 「でも、長老のダーコは喜んでレオパールに彼女を差し出したというじゃないか。変じゃないか。みすみすそんな男に自分の孫娘をめあわせるなんてさ」
 ヴェロニカは唇をとがらせた。
 「いかにも。自分の孫娘を人波の平穏な幸せからほど遠い男にやったダーコの心情を思えばいたたまれぬものがある。しかし彼は自分の孫娘がほんの少女の頃にレオパールに気に入られたと知るや、一団のためならばと敢えて、そうした。セレンシアーガは言うなればレオパールをおとなしくつなぎ止めておくための封印として、一族の中からさし上げられた人身御供なのじゃ」
 「人身御供――――――」
 その言葉の響きにヴェロニカはぶるっと身を震わせた。
 「セレンシアーガはお前も知っての通り、比類なき美しさとジプシーの根強さを秘めた娘じゃ。レオパールの激しさを受け止められるのはあの娘をおいて他にはいまいて。事情はともあれセレンシアーガは彼のものとなった。彼女も不平一つ洩らすことなく従順に彼の寵愛を受け、古老たちは安堵の胸を撫で下ろしたものじゃ。強烈な愛情をそそぐ相手、つまり人身御供無しではいつ、レオパールが荒ぶる血をたぎらせるか知れぬでの」

黒薔薇の女




 「判らないよ、お婆」ヴェロニカはレース編みを放り出し、老婆に食らいついた。
「あの穏やかなレオパールがどう荒ぶるっていうのさ?何故愛する者を不幸にするのさ?」
 「まだまだお前には判るまい。彼の裡に隠された激しいものを。妄執としか言えぬ愛しかたを。それでも、わしらにはいなくてはならぬ人間。彼は一族にとっての聖者。じゃが同時にセレンシアーガにとっての宿り魔」
 「そんな……」
 「しかしともかくも、荒れ狂う悪魔となることなく、封印のセレンシアーガ、ふたりを守護する黒豹が配置され、レオパールは寛大な語り部として日々を送っていたのじゃ。ところが、その配置が崩された・・・・・」
 「ゼヨンだね」
 「そうじゃ。あの男がわしらの紡いでいた平穏の細い糸を断ち切ったのじゃ」
 「何故、あの男を近づけたのさ。お婆には判らなかったのかい」
 「判っていたとも、ゼヨンが不穏の風をまとってやってきたことは。しかし、わしにどう運命が変えられたことじゃろう。血讐の定めに従って現れたあの男をどうやってとどめることができたじゃろう」
 ムウシャお婆のひび割れた唇がわななき、パイプが落ちた。
 血讐はジプシー社会の恐るべき掟である。何らかのいさかいで人殺しが行われた場合、被害者の血族が加害者の血族の誰かに報復すべく、追い続ける。これには西洋社会の法は何の意味も持たない。何代にも渡り、報復の血によって最初の殺人が償われるまで何十年でも、時には百年も追跡は続けられる。殺人者の子孫は先祖の犯した罪のため逃亡を続け、いつ報復を受けるか判らない脅えた暮らしを余儀なくされるのである。
 お婆の話によれば、レオパールもまた、何代か前の祖先が犯した過ちのため、血讐に脅えて生きなければならぬ者だったのだという。そして相手はゼヨンだと―――――。
 「じゃ、ゼヨンは最初からレオパールの命を狙って?」
 ヴェロニカの愛くるしい眼が恐怖にひきつった。
 「あの男がただの報復者でないところはレオパールの命より大切な女、セレンシアーガを奪って心の血で償わせようという考えを抱いたところじゃろう」
 「……」
 「じゃが天罰かな彼もまたセレンシアーガを愛してしまったらしい。彼も運命のジャグラーのお手玉にされてしまったのじゃ」
 「………」
 蒼白な少女のおもてはランプに照らされたまま強張っている。
 「悪いことは言わん、ヴェロニカ。レオパールはお前のような天真爛漫な娘には似合わぬ。お前にはもっと健康的な男が……ほれ、例えばあのセルビアの若いののようなお似合いじゃ。このさい、非ジプシーであろうがレオパールよりはましというもの。ところであの男はどうした?まだ傷も疼くじゃろうに、宵から姿が見えぬが」
 ムウシャお婆の問いに、ヴェロニカの耳に、やっと馬車の外の焚き火の爆ぜる音が甦った。
 「兵隊さんなら今頃、ネッラの餌食になってるだろうさ。まったく、あの男ときたら」
 肩をすくめてそう洩らしたときである。調子っぱずれの甲高い悲鳴が野営地の静寂を唐突に破った。

******************************************************************

ヴェロニカが小鹿のような敏捷さで立ち上がり馬車の外に顔を出した時、焚き火の強烈なオレンジ色を受けた、半裸の男のシルエットが雪を蹴散らして駆けてきたところだった。


黒豹 7

 続いて巨大な黒い影が飛んできたと見えた。黒豹が男の身体に覆いかぶさるように雪の上にねじ伏せ、ロドルフォは無様な悲鳴を立て続けに奏でた。
 「たたたた助けてくれえッ」
 寝静まっていた野営地はたちまちそうぜんとなった。ランプをかざして幌馬車から降りてくる男たち、火のついたように泣き出す幼児の声、馬のいななきなどが夜気を乱して交錯する。
 ヴェロニカが走り寄ると、黒豹は軽々と身をかわし、ひと跳びに森の奥へと消えてしまった。
 「喰われる、喰われちまう」
 放り出されても青年はまだ恐怖の鎖に縛られている様子だ。
 「ちょっと、しっかりおしよ。もう行っちまったよ」
 腰に手をあて、仁王立ちになってヴェロニカが見下ろした時のロドルフォのみっともなさといえば、人妻の寝室に忍び入り夫に発見されて裸で逃げ出した間男さながらだった。
 なんだ、ふざけた黒豹に客人がたまげただけか――――――――と、ジプシーたちは引き上げ始める。しかし、ロドルフォが震えながら口走る言葉を、ヴェロニカははっきりと聞いた。
 「あいつ、口をきいたぞ。ゼヨンのところへ連れて行けって……」
 「え?」
 「女の声だった、やっぱり、やっぱり」
 「そう。セレンシアーガは黒豹の内部に閉じ込められているのさ」
 後を続けたヴェロニカの声も震えている。
 その視線は黒豹の消えた闇へ注がれて動かない。すがりつくようにその視線を辿ったロドルフォは森の冥い闇を背負って黒豹の主が戻ってきたのを知った。レオパールの瞳の内には昨夕までまとっていた穏やかな光が消えうせ、猛獣の持つ昂ぶりが座を占めていた。

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. プロフィール

海道 遠(かなた)

Author:海道 遠(かなた)
小さい頃からお絵描き大好き
お話創るの、大好き
      ↓ 自然に
漫画家になりたい
      ↓
OLを退職。デザイン学校の漫画科へ入学
      ↓
家庭の事情で後、半年というところで退学、OLに戻る
      ↓
技量不足とひどい肩こり症のため、もの書きに転向
      ↓
結婚、妊娠、育児のブランクを経て再度ペンを持つ。
      ↓
が、コンクールに落ちる事、数知れず。
      ↓
諦めてアマの道へ

★著作★
 ペンネーム:海道 遠(かいどう かなた)
 「“海王の接吻”を抱きしめて」新生出版
 「CROSS」新風舎 
 共に全国出版、ネット販売しております。

★海棠結実(かいどう ゆみ) ペンネームで 

 【 遠雷去らず 】風詠社(鎌倉時代もの)
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