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浪漫@kaido kanata

. 「ゆず姫、もず姫」第2回

紅茶セットの乗ったワゴンを押して扉を開けると午前の明るい陽光がレースのカーテン越しに客間に満ちていた。
 彼――――――樹之宮楡彦はゆったりとソファに掛け、平造と夫人、それと居心地の悪そうな進太郎と、相変わらず熱い視線を送る姉妹に囲まれ、和やかに談笑していた。

秋のティータイム

 「いや、本当に楽しい一日を過ごさせていただきました」
 「ほんとにもうお発ちになってしまわれますの?ぜひもう一泊していただきたいわ。ねえ、あなた」
 朝から厚化粧の夫人が媚びた声音で言う。
 「そうですとも。そして例の取引についてよっくお考えいただいて・・・・」
 「お気持ちはありがたいのですが」楡彦は丁寧に言った。「東京での仕事が待っていますので昼前には失礼します」
 「まあ、残念ですこと」
 「本当に。ねえ、お姉さま」
 姉妹が彼の両脇から撫でさすらんばかりにしなだれかかる。
 私はワゴンの上で紅茶を入れた。
 ポットでじわじわと温められた香りが部屋中に漂った。
 「ところで牛島さん、折り入ってお願いがあるのですが」
 突然の楡彦の改まった声に、一同は居住まいを正した。特にふたりの娘は目配せし合ってから身を乗り出した。
 「お願いですと?樹之宮様がわしなんぞに」
 平造はギラリと眼を光らせ、「どうぞ、どうぞ、何なりとおっしゃってくださいまし。この牛島平造、若様から折り入ってなどというお言葉を受けたまわすれば命に代えましても」
 「ありがとうございます」楡彦は慇懃に頭を下げ、そして―――――言った。「実は、そこにおられる柚子香さんを私の妻にいただきたいのです」
 ティーカップが私の足元に落ち、たちまち絨毯に赤黒いシミを作った。
 胸の鼓動が早鐘のように打ち始め、ゆっくり振り向いた時、楡彦の昨夜と同じ妖しいきらめきの瞳がそこにあった。
 昨夜―――――彼はもう一度私を抱き上げると使用人の棟まで送り届けてくれ、月の光の中へきびすを返していった。
 私の危機感は杞憂に終わったのだった。
 そこへ、この申し出は意外すぎた。昨夜の続きの白昼夢かとさえ思われた。
 「あのう・・・今、何と申されました?」
 平造がおそるおそる尋ねた。
 「柚子香さんを樹之宮家の嫁に迎えたいと言ったのです」
 一同は驚愕した。
 「あの、娘のどちらかのお間違いでは!?」
 夫人が調子っぱずれのキイキイ声で問いただしたが、楡彦はゆっくり首を振った。
 「またどうしてこんな、みなしごの田舎娘を見初められたのです?失礼ですがご側室か召使にと言われるならともかく、奥方様にだなんて・・・・・」
 彼はそれには応えず、
 「東京の仕事がかたづき次第、故郷の本邸に戻ります。その途上、迎えに立ち寄りますので支度をよろしくお願いします」
 「迎えに―――――?」
 「一日も早く私の元へ引き取りたいと思います。行儀見習いもあることですし。そうそう、支度金と、それまでの生活は―――――」
 彼は背広の内ポケットから帳面のようなものを取り出し、さらさらとペンを走らせた。
 「これでお願いします」
 小切手らしかった。茫然とそれを受け取った平造の両眼が飛び出さんばかりに見開かれた。
 「こ、こんなに・・・・!」
 「今日から柚子香さんは牛島さんのご養女ということで籍を入れてください。樹之宮家への入籍はその上でということで。勿論、こちらとは妻のご実家として今後もごじっこんにおつきあいさせていただこうと思っています。今回の取引のことも含めまして、
ね」
 牛島一家は口をあんぐり開けたまま動けなかった。楡彦が籍を立ってもそれに従うことさえ皆の頭から抜け落ちていた。
 立ちすくんだままの私に向かってにっこり笑いかけると、彼はそのまま部屋を後にした。
 扉が閉まるやいなや紅子と蒼美の半狂乱に近い叫び声が上がった。
 「お母様、こんなのってあんまりよ!なんで、どうして私たちをさしおいてゆずかなんかを!」
 「まさか、お受けされるんじゃないでしょうね!」
 「ゆずか!お前、若様に何かちょっかい出したわね!」
 その声に弾かれるように、私は部屋を飛び出した。廊下の突き当たりに楡彦の後姿が見えた。
 「待ってください!」
私の声に彼は振り向いた。追いついたものの気が転倒しているせいか息が苦しくてたまらなかったが、彼は静かに待っていた。
 「ご冗談がすぎます!私はどこの誰とも判らぬ孤児で、字だってろくに知らない下働きの女中です。伯爵家に興し入れなんてできるわけがありません!だって、茶道も華道も、ダンスもピアノも歌詠みも、何ひとつ・・・・」
 「そんなものなら僕が全部教えてあげます」
 いとも簡単に彼は言った。
 「でも、第一、お家の方々が許されるはずが・・・・」
 「次期当主は僕です。誰にも何も言わせません」
 「私だって人の子です。犬か猫の子のようにお話を決めないで下さい!」
 遂に怒りが噴出した。だが楡彦の眼はあくまで優しく、
 「確かに身勝手な、一方的な申し出です。昨夜逢ったばかりの男に嫁げというのですから。君が怒るのも、信じられないのも無理はない。ですが僕は昨夜逢ったばかりの君に来て欲しいと思った。これはまぎれもない事実です」
 その真摯な眼差しに吸い込まれそうになった時だ。
 「物好きな伯爵様もあったもんだな!キズものの女にあれだけの金を惜しげもなく投げ出すとは」
 突然、肩越しに残酷な言葉が飛んできた。
 進太郎が私たちの背後で酷薄な笑いを口元に浮かべて立っていた。
 「進太郎くんだったね。妙な言いがかりは遠慮してもらおう」
 「言いがかりじゃない。そいつを女にしてやった本人が言うんだから確かだ。そいつの白い胸に一点、ワイン色の痣があることだってこっちは承知なんだからな」
 楡彦の眼元がかすかに険しくなったのを見た瞬間、私は耐え切れず両耳をふさいだ。
 どうして、こんな屈辱を受けなければならないのだろう。どうして、愛してもいない男ふたりによってたかって身震いするほど嫌な記憶を暴かれなければならないのだろう。私が何をしたというのだ。
 やがて、眼を固く瞑った私のかたわらに、ふうわりと煙草の匂いが近づいてきて大きな手ががっしりと肩を抱いた。
 「この人は君の一時の慰みで終わる人ではない。誰もこの人の魂にまでキズをつけることはできない。それとも進太郎くん、君がこの人を幸せにするつもりですか。そうでないのなら口出しは止めてもらおう。この人は僕の妻となるに相応しい、本物の淑女の血を持った人なのだから」
 根拠など無いはずなのに楡彦の口調は確信に満ちている。ゆっくり眼を開けると、背後から陽光を受けた彼の顔は限りなく慈悲深く、それでいて有無をいわせぬ迫力に彩られていた。彼は私のお下げ髪の片方を手に取り、
 「では、十日後に」
 そう念を押して突き当りを階下へ消えた。
 「伯爵家の若奥様は俺のお古か。こいつぁいいや、はっはっは!」
 悔しさに引きつった進太郎の高笑いがひとしきり続いた。

* **********************

その日のうちに、牛島家の人々の、私に対する態度と処遇は一変した。
直ちに屋敷の、子どもたちさえ使うのを許されていなかった一番広くよい部屋があてがわれ、出入りの呉服屋が呼ばれて大量の反物が私の前に広げられた。


着物反物 ピンク系
 夫人が手当たりしだい、きらびやかな綾絹を選び、二、三日後には夥しい数の仕立て上がりが届いた。
 お下げ髪しかしたことのなかった髪が結い上げられ、生まれてこの方袖を通したこともないしなやかな着物を着、三度三度にはお正月にさえ口にしたことのない豪華な膳を出され、夜は慣れぬ肌触りの絹の夜具で――――――しかも寝台で休むことになったのだった。
 私の身の周りの世話をするかつての女中仲間は噂を耳にしているのだろう、嫉妬と羨望の入り混じった眼で私を見、紅子と蒼美といえば恐れ入るほどの執拗さで母親に不平を訴え続けていた。だが、金に目の眩んだ彼女らの両親は若様の迎えが来るまで、ひたすら私に寸分の無礼もないよう努めていた。
 既に私に選択の余地はなかった。
 楡彦の言葉をまるごと信じたわけでも、贅沢に心を奪われたわけでもない。飽きられたとたん、ぼろきれのように捨てられるかもしれないと、覚悟もした。
 だが――――――この機会を逃してはこの牛島家を出ることは一生叶えられないに違いない。それだけは死んでも嫌だった。
 私は流されるまま、漕ぎ出だしてみようと決心し、母の墓に別れを告げた。
 十日間は飛ぶように過ぎた。

* **********************

玄関にクルマを着けた楡彦は迎えに出た私をそのまま後部座席に乗せ、一歩も屋敷に上がることなく出立しようとした。
牛島夫妻は慌てた。
「お待ち下さい。支度させた着物や身の回りのもの、それに注文中の調度はいかが致しましょう?」
 「要りません。柚子香さんの身ひとつでいいのです。それらはどうぞ、お宅でお使いになって下さい」
 楡彦はにこやかに別れを告げると、制帽を被った運転手にクルマを出すよう命じた。
 「どうか、取引の件、お忘れありませんよう!」
 平造の叫びもみるみる車窓の彼方へ飛び去った。
 座席に小さくなっている私の手を、楡彦の若木のような逞しい手が強く握りしめていた。

キャラデザイン:pooh様




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. 「ゆず姫、もず姫」第3回

第  二  章

 「―――――何故?」
 私は震える声で胸にわだかまっていた疑問をやっと口にすることができた。山の麓でクルマから馬車に乗り換えて、ずいぶん経ってからだ。
 「何故、私なんかを?哀れな孤児を養女にしてくださるというならまだしも、奥方様になんて・・・・若様の周りには華族のお姫様がたくさんおいででしょうに」
 「君はなんで自分が生まれてきたか説明できる?」
 楡彦の唐突な問いに私は顔を上げた。彼にとってはほんの例えでも私にとっては胸をえぐる質問だ。だが、そんなこと知るよしもない彼は屈託なく微笑した。
「それと同じだよ。誰も恋に落ちる理由などわからないだろう?」
 恋―――――これも唐突な言葉だ。
「真面目におっしゃって下さい」
「変かな。僕が君に恋をしては」
「若様・・・・」
 とても太刀打ちできる相手ではない。恨めしげに睨む私を、クスリと笑い、
「楡彦でいい――――――それとも僕が嫌い?柚子ちゃん」
「・・・・・・わかりません」
 それは正直な気持ちだ。
 成熟し、完成された本物の気品を持つこの人の横顔を眺めるほどにその距離をかんじてしまう。それは一生を費やしても近づけるものとは到底思えない。そんな彼を自分の中にどう位置づけていいのか、ましてや夫としてなど見当もつかなかった。



旧松本邸 全景色

* ****************************

二頭の、白地に黒の斑点の美しい洋犬が狂喜に吼えながら走ってきて、私たちを迎えた。ぎょ者が扉を開け、楡彦が先に下りて私を助け下ろした。
 つん、と冷気が頬を包み込む。万年雪を頂いた、神々しいほどの連峰に三方を囲まれた山懐だ。そして、それはなんと瀟洒な西洋館だろう。今までいた、牛島邸とは規模も豪華さも雲泥の差だ。色づき始めた木立に囲まれた急な勾配の屋根が見事で、白い壁に窓框の曲線と木骨が美しく映えて、少女なら誰もが夢見る欧州の城のロマンチックな雰囲気にあふれている。
 「アイザック!パウエル!留守中元気だったかい?よし、わかった、わかった。お座り!」


ダルメシアン 疾走姿

ダルメシアン 伏せ姿


 じゃれつく犬をあしらう楡彦の面差しに、少年の日のそれを見たように思った。
 屋敷の正面の黒光りする扉が開かれ、ばらばらと人影が吐き出された。
 いよいよだ。
 ごましお頭の初老の男と、同年輩の女が進み出てきて静かに一礼した。
 「お帰りなさいませ」
 「今戻った。変りなかったか」
 楡彦の両親かと思ったが、全くはずれていた。
 楡彦は私を引き寄せ、
 「牛島柚子香さんだ。連絡しておいたとおり今日からここで暮らす。・・・・・これは執事の山脇、そして奥向き一切を任せている芳野だ」
 「ゆずか・・・・・様?」
 何事にも動じなさそうな、厳しい二人の眼が一瞬、驚きに揺れたのを私は見逃さなかった。
 「芳野、部屋は用意できているな」
 「はい。万事怠りなく」
 古参らしい奥女中は即発に結った頭をふかぶかと下げた。やせぎすの身体はいかにも神経質そうだ。
 「芳野は母が輿入れの折、実家から連れてきた者でね」
 「若様のむつきのお世話もさせていただきました」
 にこりともせず、彼女は冗談を言ったらしい。楡彦はやや決まりが悪そうに、
 「よさないか、芳野。母上は?」
 「槙原侯爵様のお茶会にご出席でございます。お戻りは夕刻になられるかと」
 「わかった。さ、柚子ちゃん、おいで。少し休もう」
 大勢の使用人が両側に居並んで頭を垂れる玄関ポーチを、楡彦の広い背の後からおっかなびっくり追いかける山出しの少女は、どんなにみっともなく周りの目に映ったことだろう。私の背は楡彦の肩にも満たないのだと、その時気づいたのだった。
 一歩入ると、私の面を七色の光が踊った。足音の反響する広大なエントランスは天井が吹き抜けになっており、正面の階段ホールの窓からステンドグラスの華麗な彩がとどいていたのだ。陰の部分に眼を凝らすと、歴代当主らしいいかめしい肖像画がズラリと掲げられていて、いずれ劣らぬ冷ややかな視線を投げていた。思わず背筋がぞくりとし、この家と血筋の重さに圧倒されてしまった。


レトロ洋館 諸戸清六邸 玄関ホール

 「亡き祖父が明治の中期に一流の建築家に建てさせた家だ。玄関に肖像画があったでしょう」居間でひと息ついてから、楡彦は言った。
 「東側に日本館が隣接しているが、そこは父が帰った折にしか使わないので普段は空っぽだ」
 「お父様・・・・伯爵様は?」
 「父は東京の別宅を本拠にしている。ここには僕と母だけ。後は使用人ばかりだ」
 「こんな広いお屋敷におふたりだけ?」
 改めて午後の日差しあふれる居間を見回した。転びそうなほどふかふかの絨毯に、巨大な暖炉、天井には華のようなシャンデリア、壁には名のある画家によるらしい図案のタペストリー、そしてグランドピアノ。それらに囲まれて欧州の香りのする落ち着いた趣の長椅子とテーブルが置かれていた。
 そこで紅茶を味わいながらくつろぐ楡彦はこれ以上ないほど自然に周りの美しい内装に溶け込んでいる。
 やがて彼はカチャンとティーカップを皿に戻し、
 「そうそう、着替えをしなければね」
 (え・・・?)
 と思うまもなく、彼は卓上の呼び鈴を振った。
 「今までの生活の名残をとどめるものは全部捨ててもらう。これからは僕が選んだものだけを身につけるんだ」
 あらかじめ用意されていたらしく、奥女中頭の芳野を先頭に衣装箱を持った女中たちが数人、居間になだれこんできた。
 すぐに重い生地のカーテンが閉じられ、私は両脇から女中たちにうながされて席を立った。
 「御召し換えさせていただきます」
 芳野が無表情で言った。
 「あ、あの、ここで・・・・?」
 私は面食らった。すぐ目の前ではブランデーを用意させた楡彦がゆっくり見物しながらのポーズでソファに掛けなおし、グラスを傾けはじめているではないか。
 早くもこの男の趣向の餌食にされるのか――――――。覚悟はしていたものの、私のちっぽけな誇りは無残に踏みにじられた。戸惑い、うろたえるうちによってたかって髪は解かれ、帯も解かれ、みるみるうちに長襦袢姿にさせられた。楡彦の鬼火のような視線がまといついてくる。
 「いやっ・・・・!」
 最後の一枚を剥ぎ取られる瞬間のささやかな抵抗も無駄なことだった。
 「ひどい・・・こんな・・・」
 自分の胸を抱きしめ、男に背を向けるしかなかった。
 潮が引くように女中たちは退室し、同時に楡彦の立ち上がる気配がした。その足音は窓辺へ向かい、やがて鋭くカーテンが全開された。私の尖った肩先が黄金色に縁どられた。
 楡彦がゆっくり戻ってきてわたしの真後ろに立った。そして肩をつかんで自分の方へ向き直らせ―――――かたくなに閉じられた両の腕を一気に押し開いた。
 沼に向かって開け放たれたテラスの、強烈な日差しが私の眼に飛び込んでくる。
 羞恥も、屈辱も、彼の圧倒的な力の前にはあまりにも無力だった。私のまだ未成熟な乳房が傾き始めた陽光と彼の強烈な眼光の前にさらされても、成すすべがなかった。視線の止まる一点が灼けつくように熱い。左胸に生まれつきある、桜の花びらの形の痣である。
 「どうせ汚れた身です・・・!見込み違いと見捨てられるのも仕方がないと思います、でも・・・でも・・・こんなのあんまりです・・・・!」
 悔し涙にまみれて私は抗議した。
 陽はゆっくりと傾いていった。
 跡が残るほど強く握られていた両腕はふっと開放された。ひんやりとした絹の感触が肩にかかったと思ったとたん、逞しい腕でそれごと抱きしめられ――――――耳元で、
 「すまなかった・・・・。二度とこんなことはしない・・・」
 低く囁くと、楡彦は足早に立ち去った。
 入れ替わりにさっきの女中たちが戻ってきて、茫然としたままの私を完璧に飾り立てていった。用意されていた着物や装飾品は、牛島家のものと比べ物にならない高価そうな品々だった。
 涙の跡など全く残さず美しく化粧された顔は華麗に結われた髪と相まって、生まれついての令嬢にさえ見えるから不思議なものだ。
 そのまま魂が抜けたように、沼の向こうの稜線に沈み行く夕陽を眺めていた私は―――――どのくらいそうしていたのか――――――不意に人の気配を感じて振り向いた。
 深まり行く秋の黄昏をつんざいて百舌が羽ばたいた瞬間、私の眼に映ったものは――――――大輪の花だった。

キャラデザイン:pooh様

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. 「ゆず姫、もず姫」第4回

なんとあでやかな、重厚な、本物の高貴な血の作り出す、知性と柔らかさ、ちらりとほの見える峻厳さ――――――ここまで完成された女性を私は見たことがない。藤色の着物の着こなし、派手すぎず、みすぼらしくもない色目の紅を乗せた、口角のやや上がった唇の素晴らしい形。上品な小鼻と濃い陰を落とす睫毛・・・・・。
 さっきごてごてと飾り立ててもらった私など彼女の前ではちゃちな市松人形でしかない。
 ――――――その婦人は私を認めて一瞬、驚いたようだったが、すぐに笑顔で近づいてきた。
 (若様の母上・・・・!)
 閃いたとたん、胸の鼓動が激しくなった。
 「あなたは・・・・?」
 たゆたうような眼差しが問うた時、彼女の背後から、辛子色のカーディガンに着替えた楡彦が入ってくるところだった。
 部屋にはいつしか灯火が灯っていた。
 婦人は振り返り、輝くばかりに微笑んだ。
 「お帰りなさいませ,、御前。出かけておりまして、お出迎えもいたしませず失礼申し上げました」
 (御前?)
 華族の家では自分の息子を御前と呼ぶのだろうか。
 「ただいま」楡彦も最高の笑顔で応じる。「この娘さんが、電話でお話ししておいた牛島柚子香さん。帝都大の南原教授の姪御さんです」
 私のことらしかった。勿論、楡彦の作り話だ。
 「柚子ちゃん、こちらが樹之宮家の女主人――――――」
 「百舌絵です」
 そう言って優しい視線を寄越す彼女の口元の、なんと艶かしく美しいことか。見惚れていた私は慌てて頭を下げた。
 「柚子香と申します。よろしくお願いいたします」
 「可愛いお嬢さんですわね。それにしても柚子香さんとおっしゃるなんて奇遇ですこと」
 何のことなのだろう。楡彦の方を窺ってもその表情は穏やかなままだ。
 それから彼は、母親に私のことを許婚者ではなく単なる行儀見習いだと紹介した。やはり、私のような孤児は伯爵家の嫁には向いていないらしい。当然、予期していたことながら、失望に似た苦さが胸に広がった。
 いや、そのことより何か―――――はっきりとは判らないが何か一点、腑に落ちないことが胸の奥のしこりとなって残った。どこか不自然なのだ。
 「お行儀見習いといわれても、私どもにお役に立つかしら」
 百舌絵さまの小首を傾げる様子はまるで少女のようだ。
 「あなたのお手をわずらわせずとも私が全ててほどきします。恩師からくれぐれもと頼まれましたから」
 楡彦が母親を「あなた」と呼ぶのが耳に残った。
 「まあ、ろくにお茶事にも出てくださらない方がお教えできて?私にもお手伝いさせていただきたいわ。こんなに年若い娘さんがいてくださるだけでもこの家も華やぎますもの。ねえ柚子香さん、御花はどちらの流派をされていらっしゃるの?お茶は?」


旧松本邸 食堂

 百舌絵さまは無邪気にはしゃいだ。ほどなく始まった晩餐の席でも、彼女は明るく笑いさざめき、楡彦が穏やかな笑みで見守る中、時は和やかに過ぎていった。

* ***************************

夜更けて、用意されていた二階の一室に引き取った私は着物を脱ぐのももどかしく、寝台に身を投げ出したまま動けなかった。豪華な調度を見物する気力さえ湧いてこない。
 私はいったい、どうなるのだろう・・・・。
 樹之宮家の人々は思いの外、暖かく迎えてくれたが、百舌絵さまのお話し相手になるために来たのではないのだ。かといって伯爵家の花嫁になれるとも、どうしても思えない。楡彦の言葉をどこまで信じればいいのだろう。彼の真意が十六歳の小娘に判ろうはずがなかった。判っているのはここまで来てしまった以上、容易には逃げられないということだ。所詮、私は籠が変っただけの飼い鳥でしかないのか――――――。
 取り留めのない思いがぐるぐる回転するうちに、いつしか眠ってしまったらしい。

* ***************************

庭で盛んに吼える犬の声で眼が覚めた。
テラスからは厚いカーテン越に秋の日差しが差し込んでいる。ゆっくり身を起こしてみて改めて驚く。途方もなく広い、二間続きの奥の部屋で二畳分もあろうという大きな寝台に眠っていたのだ。室内には、まるで外国のお姫様の使うような華やいだ家具があふれ、恐る恐る箪笥を開けてみると、着物や洋服、夜会服までもがぎっしり詰まっていた。
 さて、どれに手をつけていいものか躊躇っているところへ、扉がコツコツと鳴った。白いエプロンを着けた、私と同じ年恰好の少女が立っていた。私付きの小間使いとなったカヨ、と彼女は名乗った。
 「居間の方で若様がお待ちでございます。あ、お召しかえなら私が」
 カヨは心得ているらしく、薄紅の小菊の小紋を選んでてきぱきと着付けを手伝い、髪を共布の大きなりぼんで結ぶと居間へ導いた。昨夜は暗くて判らなかったが、廊下の天井が途方もなく高く、木目の床はぴかぴかに磨き上げられている。滑らないよう用心深く室内履きの足を進めた。
 朝食の時間はとうに過ぎているらしい。
 居間には妙な香りが立ち込めていた.苦く甘い鼻につん、とくる古めかしい匂いだ。
 ひとりでゆったりと新聞を広げていた楡彦は昨日と変らぬ笑顔で私を迎えた。テーブルの上に素焼きの湯飲みが置かれているのを見て、これが匂いの元か、と私は思った。
「ああ、これ?母が滋養の為だと言って毎日作ってくれるんだ。漢方薬の一種らしいがこの匂いには閉口している。出張中はこれから開放されていたけど、帰るなりまた始まってしまったというわけだ」そこで楡彦はパサリと新聞を置き、「さ、どうぞお座り。よく眠れた?その小紋の色、とても良く映るよ」
 そして呼び鈴を鳴らし、メイドに朝食の支度を言いつけた。ほどなく心地よい湯気を立てたかふぇ・お・れ・とふらんすパン、葡萄と梨などの果実が盛られた鉢が運ばれてきて、メイドが退きあげると部屋にはまた楡彦と私のふたりきりになった。
 「あのう・・・百舌絵さまは?」
 私はやっと小さく問うた。
 「何かの会合に出かけた。母は社交家でね」
 「とてもお美しい方ですね。お若くて」
 「十七歳で僕を生んだからね。樹之宮一族の分家から輿入れしてきた、何の苦労も知らないおひい様だ。父との婚約は生まれたときから決められていたそうだ」
 彼の、茶色がかったくせ毛のかかる額が少し明るさを失ったような気がした。
 「母のことについて、話しておかなければならないことがある・・・」口調を改め、真正面から私を見据えた。「あの人は・・・・実は心の病なんだ。もうずいぶん前から」
 「えっ?」
 思わず声を上げてしまった。
 楡彦の額はますます苦しげに曇った。
 「昨日、君は気づいたのじゃないかな。母の、僕に対する態度を・・・・。彼女は息子の僕を夫の幹吾と思い込んでいるんだ。
 (あ!)
 百舌絵さまが彼を御前と呼んでいたことが脳裏に甦った。
 「そんな・・・何故・・・?」
 「芳野の話によると」楡彦は低い声で話し始めた。「母の発病は僕をお腹に宿した頃であるらしい。僕を出産しても、その自覚もなく、数年間はまったく自我を失ったようだったという。父は耐え切れずにかつて深く愛した妻を見限り、東京へ居を移してしまい――――――僕は一人ぼっちで使用人に囲まれて成長した。幼年期も、少年期も、思春期も、遠くから母を眺めるだけだった。母の病状はだんだん良くなり、今のように明るく元気にはなったが、それでも母の世界に楡彦という息子は存在しない。それどころか、僕が成人して欧州留学から帰る頃には若い日の父と瓜二つに成長した僕を、彼だと思い込んでしまった。何度、周りが説得を試みたことか。だが母は頑なに信じて疑わない。僕を最愛の夫、幹吾だと。そして幹吾を亡き義父だと――――――」
 楡彦はいたたまれないように立ち上がって窓辺へ歩み寄った。
 「今では僕をはじめ、使用人もうまく調子を合わせている。だから、君のことも、行儀見習いとしか紹介できなかったんだ。気を悪くしないで欲しい。いずれ、母には折りををみて話すつもりだ。わかってはもらえないだろうが・・・」
 私は硬くなったまま返事もできず、椅子にかけていた。
 その時、執事が入ってきて、主人に秘書が迎えに上がったことを告げた。
 楡彦は父の樹之宮伯爵を頂点とする、樹之宮財閥の傘下の数社を任されているのだ、と後日執事が説明してくれた。樹之宮財閥は海運業と貿易を柱に世界の檜舞台に進出しようとしているのだそうだ。
 「仕事だ」楡彦は活気を取り戻し、私に向き直ると「なるべく早く帰るからゆっくりしておいでなさい。庭を散歩するもよし、家の中の骨董品を見てまわるもよし、どこへ行こうと君の自由だ―――――母の部屋意外は」
 そう言って私の面に愛しげな視線を落とすと、部屋を後にした。
 しばらくすると、窓の外に主人を乗せて出立するクルマが沼に沿う道を遠ざかって行くのが見えた。
 楡彦が行ってしまうとこの家の巨大な空間に押しつぶされそうになった。
 かふぇ・お・れはすっかり冷め、手指の先がしん、と冷えている。さっきの話のせいだ、と私は思った。
 愛情いっぱいにお育ちになったことと決め付けていたのに、楡彦の少年時代は心寂しい渇ききったものだった。そして今も母親の夫のふりを続ける毎日・・・・。この異常な生活から、彼は逃れたいのだ。そしてその足がかりに何故か私が選ばれた・・・・。
 (救えやしない、私なんかに。お坊ちゃまの気まぐれで白羽の矢を立てられるのは迷惑だわ)
 などと思いながらも、心の奥に、彼への同情とも憐憫ともつかぬ慕わしさが、ほんのひとしずく染み出すのがわかった。

キャラデザイン:pooh様


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. 「ゆず姫、もず姫」第5回

その日の夜から種々のレッスンが始まった。月曜は立ち居振る舞いとマナー、火曜はピアノ、水曜は華道、木曜は茶道、金曜は書道と歌詠み、土曜はダンス、というふうにびっしりと予定が組まれた。
 楡彦は毎日きっかり午後六時に帰宅して夕食を済ませると、約束どおり手づから全てを教えてくれた。覚えの悪い私に決して焦らず根気よく接してくれたが、絶対に生徒に譲らない厳しい先生だった。
 信じられないことだが、これらは全て伯爵夫人になる日のための準備に他ならないのだ。
 百舌絵さまは週の半分は華やいだ場所に出かけて留守だったが、時間の空いた時は屋敷の中の絵画や骨董品、陶器などを説明して見せてくれ、午後のお茶の時間もたびたび一緒に過ごしてくれた。楡彦のことが話題に登った時には彼女の夫として話を合わせる以外、この並外れて賢く美しい方が何ら精神に異常をきたしている様子はまるで、無い。
 いつも匂いたつような優しい眼差しで、私の幼稚な受け答えに耳を傾けてくれるのだった。私はとても安らぎを覚えた。今まで楡彦とふたりでいた時の、一方的に彼に振り回され通しだった不均衡な位置が、百舌絵さまの出現によって、ようやく安定したように思った。楡彦との一対一の気の抜けない関係に余裕が生まれたのだ。
 それは捜していた嵌め絵の一片が見つかったような感覚だった。
 この母子の、私への気遣いは誠意に満ちており、私の戸惑いは日々薄らいで感謝に変りつつあった。

* ******************************

   三週間あまりが飛ぶように過ぎた。
   秋りんも過ぎ、木々がますます色濃く化粧をし、抜けるような青空の日がつづくようになった。
 その金曜の夜、居間での歌詠みの稽古を終えると十一時を回っていた。
 楡彦は筆を置くと、
 「ああ、遅くなってしまった。今夜はこれくらいにしよう」
 そう言って毎夜と同じく、私を部屋の入り口まで送ってくれた。私の部屋をまっすぐ行ったところに彼の部屋があるためなのだが、居間に残って酒を愉しむ時も、必ずそうしてくれるのだった。しかし、中へは一歩も入ろうとしなかった。同じ屋根の下に暮らすからこそのけじめなのだろう。
 「何か足りないものはない?欲しいものは?」
 別れ際、扉の前で彼は毎夜、お決まりの問いをする。
 「いいえ、何も。もったいのうございます」
 私も決まって同じ返事をする。
 「もっと甘えてほしいな。遠慮しないで」
 「充分ですわ。お金で買われた身がこれ以上贅沢を言っては罰が当たります」
 「柚子ちゃん!」急に彼は眉根を寄せてたしなめた。「そんな風に考えてたのか?僕は君を金で買ったつもりなんかない。心外だ。悲しいよ」
 確かに卑屈だった。すっかりしょげた私を前に、彼は大きくため息をついてから、ぱっと顔を輝かせた。柚子ちゃん、君、馬は好きかい」
 「馬・・・ですか。はい」
 「明日は休日だ。馬に乗せてあげよう。沼の周りをぐるりと一周するんだ。とても美しいよ。アイザックとパウエルも連れて行こう」
 この思いつきは彼を少年のようにわくわくさせたらしい。私も思わず微笑んだ。
 「ああ、やっと笑ってくれたね。ここに着いた日の無礼以来、すっかり嫌われていると思っていたんだ」
 あの日の灼けつくような記憶が甦り、私の頬は火の様になった。とても彼の面を見続けられず、うつむいてしまう。――――――そのおとがいを彼の手がふわりとつかんだ。そのまま上向かされたと思うまもなく、煙草の匂いの唇が私の唇を暖かく包み込む。
 生まれて初めてのくちづけ――――――。
 進太郎に奪われた時でさえ、殴られながらも無我夢中で守り通した唇を、やすやすと許してしまったのは何故なのか――――――。
 刻が止まるかのような感覚の中で、そればかりを問い続けているうちに、
 「じゃ、明日の朝。ゆっくりおやすみ」
 いつもどおりの落ち着いた声に睫毛を上げると、彼の背中が廊下の奥へと遠ざかっていくところだった。
 その夜はなかなか寝付けなかった。
 (もしかすると、彼は本気で私を・・・・?)
 これほど種種のレッスンを受けてさえ、これほど贅沢な品々に囲まれていてさえ、どうしても信じられなかった彼の求婚が、急にはっきりと現実感を帯びてきた。
 たった一度のくちづけの効力に屈する自分を情けなく思いながら、明け方までの浅い眠りの中、いくつもの夢には必ず楡彦の面影が訪れた。


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. 「ゆず姫、もず姫」第6回

       第 三 章

 翌朝は辺り一面、霧の海だった。
 小間使いのカヨが私のために乗馬服を一式持ってきた。良い香りのする小さな紙片が添えられており、
 「急なことなので母の若い頃のものを借りました。―――――N.」
 と、あった。
 ミルク色の窓の外では犬の吼え声がしきりにたかまり、楡彦が厩舎から愛馬を引き出している気配が伝わってきた。
 大急ぎでカヨに手伝ってもらって、慣れぬ乗馬服を身に着けて外に出ると、栗毛の駿馬が霧の中から現れた。胸元に純白のスカーフを巻いた楡彦が鞍の上から私の手を引き、一気に馬の背へ引き上げる。 
 「ハイッ!」

灰色馬 乗馬

 号令と共に、馬は草の上の露を散らし疾風となって沼への道を駆け下った。アイザックとパウエルの二頭が滑らかな筋肉を躍動させて、後に続く。
 「どう?爽快だろう」
 そう言われても、私はたてがみを握りしめているだけで精一杯だ。一面乳白色の世界に墨絵のような木立が点在する中を、無我夢中で突き進んでゆく。
 沼の水音が間近に聞こえると、馬はやがて並足となって畔を進み始めた。
 親鳥の庇護を受けるヒナのように、背後から楡彦の胸にすっぽり包み込まれていると思うと胸が苦しいほど高鳴った。彼の息づかいと鼓動を間近に感じているだけで気が遠くなりそうだ。
 いきなり、白い手袋の彼の手が耳の横を触れたと思ったとたん、帽子の下の私の髪は扇のように肩に広げられた。
 「この黒髪を枕に眠れば、さぞ安らぐことだろう」
 耳元で密やかな声が言った。そして次には昨夜の小さなふれあいなど比べものにならない深い―――――激しい接吻が待っていた。
 馬が足を止め、彼の手から手綱がパサリと落ちた。
 (愛されている、私は愛されている・・・・)
 そんな言葉しか頭に浮かんでこない。それほどに楡彦の愛撫は場所を忘れてしまいそうなほど激しかった。

* ****************************

霧の湖畔


私は負けを認めた。牛島家の庭で助けられた時から私はすでに敗者だったのだ。
金で人の運命を変えるような男に、決して心まで奪われはしない―――――――そう頑なに意地を張っていた砦は、彼の熱情の前にもろくも崩れ去ってしまった。そのとたん、彼への愛慕が堰を切ってあふれてきた。
 彼が伯爵家の人だという引け目も押し流す勢いで、枯れることを知らぬ湧き水のように・・・・。
 うなじにくちづけの丹念な愛撫を受けながら、私は楡彦の広い胸に身をゆだねて馬の蹄の音を聞いていた。
 やがて陽が差し始め、霧は山の神の内懐に帰っていくかのごとく速やかに退いていき、沼の表面にはまるで見えない手で爪弾かれるハープのように繊細なさざなみが立っていた。
 霧のヴェールを脱ぎ去った深い森から、何か朱いものが現れ、私の眼に映った。
 「あれは・・・・・?」
 朽ち果ててはいるが、小さな鳥居を持った祠だ。
 「樹之宮家に代々伝わるものでね・・・」


祠 1

 楡彦は先に下馬し、私を助け下ろした。
 祠は苔むした巨石に囲まれ、鳥居には蔦が絡まり長い間灯明さえあげられない様子を窺わせる。湿っぽい病葉の絨毯を踏んでその前に立つと、背筋をぞくりとする感覚が襲った。
 察したように楡彦が力強く肩を抱いた。
 「聞きたいかい?この祠にまつわるご先祖の伝説・・・・」
 私はうなずいた。
 彼は沼の上に視線を彷徨わせ、話し終えた。

* *********************

昔・・・天正年間の頃、この地方一帯を治める樹之宮家の当主には都の公家から輿入れしてきた美しい御台所があった。
 当主の寵愛は充分深かったのだが、当時のこと、ふと召し上げられたひとりのうら若い側室が次第に当主の寵愛を独占するようになった。
 御台所は夜毎、嫉妬に身を灼かれた。
 そして、それは側室が解任するにあたり、頂点に達した。彼女はなんと、側室の膳に密かに毎日微量ずつ、毒を盛ったのだ。
 御台所もまた、時を同じくして和子を宿していた。
 毒が効けば側室の子は、ふためと見られぬ異形に生まれてくるはずだった。
 やがて月が満ち、側室は難産の末赤ん坊を産み落とした。御台所は恐ろしい報が届くのを今か今かと胸躍らせて待っていたが、城中には姫君ご誕生のめでたい知らせが走り抜けるばかりで、一向に彼女の待つ報は届かない。
 噂では並外れて美しい姫で、当主自ら産屋にまで足を運んで異例の対面をしたらしい。
 御台所は悔しさに身を揉んだ。毒は効かなかったのだ。
 そんな中、御台所も産気づき、その夜、和子は誕生した。初の男子だった。
 ――――――勝った!
 御台所は産屋のしとねの中でほくそ笑んだ。
 ところがまわりの誰もが顔をこわばらせ、まともに眼を合わそうとしない。不吉な思いに貫かれた御台所は、侍女の止めるのも振り切って、か弱い泣き声のする隣室へ踏み入った。
 そこで彼女が見たものは―――――側室の子がかくあるようにと望んだ、ふためと見られぬ異形の赤ん坊だった!
 あまりの衝撃に狂乱した御台所は鬼女に豹変した。そのまま側室の部屋に駆けいり、すやすやと眠る玉のような美しい姫を抱きかかえるや、城の天守に登った。
 そして黄泉への深遠の色を湛える沼へ、姫もろとも一気に身を躍らせた―――――。

* ************************

紅葉の湖 朽ちた木が倒れている


私は思わず両手で顔を覆った。
「なんて恐ろしい――――――」
「その御台所の名をもず姫、側室の名を、ゆず姫―――――という」
楡彦はつけくわえた。
突然、百舌が鋭い叫びで辺りの空気を切り裂いた。
ここへ来た最初の日、百舌絵さまが私の名を聞いて奇遇だと言ったわけがようやく判った。
 「本当に偶然だね。牛島家で君が呼ばれているのを聞いて、おや、と思ったよ」楡彦の張り詰めていた表情が緩められた。「この伝説だけ聞くと、もず姫は鬼のように恐ろしい印象を受けるが、他の文献では才色兼備の誉れも高くてね、樹之宮一族の女の子には彼女に因んだ名がよくつけられる。母もその一人だ。だが、ゆず姫に因んだ名は不思議と例がない」
 「何故、もず姫の盛った毒がご自分のお腹の子に・・・・・?」
 「さあ・・・真実は遥か時の彼方だ。もず姫の亡骸はどんなに手をつくしても見つからず、それ以来彼女は鎮魂の意味も込めてこの沼の女神として祀られ、沼は鵙ヶ沼と呼ばれるようになったというわけだ」
 鵙ヶ沼はおどろおどろしい伝説を秘めて、ただ沈黙していた。
 「恐ろしい話。もず姫の犯した罪よりも愛があまりに強烈過ぎて――――――」
 男に言わせればそのくらい激しく愛されてみたいものだが」楡彦は軽口を言って笑い、「怖がりなんだね、柚子ちゃん。大丈夫、ただの昔話さ」
しかし、彼女の安らぎを祈って手を合わせずにはいられなかった。その肩を楡彦は抱き、私は彼の内懐の暖かさを味わいながら、もず姫が身を投げたという沼の水の冷たさに思いをめぐらせた。やがて汀で戯れていた二頭の犬を楡彦が口笛で呼び、私たちは帰路に着いた。

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. 「ゆず姫、もず姫」第7回

屋敷では百舌絵さまが待っていた。


紅葉の湖畔

彼女の聡明な瞳は私たちの変化を何もかも見通しているのではないか――――――。少々、後ろめたさを感じながら、髪や襟元の乱れがないか、気がかりだった。
 だが彼女は屈託のない笑顔で、
 「まあまあ御前、ご教育熱心なのはよろしゅうございますけれど、よそ様の大切なお嬢様に万一のことがあったらいかがあそばすおつもりですの?馬だけはおよしあそばせ」
 「馬場へ行ってごらんなさい。近頃のレディは私たち男よりも鮮やかなお手並みですよ、百舌絵さん」
 彼が「百舌絵さん」と彼女を呼んだだけで私の心に小さな嫉妬の火が点いた。昨日まではなかったことだ。
 「朝食はまだでいらっしゃいましょう?柚子香さんもお召し換えなさって、ご一緒にいただきましょう。――――――あら」
 百舌絵さまのキラリと光る眼が楡彦を捉えた。
 「お顔の色が優れませんわ。近頃、その日のうちにおやすみになられたことがございませんでしょ。芳野、芳野、例のお薬湯をお持ちしてちょうだい」
 そう言って大慌てで命じるのへ楡彦は苦笑した。
 「またあれですか。せめて、こんな清清しい朝はご勘弁願えませんか」
 「なりません。御前のお体のためを思えばこそですわ」
 仕方なく楡彦が顔をしかめて薬湯を飲み干してから、私たちは食堂へと移った。
  いつものようにとろけるようなすくらんぶる・えっぐを前にしても、胸がいっぱいで食べられない。向かいの席の楡彦を見つめる眼差しがどうしても熱を帯びてしまう。
 (恋・・・?)
 食卓の上のコスモスはもちろん、無表情な給仕や壁の古時計までが私の初めての恋を祝福してくれているような気がした。
 何もかもが急に色鮮やかに息づき始めた。
 「柚子香さん」
 百舌絵さまの声にハッと我にかえる。
 「お稽古は進んでらして?あまりに先生が厳しいならいつでも私におっしゃって」
 「はい、ありがとうございます。何も知らない田舎者ですので若様のお手をわずらわせてばかり・・・・」
 「――――――若様?」
 瞬間、私はしまった、と思った。楡彦を伯爵様と呼ばなければならないことを、つい失念していたのだ。楡彦から針のような視線が飛んできて、私は自己嫌悪の塊になった。
 その時である。
 ダン!と観音開きの扉が乱暴に開かれたと思うと、そこに灰緑色の上下を着た初老の男性が仁王立ちになっていた。堂々とした偉丈夫だ。

 百舌絵さまのナイフがガシャリと落ちて、眼をやると彼女は蒼白になって腰を浮かせていた。いつもの落ち着きは跡形もなく、別人のようにおどおどした目つきに私は少なからず衝撃を受けた。
 楡彦がいち早くナプキンをはずして席を立った。
 「お父さん・・・・」


旧夏本邸 廊下

 樹之宮伯爵、幹吾はぎろりと居間を見回しいかつい髭を撫でてから、息子に向かった。
 「いい身分だな、楡彦。こんな時間に自宅でゆっくり女を相手に朝食とは」
 「失礼致しました。お帰りにも気づかず」
 「お前の鈍さは今に始まったことではないがな」
 痛烈な言葉に、楡彦のこめかみが小さくひくついた。
 伯爵は大股に食卓に近づいた。
 「ひっ・・・・」
 百舌絵さまがキツネのように跳びあがった。異常な脅え方だ。
 「こ、こちらへおいでにならないで、お義父さま!」
 テーブルクロスの端を握ったまま立ち上がったため、食器や花がけたたましく落ちて破片を散らした。それを見るなり一層蒼白になった百舌絵さまは大きくよろめいてうずくまってしまった。
 「百舌絵さん!」
 楡彦の声と同時に私は駆け寄り、彼女を支えた。大輪の花が痛々しく生気を無くしていた。
 「ふん」
 ますます髭をいからせて、この家の当主は自分の妻に蔑みの一瞥をくれた。
 「相変わらずか、百舌絵。わしは義父ではない、お前の夫の幹吾だ。何度言えば判るのだ!」
 「ひいっ!」
 百舌絵さまの華奢な身体が私の腕の中でがたがた震える。
 「お父さん、止めてください!そうきつく申されても百舌絵さんには逆効果です。芳野、奥様を部屋へ!」
 芳野は私の手から百舌絵さまをひったくるようにして連れて行った。
 室内に気まずい空気が置かれた。
 「楡彦、お前がそうやって甘やかすからあれはいつまでたっても快癒せんのだ。少なくともあれを名前で呼ぶのは止したがいい。あれはれっきとしたお前の母親なんだぞ」
 「・・・・・・判っています」
 「そうかな。それに、その娘はなんだ。新しい女中か」
 幹吾の眼が私に向けられた。楡彦が素早く応じる。
 「先日の上京の折お話しした、許婚者の牛島柚子香と申します」
 「ふん、何を戯言を」あっけなく一蹴されてしまい、私は身の置き所を失った。「遊ぶなら郭へ行け。この家に身元の知れぬ女を入れるなどもっての外だ。第一、お前には隠岐家の長女という許婚者あるではないか」
 追い討ちをかけてこの言葉は落雷のように私を直撃した。
 (許婚者・・・・!楡彦さんに・・・・!)
 しかも隠岐家といえば貴族院の隠岐瑞夫の一族であるらしいことは私にも察しがつく。
 「あのお話はお断りしたはずです」
 眉間に深い皺を刻んで、楡彦はきっぱりと言った。
 「馬鹿者っ!」
 広い居間が震撼するほどの怒号と共に、楡彦の頬に父親の拳が音を唸らせて食い込んだ。
 「お前が断った、受けたという次元の話ではないのだぞ。いい歳をしてそんなことも判らんのか。先方には長いこと祝言を待たせてある。早々に準備するからそのつもりでおれ」
 「お父さん!」
 唇の血を拭いもせず、楡彦は父親を睨んだ。
 「女を連れ込んで遊ぶ暇があったら仕事に眼を向けたらどうだ。今、お前の社に何が起こっているか知りもせんで」
 「何だというんです・・・・」
 「株価が暴落しておる。英国のペグステン社が倒産した余波だ」
 楡彦の顔に大きな衝撃が走った。
 「ペグステンが倒産?しかし私の方にはそんな報せは・・・・」
 「わしが情報を遅らせた。この頃東京にも顔を見せず、どうもたるんでいるようだったから試してやったのだ」
 「お父さん!」
「しっかりせんか、楡彦!」わしの樹之宮海運とて生き残るか否かの岐路を目前に控えておることは知っていようが。ペグステンの倒産ごときに揺すぶられるような経営をしていてどうする。いつになったら全てを任せて貴族院に出馬させてくれるのだ。さ、何をぐずぐずしている、被害を最小限に食い止めろ!」
 「・・・・はいっ」
 執事を呼びつけながら、楡彦はあたふたと飛び出していった。
 後には散乱した食器と、この家の君主と私だけがだだっ広い食堂に取り残された。和やかだった土曜の朝は一変して重苦しい空気になってしまった。
 なんと恐ろしい伯爵様だろう。私はおっかなびっくり独裁者に眼を向けた。たしかに楡彦が父の若い頃にうりふたつと言っただけあって、よく似た顔立ちだが受ける印象はまるで違う。私が想像していた、紳士的で温和なタイプとも程遠い。この人がいるといないでは晴天と大嵐ほどの差があるだろう。
 軍人を思わせる威圧的な視線が跳ね返ってきて私はびくんとした。が、私など意識のかけらにもないのだろう、くるりときびすを返すと大股に部屋を出て行ってしまった。
 「不愉快だ!すぐに東京へ戻るぞ!」
 廊下から部下や使用人に怒鳴りつける声が反響してきた。

キャラデザイン:pooh様


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. 「ゆず姫、もず姫」第8回

それから三日間、楡彦は帰らなかった。
百舌絵さまも部屋に引きこもったきり、芳野に食事を運ばせて一歩も出てこようとなさらない。
 憎らしいほど素晴らしい秋晴れが続いていたが、あの朝の衝撃の余韻がすっかり気分を滅入らせ、散歩する気にもなれず私はひとりで落ち着かぬ時間を過ごすしかなかった。
唯一の話し相手であるカヨに少し尋ねてみる。
 「伯爵様はずいぶん厳しいお方なのね。いつもあんな風なの?」
 カヨはうなずいた。
 「お戻りになるたびこの明るいお屋敷に暗い雲が立ち込めます」
 「どうしてあんなに険悪なのかしら」
 「それは、やはり奥様の病気のため・・・・・」
 カヨはしまった、というふうに肩をすくめ、口をつぐんでしまった。百舌絵さまの病は周知の事実でありながら禁句であるらしい。
 「でも私思うのよ、カヨさん。ご自分の奥様がご病気ならいたわってさしあげるのが普通じゃなくて?ましてやお若い頃からご婚約なすってとても仲のよいご夫婦だったというお話だし。いったい、何が伯爵様をあんな風に変えてしまったのかしら。厳格な、というよりあれでは奥様と息子さんを憎んでおられるとしか思えないわ」
 「・・・・・・・」
 カヨはそれきりそのことに関して、決して口を開こうとはしなかった。

* *****************************

ダルメシアン 伏せ姿


三日目の夜、私の足元で寝そべっていたアイザックとパウエルが揃って身を起こした、と思うと甲高く鳴きながら外へ突進した。
 その声は待ちわびた主人の帰宅を告げている。私も綴り方の筆を置くなり、急いで部屋から飛び出した。
 真っ暗な庭に出ると、楡彦が秘書の成瀬を従えてクルマを降りるところだった。彼らは何か言い争っていた。
 私を追い抜いて駆けつけた執事の山脇に帽子だけ押しつけ、まつわりつく犬をうるさげに振り払い、彼は尚も秘書に激しい言葉を投げ続けていた。その顔は別人のように蒼白でとげとげしい。私は思わず立ちすくんだまま近寄ることができないでいた。彼も私など全く眼中にないらしく、足早に屋敷に入ってしまい、そのまま二階の書斎へ秘書と共になだれこんだ。私はそっと足音を忍ばせ扉のわずかな隙間から様子を窺った。
 「もう言い訳は沢山だ!」
 いきなり飛んできた楡彦の怒号に、びくりとした。秘書の成瀬が直立不動で彼の前に立っているのが見える。
 「お前はいつから父の部下になったのだ」
 「ですから伯爵閣下は社長のお為を思われて情報を遅らせる試みを私にご命じに・・・・」
 「そんなことを真に受ける者がどこにある。最悪の事態は避けられたから良かったものの、我が社の屋台骨を揺るがす大事になりかねなかったのだぞ。お前は根本から間違っているようだ。父は味方ではない、敵なのだ!」
 「そ、そんな・・・・」
 「折あらば私を失脚させようとしている仇敵なのだ。私と社の発展のためと銘打って罠を仕掛けるのも一度や二度のことじゃない。お前は長年秘書を務めながら、そんなことも判らんのか!」
 「でも、伯爵閣下の仕掛けてこられる難題もマイナス面ばかりではありません」
 成瀬は食い下がった。楡彦と同年輩なだけに秘書とはいっても自分の意見を口にしなければ気がすまないらしい。
 「現に成績向上に結びついてきたではありませんか」
 「私の経営方針だけでは信用できないというんだな」
 楡彦の、険しい眉間が扉のわずかな隙間からよく見えた。
 「そうではありません。社長のお力は信じています。ですが伯爵閣下のご懸念もわからないでもないのです。近頃、私に断りもなく得体の知れない男たちを出入りさせておられる様子ですし・・・・。いったい、何を」
 「お前に詮索されることではない!」ドン!と楡彦の拳が卓に打ちつけられた。「父に懐柔されたお前になど言う必要はない!」
 「社長っ!」
 「もういい、下がれ!裏切り者には用は無い。二度と私の前に姿を現すな」
 「社長・・・・!」
 成瀬の悲痛な叫びが虚しく室内に響いた。だが、一端背を向けた楡彦はついにこちらを向くことはなかった。
 成瀬はがっくり肩を落とし、去っていった。
 入れ替わりに執事の山脇が来て、遠慮げに声をかける。
 「お食事はいかがなさいますか。お湯は」
 「何もいらん!誰も入るな!」
 にべもない。
 ひとりになってしばらくすると、楡彦はいきなり机上のランプスタンドを振り上げ、テラスのガラス戸めがけ投げつけた。それはなんという惨状だったろう。耳をつんざく音と共に、楡彦の肩が大きく波打つ。尚も構わず書物や灰皿を次から次へと投げながら、恐ろしい恨みの言葉が吐き続けられる。
「今に・・・今に見ているがいい・・・・」
 楡彦の、手負いの獣が放つようなかすれた声を耳にするたび私は命が削られる思いがした。
 物静かで完成された大人であるはずの彼が今、もろい姿をさらけ出し、心を血しぶかせているのだ。
 私の胸のうちに、無明の闇が広がる天と地にただ一本、葉もなく頼りなげに烈風と渇きに耐えて立つ若木の姿が浮かんだ。
 今にも枯死寸前のその木に、何としても生きてほしい――――。そのためには私の体の水分を全て与えても惜しくはない―――――。
 私の髪の毛ひと筋、爪の一片からでも搾り出せるものなら最後の一滴まで命の水を若木の根に吸わせてやりたい――――――。
 魂の底からそう思った。
 「やめて!」
 私は部屋に飛び込んで楡彦の背中にすがりついた。これ以上彼が血を流すのを黙って見てはいられない。
 「お願いです、やめて下さい!」
 激しい彼の鼓動はやがて徐々に鎮まっていき、手に残っていた書物がゴトリと足元に落ちた。そしてやっと悪夢から醒めた者のようにゆっくりと私を振り返る。それは見たこともない、いつもの彼からは想像もできない凄まじい形相だった。
 だが次の瞬間、彼の上半身は私の上にくずおれてきた。
 「若様!」
 執事が走りこんできて手を貸し、彼を奥の寝室へと運ぶ。
 「何か、温かいものをお持ちしてさしあげて・・・」
 私は叫ぶように執事に頼んだ。
 書斎の戸口には使用人の人だかりがしていたが、執事が出て行こうとすると、クモの子を散らすように消えた。
 私は寝台に仰臥させた楡彦のボウタイを解いてひと息つき、室内を見回してみて重厚な彼の自室へ初めて踏み入ったことに気づいた。
 執事が温かいウイスキーを持ってくる頃には楡彦は幾分落ち着いて天井を見つめていた。 
 「おひとりにしてさしあげましょう」
 執事にうながされてしぶしぶ立ち上がった私に幼い子どものような声が追ってきた。
 「柚子ちゃん・・・ここに・・・」
 私は寝台に飛びつくように戻った。執事が静かに扉を閉める気配がした。
 「お話なら、明日お聞きします。今夜はもうお寝みになって」
 言い終わらぬうちにハッと眼を見張る。楡彦のこめかみが濡れているのだ。
 「無様だな。父にかかるとまだ洟垂れ小僧同然だ」
 「お父様も若様のためを思われるあまりのことなのですわ。ひとり息子でいらっしゃるのですもの・・・」
 「息子であるなら・・・・」
 「え?」
 彼は耐えられぬようにぎゅっと固く眼を閉じ、言った。
 「僕は樹之宮幹吾の息子ではない」
 「な、何をおっしゃいます」
 「本当のことだ。僕は祖父の樹之宮葉之助が百舌絵に産ませた子なんだ」
 百舌の鋭い羽ばたきが耳の側をかすめたような気がした。この真夜中、そんなことがあろうはずもないのに―――――。
 「まさか・・・」
 「恥ずかしいことだが亡き祖父は奉還前の習わしを断ち切れない人で、正妻のほかに数人の愛妾を持っていた。にもかかわらず息子の嫁にまで手をつけたのだ」
 「信じられません、そんな」
 「僕は見たんだよ、柚子ちゃん。十歳のとても暑い夏だった。日本館の茶室で祖父が嫌がる母を無理やり・・・・・」
 「やめて下さい!」
私はかぶりを振って立ち上がった。しかし悪夢は一向に去らない。
 「それで全て納得がいったんだ。父が異常に僕を憎んでいることも、東京に行ってしまったことも、母が祖父を恐れていたことも、母が・・・・僕を産んだことを認めようとせず未だに新婚当時の父の面影を僕に求めて信じ、疑わないことも・・・全て!」
 楡彦は仰向いたまま両手で顔を覆った。その手が小刻みに震えて止まらない。
 「楡彦さん・・・」
 我知らず彼の名を初めて呼んでいた。
 物心ついてより今までのことが走馬灯のように心を走りぬける。名も知らぬかすかな母の面影、牛島家での苦しい仕事、紅子や蒼美の蔑み笑い、牛島夫人の物差し打ちの痛さ、進太郎の陵辱、女中仲間たちの白い目・・・・。そして、知るはずもないのに稚い楡彦が祖父と母の情事を盗み見てしまったときの、彼の苦悩の表情までもがはっきりと瞼の裏に映った。
 ひとりぼっちでおい育った私は知らぬ間に心がねじくれ、楡彦を慕いながらも恵まれた境遇に嫉妬し、同時に苦労知らずと蔑んでいたのだ。
 だがこの瞬間、それらは跡形もなく溶け去った。彼が私など比べものにならぬ孤独の地獄に彷徨い続けていること――――――しかも容易に外せぬ足かせを引きずって―――――が判ったからだ。」
 その痛みを癒してあげられるのは私をおいて他にない。彼は本能的にそれを感じ取り、私を選んだのだ。共に泣き、傷を舐めあう伴侶を魂の底から望んでいるのだ。ああ、なんといたわしいことだろう。
 「君を幸せにするなどと驕りも甚だしい。こんな出生を持つ僕には人を幸せにするどころか自分の平穏な人生さえ赦されないに違いない・・・・」
 「楡彦さん・・・・!」
 苦しげに呻く彼をどうにかしてやりたい。私は決然と立ち上がった。もはや躊躇いは無い。帯止めを解き、帯を解き、しゅるしゅるという衣擦れが静寂の中に響いた。気配に気づいた楡彦が上半身を起こして眼を見開く。
 「柚子ちゃん・・・・!」
 「どうすればいいの、そんな投げやりなあなたをどうやって力づければいいの。こんな辛い夜、あなたを抱きしめて朝までいてあげるしか、私にはできない・・・・」
 「柚子香・・・・」
 楡彦がゆっくり両手をさし広げ、私は肌襦袢を肩から落とすと同時にその中へ飛び込み、彼のこうべを抱きしめた。
 その重みと栗色の髪の芳しさが早くも私を陶酔に導いた。
 「そうだったね」すっかり涙も乾き、冷静さを取り戻した楡彦の声に私は少なからず驚いたが、すでに心も身体もがんじがらめとなっていた。「君さえいれば僕は何も恐れることなどなかったんだ。そう、この可憐な痣が僕の手にある限り――――――」
 この時の、彼の眼の奥の輝きを、私は知らない。

嵐の空

 次の瞬間、その渇いた声からは想像もできない激しさで楡彦は胸の痣に熱い舌を押しつけたのだった。
 ――――――それはかつて進太郎に無残に踏み荒らされた、初めてのときとはなんという違いだろう。自ら望んで愛する人の腕の中にあるという思いもさることながら、まるで深い森の神秘に全身をからめとられてしまったようだ。彼の逞しい四肢はしなやかな若木さながらで、その愛し方は水面を踊るさざなみのようにひとしきり細やかに続いたかと思うといきなり瀑布の凄まじさで私の睫毛から身体の芯までも、自分の色に染め上げていく。
 「楡彦さん・・・楡彦さん・・・楡・・・!」
 次第に高みへといざなわれながら、私は窓外からの不思議な唸りを耳にしていた。
鵙ヶ沼のざわめきなのか、木々の葉擦れなのか、虎落笛のようなそれは、楡彦の熱い囁きに混じって夜通し中途切れることはなかった。

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. 「ゆず姫、もず姫」第9回

 第 四 章

 お稽古三昧の静かな日々が戻ってきた。
 以前と違うのは、私が心から真剣にそれらに打ち込み始めたことだ。
 いずれ伯爵夫人になるという自覚が生まれたからに他ならない。楡彦のために自分を磨きたいと私は切望した。決められたお稽古の他にも昼間は楡彦の着物を縫ったり、厨房に入らせてもらって料理長から西洋料理を教わったりと、充実した日々が続いた。


グランドピアノ

 百舌絵さまもすっかり元気になり以前のように出かけることもできるようになった。
 年齢を感じさせない透き通るような肌が一層、光沢を増したようだ。楡彦と彼女の、相変わらず睦まじい場面に出くわしても、私は以前のように嫉妬にかられることは無くなった。百舌絵さまがなんと思い違いしておられようと、彼らはあくまで母子で、真に愛されているのは私なのだ、という確信があったからだ。それどころか近い将来、このひとから最愛の男性を奪い去ってしまうことを、申し訳なくさえ思うのだ。その時、彼女はどんなに嘆き悲しみ、私を呪うだろうか。病の成せること、とはいえ心が痛む。でも、楡彦も私も真実の幸せを得る権利があるのだ。そう私は何度も自分に言い聞かせた。
 玄関ホールにたたずみ、先代葉之助の肖像画を仰ぎ見る。白いあごひげを蓄えた明治の実業家は絶対的な威容をたたえ、沈黙している。この、全ての不幸の根源であるという男も責められて当然だが、百舌絵さまのような人を目の当たりにして自分のものにと欲したのも無理からぬこととも思う。
 この、生まれながらに高貴でたおやかな女性は人生に何度裏切られればよいのか、全て美しすぎる彼女の罪なのではないだろうか―――――。

* ****************************

 楡彦は以前と変らず紳士的で穏やかで、父親との深く激しい確執を心の底に秘めていることなど芥子粒ほども気取らせない。
 私に対しても礼儀正しく、あの夜以来、決して私を部屋に入れず、私の部屋に踏み入ることもない。百舌絵さまの手前だけでなく、彼の潔癖さが許さないのだろう。とはいうものの、たびたび沼の畔への散歩に誘っては肩を抱いて歩いてくれる。私たちが恋人同士でいることを許されるひとときだった。ススキの穂が銀色に輝き、柿の実の朱色が眼にしみる鮮やかさの、悲しいほど美しい深まる秋の景色が私たちの歩む小道を彩っていた。
 「君が悪い。君のせいだ」彼はいたずらっぽく言う。「式は来年の初夏にするつもりだったけど、とてもそんなに待てない。年明け早々にでも繰り上げよう。―――――でも」
 彼は私の襟元にたっぷり白いレースをあしらった深緑のびろうどのワンピース姿を眺め、
 「そういう娘らしい恰好が見られなくなると思うと、咲きほころんだ花を手折ってしまうのも可愛そうな気もするけれど」
 「私は楡彦さんのそばにいられるだけでいいの・・・」
 楡彦は微笑み、白いセーターの胸に抱き寄せる。
 「今度、その服に似合うカメオのブロウチを横浜で探してきてあげようね」

カメオブローチ


ゆぶ作 「柚子香と楡彦」

 だが、ふたりの歩みがもず姫の祠の前に差しかかると決まって私の心に冷たい風が吹き抜けた。
 「なんだか怖い。ゆず姫は不幸のどん底に落とされたのに、同じ名前の私がこんなに幸せでいいのかしら。牛島家で苦しい働きを強いられている人たちや、若くして亡くなった母を差し置いて・・・・」
 「いいんだよ」楡彦はきっぱり言う。「現代のゆず姫は僕の腕の中で永久に幸せになる。そう決まっているんだ」
 「楡彦さんたら、どうしてそんなこと判るの?」
 「どうして?何故?と聞きたがる唇はこれだね」
 背をかがめて唇を重ねようとする彼の肩を急いで押しとどめる。違うのだ。私が本当に恐れているのは、伝説と対照的に私―――――ゆず姫が、百舌絵さま―――――もず姫を不幸の淵に突き落としてしまうことだ。――――――が、それを口にすることはもっと恐ろしい。
 「どうしたの?」
 怪訝な顔の楡彦に、首を振るしかない。
 もず姫の祠は数百年の沈黙を守って今日も沼を見下ろしていた。

* ****************************

そんなある日のこと、楡彦は私をこの地方の名士が集う、本格的なパーティーに誘った。
「行儀見習いとしても勉強になると思うんだが、どうですか、百舌絵さん」
夕食の席で彼は隣席の百舌絵さまに伺いをたてた。
 「そうですわね。お出かけあそばせ、柚子香さん。私、ダンスパーティーはどうも苦手ですの。あなたが代わりを努めて下されば私も安心だわ」
 百舌絵さまはにこやかに賛成し、楡彦が私だけに判る角度で片目をつむってみせた。
 「でも私、ダンスパーティーだなんて」
 「大丈夫、ずいぶん上達したよ。もうどこへ出しても恥ずかしくない。ドレスは僕が見立ててあげよう」
 彼が選んだのは、柚子の実を思わせる柔らかな黄色のデコルテだった。シルクタフタの素晴らしい肌触りの生地で、たっぷりとしたひだが腰から下を華やかに演出している。
 当日、支度をしていると百舌絵さまがやってきてにこやかに賞賛してくれたが、にわかに部屋を出て行ったと思うと、ほどなく大きな生成り色のレースのショールを持って戻ってきた。そして私の胸元に慣れた手つきでドレープを幾重も作りながらあしらっていく。ブロウチで留め終えるとそれは、元からのデザインであったように自然に、そして一段と華やかさを加えていた。
 私ははっとした。百舌絵さまはデコルテの胸のラインから見え隠れしていた例の痣をうまくレースの下に隠してくださったのだ。
 そればかりか芳野に命じて素晴らしい真珠のネックレスとイヤリングまで持って来させ、
 「私がこちらへ嫁いできた折、御前がプレゼントしてくだすったものなの」
 それは愛情と信頼深かった頃の幹吾氏の言わば形見に違いない。
 「そんな大切なお品を私なんかがお借りしてもよろしいのですか」
 「ええ、どうぞ。御前がとても目をかけておいでのお嬢さんに身に着けていただければ私も嬉しいわ」
「・・・・ありがとうございます」
 胸が詰まった。夫の愛がとっくに冷めてしまったとも知らず、息子を夫と勘違いしていることにも気づかず穏やかな微笑を浮かべる百舌絵さまが哀れでならない。
 「まあ、お嬢様、なんておきれいなんでしょう!」
 ケープを持って入ってきたカヨの素っ頓狂な声で、部屋に笑い声が満ちた。
 何本ものロオルパンのように、ねじり巻いた髪を淡黄色のりぼんで飾り、ひじの上までの手袋を着けるとようやく支度ができあがった。
 タキシード姿の楡彦がぴかぴかの懐中時計を持ったまま顔を覗かせた。
 「そろそろでかけましょうか」私の姿を眺めてうなづく。「完璧だ」
こうして私はここへ来て以来、初めて外の世界へと踏み出したのだった。

* ********************************

クルマを降りると会館には関東屈指の名士が続々と到着していた。
欧州での大戦の勃発で、連合国側に参戦して以来、資本主義の考えが広まり、最近はこういう贅を尽くしたパーティーは珍しくなっているのだ、と楡彦が教えてくれた。
 煌々と灯されるシャンデリアが私を緊張させ、高揚させた。
 「そんな怖い顔しないで」楡彦がクスリと笑う。「君は笑顔が何よりの装飾品なんだから」
 そう言われても、社交笑いの身についている彼とはわけが違う。
 お腹の出っ張った、貫禄充分の年配の紳士や本物のエレガンスを自分のものにしている婦人方に混じって暗紅色の絨毯の上を辿ってホールに入ると、そこはまさに夢の世界だ。
 楽団が美しい調べを奏で、そこここで上流の人々が話しの輪をつくって歓談に興じ、宝石のように色とりどりの美しいカクテルを運ぶ蝶ネクタイの給仕たちがきびきびと行き来する様はおとぎ話の中の夜会そのもの――――――。
 中央のフロアではもうダンスを始めている人たちも見られる。
 私たちが奥へ進んで行くと、何人かの殿方がわらわらと寄ってきた。軍人もあり、芸術家と思われる風貌の人もあるが、皆、楡彦と同年代の青年たちだ。
 「高等学校や大学時代の悪友どもだ」
 楡彦がひとりひとり紹介し、私はどぎまぎしながら握手を交わした。
 「珍しいな、楡彦。お前がダンス・パーティーに来るとは。しかもこんな初々しい人をパートナーに。どういう風の吹きまわしだ。
 ずけずけとした物言いの、銀縁眼鏡の青年は浅黒く逞しい面構えで、(静)の印象の楡彦とは対照的な(動)の男性だということはひと目で判る。
 「海藤優馬です!よろしく、美少女!」
 大きな声で自己紹介し、カクテルグラスをかざした。
 「彼は気楽な僕とは違い、裸一貫から海藤海運を築いた士族で、今や海運業界の若きプリンスだ」
 楡彦は言った。
 「のんきなことを言ってていいのか、楡彦?お前がお父上の跡を継げば正面きって俺とはライバルになるんだぞ」
 「跡を継げば――――――な」
 「ひとり息子なんだからお前しかいまい。いいよな、生まれた時から財閥のオーナーの椅子が待ってるお人は。だが、負けんぞ。世間の奴らは船成金と言って馬鹿にするが、俺はこの景気が終わっても生き残ってやる。石にかじりついてもお前たちサラブレッドには負けん」
 多少酒が入っているせいだろう、盛んに気炎を上げる。
 「わかった、わかった。お手柔らかに願うよ」
 楡彦が制すると、優馬は急に私に向き直り、
 「私はまだ妻帯者ではありません。よろしく、美少女!」
 「あいにく――――――」軍人のように敬礼の姿勢をとっておどけてみせる彼に、楡彦は決定的な防御壁を繰り出した。「こちらの柚子香さんは僕のフィアンセでね。皆さん、どうぞよろしく」
 周囲の男性は揃って、一瞬言葉をなくし、それからワッと歓声を上げた。
 「やったな、おめでとう!」
 「樹之宮の奴、どこからこんな可愛い人を」
 「そうだ、そうだ、隠していたとは許せんぞ」
 殺到する好奇の目と質問の一斉攻撃に楡彦は苦笑し、
 「隠してなんかいないさ。なんせ、この夏の終わりに運命的な出逢いをしたばかりなんだ。まだ家へ来てもらって二ヶ月あまり、目下、花嫁修業猛特訓中だ」
 一同はもう一度歓声を上げた。
 「もう樹之宮家で暮らしてるのか?」
 「さすが楡彦、打つ手が早い。誰にも奪われないよう、考えたな」
 私は顔から火が出そうになりながら、話題が移るのを願っていたが、それどころか話の輪の外の年配者の間にも飛び火していた。
 「樹之宮伯爵様のご子息がご婚約あそばされたそうですわよ」
 「ほう、お相手は代議士の令嬢かね、それとも軍人の家の?」
 「うちの娘がこの先何週間も泣き暮らす思うとたまりませんわ」
 背後の話し声に、一層小さくなっていると、新しいワルツが始まり、わたしたちはやっと解放された。周りの人間が散ってから、楡彦は私に向かって丁寧に一礼した。
 「踊っていただけますか?マドモアゼル」
 「いきなり、駄目ですわ。そんな・・・・」
 「目を瞑って、いつもの、屋敷でのレッスンだと思えばいい」
 半ば強引に手を取って、彼はステップを踏み始める。無我夢中でついていくしかない。
 ――――――私は至福の中心にあった。
 上流階級の人たちさえうらやむ位置にいることを誇らしく思い、驕った気持ちが膨らんでいくのを止めることができない。
 甘いワルツは瞬く間に過ぎ、ゆるやかな調べに移る頃には周りの喧騒も遠ざかり、私の世界には楡彦しか存在していなかった。
 腰にあてられた彼の掌の温かさを感じながら、うっとりと広い胸に頭を預けて囁いた。
 「ちっぽけな柚子の実は――――――」
 「え?」
 唇を黄色いりぼんで塞がれながら、彼は聞き返した。
 「ちっぽけな柚子の実は長い間、道端の泥の中にうち捨てられていました。母なる樹はとうの昔に朽ち果て、柚子の実は自分は決して
そうはなるまいと思いながら、日々、虫に食い荒らされるのをどうにもできないまま、泥の中であがいていました。ある日、そこへひとりの旅人が通りがかり、ふと気づいて柚子の実を拾い上げてくださった・・・」
 「命が危うかったのは、柚子の実だけではなかった」楡彦が後を続けた。「その実の果汁は瀕死の旅人の命を永らえさせてくれたんだ。実の種子は旅人の手で大地に埋められ、今、確実に芽を出し根ざし始めている。そしてそれはやがて豊かな葉を繁らせ、花を咲かせ、鈴なりに実をつけ旅人だった男の喉を潤し続けるだろう。永遠に――――」
 私たちはステップを踏むのを止め、踊りの渦の中で見つめあった。

キャラデザイン:海道 遠


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. 「ゆず姫、もず姫」第10回

照明のトーンが変った。
踊り終えて引き上げてくると、先ほどの優馬が飲み物のグラスを渡してくれた。
 「次は是非、私と」


豪華シャンデリア

 にこやかに笑ってからくるりと楡彦の方へ向き直り、
 「おい、ちょっと」
 と、彼をカーテンの陰に連れて行った。
 フロアの奥では女性によるピアノ独奏が始まっていた。その調べに耳を傾けながら、渡されたジュースをひと口に飲み、ほっとしていると、楡彦たちの話し声が切れ切れに聞こえてきた。
 「婚約だと?何の冗談だ?女学校に上がりたて同然の子どもじゃないか」
 「彼女は小柄だが十六歳だ。結婚してもおかしくない年齢だ」
 「そんなことを言ってるんじゃない。隠岐真宝子はどうするんだ、と尋いてるんだ。今夜も来ているぞ。そら」
 (隠岐・・・・)
 確か、楡彦の父親が言っていた、彼の縁談の相手だ。にわかに心臓の音が耳につき始めた。今夜、ここに来ていると聞こえた。
 (この広いホールのいったいどこに・・・・)
 きっと私たちが寄り添って踊る姿を見ていたに違いない。どんな女性だろう。
 軽やかなピアノの音色にかき消されそうになる、カーテンの向こうからの楡彦の声を聞き取ろうと私はよけい耳をそばだてた。
 「・・・・の話なら父親同士が進めようとしていただけだ。僕には毛頭そのつもりはない。
 「何だ、その言い方は!」優馬は声を荒げた。「話の上だけの清いお付き合いでした、なんて言わせんぞ」
 「じゃ、こう言おう。真宝子とはお互い納得の上で別れた」
 私の胸に焼け火箸が突き刺さった。
 楡彦を独占するだけでは飽き足りず、彼の過去にまで嫉妬するのは醜いことと判っていても、どうすることもできない。
 優馬は尚も食い下がった。
 「納得の上?嘘をつけ。彼女はお前にぞっこんだぞ」
 「とっくの昔に愛想をつかされたさ。君としたことが情報にカビが生えている」
 ピアノ独奏が終わった。女性奏者はグランドピアノの席を立ち、盛んな拍手を受けた。
 今度は楡彦から優馬に、
 「そういうわけだから安心して彼女にアプローチしたまえ」
 「俺は、べつに」
 「だけど君、今は恋愛より仕事だろう」
 「何のことだ?さっきも言ったとおり、大戦景気のおかげで順風満帆だが」
 「父を見くびらないほうがいい――――ということさ」
 「そりゃあいったい・・・・」
 優馬が問い返そうとした時、さっきまでピアノを弾いていた女性がフロアを真っ直ぐ突っ切って、こちらへやってくるのが見えた。頬の線でぷっつり切りそろえた髪が目を惹く。血のような朱色の何の変哲も無いストンとしたイブニングドレスをまとっているが、はっきりした目鼻立ちと豊満な身体はちんけな飾りなど必要としていない。金属的な美しさのする、百舌絵さまとは全く違ったタイプの美女だ。
 「お久しぶり。お珍しい方にお会いすること」
 鮮やかな紅の唇を魅惑的に崩し、彼女は男たちに声をかけた。
 彼女だ。彼女が隠岐真宝子なのだ―――――。
 私の中の直感が囁き、思わずカーテンの奥に後じさった。とても私のような田舎娘など足元にも及ばない、最先端の女性だ。これほど楡彦に似つかわしい人もあるまいに、何故よりによってその後にちっぽけな小娘を・・・・。
 劣等感が岩のように重くのしかかってきた。
 「今、あなたの噂をしていたところだ」
 楡彦の口調は馴染みの者に対するそれだ。
 「まあ、道理で演奏中に嫌な感じがしたわけね。悪口でしょう」
 「とんでもない。海藤と、ますます腕が冴えたなって話していたのさ」
 「お褒めにあずかって光栄ですわ。あなたこそ、めざましいご活躍のお噂、父から伺っておりますことよ」
 私はいたたまれずテラスから中庭へ下りた。これ以上、彼らの会話を聞きたくはなかった。楡彦の真実を、心からの涙を拭ってやれるのは私だけだと言い聞かせてみてもやはり辛い。
 テラスの足を兼ねた円柱にもたれて、十月にしては生暖かい夜風に吹かれていると頭上から人の気配がした。漏れ聞こえる声は真宝子と優馬のふたりであるらしい。
 「楡彦が婚約者を連れてきてるのを知ってるかい」
 「ええ。息の合ったダンス、たっぷり拝見させていただいたわ」
 「―――――で、ご感想は?」
 「悦ばしいことですわ」
 「つきっきりで花嫁教育だとさ。まるで光源氏と若紫じゃないか」
 優馬はふふんと鼻で笑った。
 「私はさしずめ、飽きられ捨てられた六条の御息所とでもおっしゃりたそうね、海藤さん」
 「いや――――――」優馬の声はややしっとりとしたものに変った。「あんたは朧月夜の君だな。他の男のものになっても源氏を忘れられず、何度切れても糸を手繰り寄せられるように関係を続け、老境に近くなってもなお」
 「思いを断ち切れないというのなら怨霊となる六条の方のほうが一枚上手でしょうけれど、生憎どちらも私には判らないわ。未練を引きずって生きるのは性に合わないの」
 「その言葉、信じていいのかな」
 「あなたのご自由に」
 男の熱い誘いをさらりとかわした真宝子は足早にテラスから石段を降りて来た。とっさのことに、私は身を隠し損ねて彼女の面をじっと見つめる。
 「あら」勝気そうな大きな眼が輝いた。「あなた、楡彦さんの若紫ね。立ち聞きだなんて源氏の君に言いつけますわよ」
 ルビーが微笑んだ、という風情の艶やかさだ。対する私はぶざまに顔をこわばらせ、
 「失礼いたしました。そんなつもりではなかったのですが・・・・」
 「ほほほ、冗談よ」真宝子は百舌絵さまの貸してくださったネックレスやイヤリングごと私を眺め回した。「ふうん、楡彦さん、ずいぶんお若い方をもらわれるのね。お名前は?」
 「柚子香・・・牛島柚子香です」
 「私は隠岐真宝子。女流音楽家の端くれよ。楡彦さんや海藤さんとは学生時代からのおつきあいなの。ご存知ですわね、縁談があったこと」
 「・・・・・・」
 お愛想笑いも返事もできない自分がつくづく子どもだと思い知らされた。




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. 「ゆず姫、もず姫」第11回

フォーマルドレス黄色

 「そんな恐い顔しなくっても大丈夫。楡彦さんを奪い返そうなんておもってませんから」
 口元に手をあててころころ笑ったかと思うと、急に彼方の噴水をきつい眼で睨み、
 「あんな方、こちらから願い下げ!」
 と、吐き捨てるように言った。そして茫然とする私にまばゆいイヤリングが触れるほど顔を近づけ、
 「柚子香さんとおっしゃったわね。あなた、彼のお屋敷にいらっしゃるそうね」
 「は、はい」
 「じゃ・・・ご存知よね、ア・ノ・コ・ト」
 意味深長な言い方を聞いたとき、一層香水が鼻をついた。
 「・・・・・・?」
 「彼のお母様のことよ。おつむりのタガが少々おゆるい―――――」    
 頭にカッと血が昇った。百舌絵さまのことをそんな風に言われるのは我慢がならなかった。
 「お言葉ですが、失礼だと思います」
 「あら、あなたが何もかもご承知でご婚約なすったのならそれでよろしいのよ」
 「楡彦さんはとてもお母様思いでいらっしゃいます。お母様のことは、その―――――ご病気で仕方なく・・・・」
 「お母様思いですって?」真宝子は気位の高そうな細い眉を寄せた。「おつむりのタガがはずれてらっしゃるのは伯爵夫人ではなく楡彦さんの方だわ」
 あまりの言われように額にじっとり汗が浮かんできた。いったい、この女性は楡彦さんに怨みでもあるのだろうか。
 「何のことをおっしゃっているんですか」
 「勿論、楡彦さんがお母様のご夫君の役目をしてらっしゃるのは昼間だけだとお思いなの?」
 一瞬―――――空白が頭の中を塗りつぶした。真宝子のぎらぎら光る瞳が間近に迫り、息が苦しくなり、周囲の景色がぐらぐらと揺れ始めた。
 「ねんねさんだこと。ディナーの口直しってところかしら。私はデザートにされるのはごめんだわ!獣同然の人と結婚するなんてまっぴら!」
 言葉とは裏腹に、この女性が今も楡彦を激しく愛していることが伝わってきた。だが、
そんなことはどうでもいい。真宝子の脅威は急速に失せていった。たった今、私を虐げているのは彼女の放った言葉だ。
 とても立っていられずテラスの足に寄りかかった。
 (まさか・・・・。嘘よね、楡彦さん!この方のおっしゃることなんか・・・・)
 少し前に離れただけなのに、楡彦に会いたくてたまらず、同時に永遠に会いたくないと思った。
 「柚子ちゃん、そんなところにいたのかい」
 頭上からその、最も望む、最も恐れる声が降ってきて私はビクンと身体が揺れるのを感じた。
 見慣れたシルエットがテラスに現れ、軽やかに階段を降りてくる。入れ替わりに昇っていこうとする真宝子に気づいた楡彦は、途中で足を止めた。
 「真宝子――――――」
 「あなたの可愛い若紫の君にお近づきのご挨拶をしておりましたの。あなたに夢中ね。あてられちゃったわ。ゆめ、裏切ったりなさらないようにね」
 「勿論だとも。失恋の痛手はよく知っているからね」
 「奇遇だこと。私もよ」
 真宝子は高らかに笑いながら彼の面前をすりぬけ、階上へ姿を消した。
 楡彦は庭に降り立つと私の手を取り、
 「放っておいてすまなかったね。長老方に捕まって、一説拝聴させられていたんだ。さ、おいで。優馬の奴が君と踊りたいと言ってきかないんだ。相手してやってくれないか?」
 導かれるままホールに上がると優馬がすぐに駆け寄ってきた。
 「やあ、いたいた。さっきの約束通り私と踊ってくれるでしょう、美少女?」
 彼の誘いや周囲の華やかな情景などすっかり色褪せてしまっていた。私は素っ気なく言った。
 「嫌です。私、楡彦さんとだけしか踊りません」
 「柚子ちゃん!」
 楡彦と優馬は揃って豆鉄砲を食らったように後の言葉を無くした。側に居合わせたお仲間たちから口笛が上がるのもかまわず、私は自分から楡彦の手を取ってフロアの中央に出た。
 「楡彦、覚えてろよ。お前ばかりが何故もてる!」
 優馬が給仕からボトルをひったくって自分のグラスを満たし、あおるのが視界の隅に映った。
 「いけない娘だね、柚子ちゃん。殿方の誘いをお断りしては失礼だよ」
 ようやくワルツに身を任せながら、楡彦はやさしくたしなめた。
 「いけないのは楡彦さんの方です」
 「何を拗ねてるの?」強張った顔を持て余している私に気づいて彼は苦笑し、「さては隠岐真宝子のことを妬いてるんだな。なんだ、そうか」
それならどんなに気が楽だろう。私は弱弱しく微笑んでみせるのがやっとだった。

* *********************************

クルマがひた走る。
鵙ヶ沼の屋敷へのつづら折の道を、闇の中ひた走る。
宴がお開きになる頃、帰途につく人々のドレスやモーニングの裾をはためかせていた湿った風は一層重くなり、途中から横殴りの雨を車窓に吹きつけ不気味な唸りを響かせた。
 「まいったな。台風くずれが来ていたらしい」
 高まる風の声と時折襲い来るザアッと砂を撒かれるような雨音に、私の心の暗雲はますます鉛色に垂れ込めていた。
 「恐くないよ、僕がついてる」
   肩を抱き寄せる楡彦の胸元はいつもと変らず髪の甘い香りと煙草の匂いに満たされ、安らぎをもたらすが今夜は灼けつくような疑惑がいくら振り払ってもはなれない。
 その気だるい戦いに根を上げそうになった時、クルマはようやく屋敷に到着した。召使があたふたとコウモリ傘で出迎え、玄関で雨露を払ってからやっと二階の自室にたどりつくと、もう真夜中だった。
 楡彦は毎夜のお寝みの接吻をしようと私の頬に触れたが、蒼ざめた面に気づいたのか、
 「初めての場所で疲れたようだね。早めに湯を使って温かくしてお休み」
 そう言ってこめかみに軽く口づけただけで背を向けた。
 壁の装飾燈がぼんやりと彼の背中を浮かび上がらせやがてそれは琥珀色の闇に没した。
 私は微動だにせず、彼の消えていった空間を見つめていた。じっと息を潜め、野生の獣のように我慢強く―――――。
 やがて、足がひとりでに前に出た。忍びやかに彼の跡を辿り始める。
 長い廊下の彼方に、再び楡彦の姿が浮かび上がり、自分の部屋の前に立つのが見えた。ここまでは私も来たことがある。記憶に焼きつけられた、たった一度彼と結ばれた夜の事だ。
 だが、その先は――――――。
 その先の角を曲がると突き当たりになっており、百舌絵さま専用の一角になっていることは召使からも聞き知っていた。普段は芳野だけしか立ち入りを許されない、屋敷の聖域である。
 楡彦は自室の扉のノブに一端手をかけたがそれをやめ、尚も先へ歩き出した。
 (まさか・・・まさか・・・)
 私はよろめきながら、それでも憑かれたように後を追い、曲がり角から息を殺して様子を窺った。
 木彫りの艶が美しい扉がひとつ。
 楡彦はその前に立ち、静かに二つ叩いた。ほどなくそれは開けられ、
 「お帰りあそばせ、御前」
 百舌絵さまの若やいだ声。
 ――――――そして、扉が閉じられる刹那、私の網膜に焼きついたのは、楡彦の後ろ髪に滑り込む彼女の白い指だった―――――――――。
 戦慄に近い衝撃が襲ってきて、足元には地獄の深淵がぱっくりと口を開け私を飲み込もうとした。反射的に後じさった背中に、突き当たったものがある。
 淀んだ空間に、芳野がいつもの無表情をさらに石仏のように張りつかせて立っていた。
 「何の御用ですか。ここは奥様と若様以外誰も立ち入れないことになっております」
 「これを・・・・」
 半ば無意識に、私は震える手でもどかしくイヤリングとネックレスをもぎ取り、彼女に手渡した。そして無我夢中でその場を離れた。まるで悪魔に追われているかのように―――――。

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. プロフィール

海道 遠(かなた)

Author:海道 遠(かなた)
小さい頃からお絵描き大好き
お話創るの、大好き
      ↓ 自然に
漫画家になりたい
      ↓
OLを退職。デザイン学校の漫画科へ入学
      ↓
家庭の事情で後、半年というところで退学、OLに戻る
      ↓
技量不足とひどい肩こり症のため、もの書きに転向
      ↓
結婚、妊娠、育児のブランクを経て再度ペンを持つ。
      ↓
が、コンクールに落ちる事、数知れず。
      ↓
諦めてアマの道へ

★著作★
 ペンネーム:海道 遠(かいどう かなた)
 「“海王の接吻”を抱きしめて」新生出版
 「CROSS」新風舎 
 共に全国出版、ネット販売しております。

★海棠結実(かいどう ゆみ) ペンネームで 

 【 遠雷去らず 】風詠社(鎌倉時代もの)
 全国ネット販売しております。
 

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