定命占いのカードが、再会を示した。
アスンシオンは洋燈の下でそれらを操っていた手をようやく止めた。
それまで静寂だった耳に、どっと雨音が流れ込む。
彼は椅子を立ち上がり、不自由な脚を引きずって腐り落ちそうな木枠の窓辺に歩み寄った。
横顔はまだ若いが思慮深げで、肩幅のある体格に似合わず、彼が知性を秘めた魂であることを示していた。
軍隊を退いてからのばしているくせのない長い髪は洋燈に照らされて、本来の青みがかった色がトパーズの彩りを帯びている。
彼は窓の外―――――ビル群の隙間――――――墨色の夜明けの空に浮かび上がる総琥珀造りの巨大な皇帝の居城を眺めた。
篠つく雨に煙りながらも、それは威圧的なライトの眼を無数に光らせて庶民を睨み下ろし、それでいながら少年皇帝の居室の辺りは闇々としていた。
「皇帝陛下は憂いの海の底か・・・・」
アスンシオンの唇から嘆きとも同情ともとれる言葉が洩れた。
「兄さん、寝ていなかったの?」
眠そうにかすれた声に振り向くと、妹のロザージュが夜衣のまま階段を軋ませて下りてきたところだった。
「また占いに熱中してたのね。身体に悪いわよ」
テーブルの上に散らばっているカードを見て、愛くるしい顔を歪めてみせる。
アスンシオンはまだ十五歳のこの妹が可愛くて仕方がなかった。幼い頃に両親を失い、ふたりきりで肩を寄せ合って生きてきたせいもあるだろう。自分は軍隊で片脚を失ってしまったが、この妹だけはなんとしても幸せにしてやりたい、いや、幸せにしなければいけないのだ、と思う毎日なのである。
「この雨のせいか脚が痛むんだ。どうせ眠れないならお前がいつ片づくか占ってやろうと思ってな」
アスンシオンは言い、テーブルへ戻った。
「人のことより自分のことでしょ。ほら、脚が痛むのに面倒みてくれるお嫁さんがいなかったら、私、安心してお嫁にいけやしないわ」
「こんな脚の男のところへ来てくれる娘なんかいやしないさ」
アスンシオンは弱々しく微笑んだ。
「あら、再会の暗示ね!」
ロザージュは兄の弱気を吹き飛ばそうとするようにわざと明るい声を出した。
「兄さん、案外昔の恋人と逢えたりして」
「生憎、心あたりがないな」
アスンシオンがブルーグレーの優しげな瞳を微笑みに溶かした時――――――――唐突にドアが鳴った。
ふたりは飛び上がった。
密やかだが、乱暴で苛立ったたたき方だ。
時間も、まだやっと夜が明けようかというところで、外は真っ暗だ。それに、この陰気な雨。
「誰かしら、今頃」
背中に隠れようとする妹を置いて、アスンシオンは立ち上がった。
「よしなさいよ、兄さん」
そっと、アスンシオンは木製の古びたドアに近づいた。
「どなたですか」
鳴り続いていた音がふと止んだ。雨の音に混じって、若いながら低い声がした。
「アスンシオン・・・・開けてくれ!」
なめした革を思わせる声といえば、あの男しかいない。
「ジャレツ―――――――?」
叫ぶなり、アスンシオンは鍵に飛びつきドアを開けていた。
風雨と共になだれこんできたのは、全身ずぶぬれの男だったが、日頃の毅然とした、そして兄妹には心からの笑顔を見せる彼とはまるで違っていた。
何より顔色が普通ではない。
濡れ羽色の髪からしたたり落ちる雨雫の冷たさのせいばかりではなさそうだ。
漆黒の瞳には凶暴な光が燃えたぎり、整った目元と鼻筋が無残にも苦悩と狼狽に歪み、悪魔が宿ったかのようだ。
竜蛇皇帝の面前に上がることを許された数少ない工作員のひとりであり、周囲の諸大陸から竜蛇の牙と恐れられている男とは、とても思えない。
男は漆黒の革ジャケットをまとった強靭そうな胸を波うたせ、床にくず折れた。
「ジャレツ、どうした」
アスンシオンは軍隊時代の親友の名を呼び、その肩を支えながら、急いで妹に向かって叫んだ。
「タオルを、いや湯を!」
ジャレツは友の腕をつかんで首を振った。
「いい・・・・。急ぐんだ」
「どうした、いったい何があった?」
ジャレツは喉にまとわりつく声をやっとの思いで引き剥がすように洩らした。
「アナリディカを殺した・・・・・・」
「―――――――――?」
アスンシオンの思考にはすぐにはその言葉の意味がしみいってこなかった。
「何と言った?」
「アナリディカを殺した、と言ったんだ」
「!」
アスンシオンはゆっくり妹を振り返った。ロザージュは蒼白な顔で一歩も動けない。
一年前のふたりの出逢いから、教会に駆け込んで愛を誓うまでの経緯、そしてそれからの仲睦まじい暮らしぶり・・・・・アスンシオン兄妹は何から何までよく知っていた。
最近でこそしばらく顔を会わさなかったものの、ジャレツたちは幸せに暮らしているものとばかり思い込んでいたのだ。
「とにかく落ち着くんだ、ジャレツ」
アスンシオンは親友の身体をひきずりあげるように椅子へ座らせた。
夥しい水滴が床を濡らせた。
「いいか、落ち着いて話せ。アナリディカがどうしたって」
「殺した・・・・この銃で」
ジャレツの右手がジャケットから引き抜かれた。それには、竜の紋章がくっきりと象嵌された、皇帝手ずから承ったという銃が握られていた。
ロザージュが恐る恐るジャレツのジャケットを脱がせて、そのまま絶句してしまった。
ジャケットの下のシャツは夥しい返り血で緑色に染められていたのだ。
アナリディカの人種――――――――樹魂の人々は半植物性の人種で、朱ではなく緑色の血液を持っているのだった。
着替えが用意される間、緊張の糸が切れたのか、ジャレツはカードの散らばったテーブルに力なく肘をつき、両手で顔を覆った。
「アナリディカ・・・・・」
「わけを話してくれ、ジャレツ」
アスンシオンは早鐘のように打ち始めた胸を抑え、できるだけ冷静に言葉を選んだ。
「何があったんだ、お前たちはあんなに愛し合い、信じあっていたじゃないか」
「信じていた・・・・・そうとも」
ジャレツは顔から両手を剥がした。
「だが信じていたのは俺の方だけだった・・・・・アナリディカは少しも俺を信じてはいなかった」
「何だって?」
「アスンシオン。彼女は<竜のあぎと>の隠者だったんだ。<あぎと>から命を受け、俺を監視して行動を逐一報告していたんだ」
「まさか・・・・!」
アスンシオンは思わず声を荒げた。
「まさか・・・信じられん。アナリディカが<竜のあぎと>に関与していたとは」
<竜のあぎと>は竜蛇大陸の軍部いっさいを司る機関の通俗名である。
特に仕官養成部門の教育は厳格にして苛烈を極めると言われる。
技能はもちろん、皇帝リシュダインへの神に対するより確固とした忠誠を植えつけられる。
ジャレツもアスンシオンも、十二、三歳の頃からそこで仕官の養成教育を叩き込まれ、竜蛇の持ち駒に仕立てあげられたのだった。
養成機関を卒業し、軍隊に配属されてからもその監視は終わったわけではない。
<竜のあぎと>の監視は皇帝リシュダインのまさに目となり耳となり、軍人たちの行動を何から何までがんじがらめにしていた。
軍事大国、竜蛇の、それが義務でもあった。
しかし、場末の酒場で踊っていたアナリディカまでもがその監視の使命を帯びていたとは―――――――。
いや、それよりも異例的な信頼を置いていたはずのジャレツに対して、皇帝が他の軍人に対するのと同じ監視の目を持っていたとは――――――。
アスンシオンは背中に冷たい汗が伝い落ちるのを覚えた。
「アナリディカ・・・・アナリディカ・・・・・」
ジャレツは再び両手の中に顔をうずめた。
「すべてを信じていた。たった昨日まで。昨日の午後――――――――俺はエルマース街でアナリディカを偶然見かけたんだ」
「エルマース街?スラムじゃないか。何故そんなところへ行った?」
「それは・・・・」
アスンシオンの問いに、ジャレツは口をつぐんだ。
「とにかく、俺はそこで怪しい男と接触するアナリディカを目撃してしまったんだ」
「思い違いじゃないのか」
それは愚問だった。
ジャレツの工作員としての目には狂いなどあるはずもない。
それでこそ、少年皇帝リシュダインが番犬代わりに側に置いては重宝していた理由と言えた。
「帰宅すると、俺は問いただした。彼女自身の口から聞いたんだ・・・・・」
(私の役目なの)
(あなたを監視して行動を報告するよう、<竜のあぎと>から厳命されているの)
(気づいてしまったのね、ジャレツ)
ジャレツの頭の奥で、つい昨夜聞いたばかりの彼女の哀しげな声が渦巻いた。
「トップエリートと言われながら、常に孤独だった心を、彼女はその瑞々しい瞳で充分に癒してくれた。人間の生活とは、このように愛情深く、心安らかな日々なのだと彼女は教えてくれた・・・・・」
ジャレツの目元は深い苦悩に固く閉じられる。
「それがすべて計算されたものだったと判った時―――――――彼女自身にはもちろんのこと、彼女を<竜のあぎと>を通して操っていた少年皇帝リシュダインその人に対する信頼も崩壊した!アナリディカは餌。俺自身は皇帝の与えた餌に尻尾をふる番犬でしかなかったんだ―――――――」
ジャレツは唇をわななかせた。
「驚愕する彼女の前で、俺はホルスターから銃を引き抜き、ゆっくりと狙いを定め―――――銃爪に力を込めた」
「撃ったのか?」
アスンシオンの指がカードの一枚を握りしめた。
しばらく、沈黙がふたりの間に横たわった。
アスンシオンの表情には衝撃だけでなく疑念が浮かび上がってきていた。
「本当に、それだけの理由で?」
アスンシオンはようやく口を開いた。
「確かにアナリディカが<竜のあぎと>の隠者だったことは衝撃だ。しかし、銃爪を引くには理由はそれだけではないはずだ。銃爪を引くということは、リシュダイン陛下を裏切るのと同じことだぞ。今まであれほど忠実に陛下の手となり足となり身を捧げてきたお前が―――――――いったい何故なんだ?」
アスンシオンの鋭い視線から逃げるように、ジャレツは目を伏せた。
「それは・・・・・」
「それは?」
「言えない。今は」
「ジャレツ!」
「すまない、アスンシオン」
ロザージュが湯と着替えを持ってきて、ジャレツは血生臭いシャツを脱ぎ捨てた。
彼が身支度をするあいだじゅう、重苦しい雨音がふたりにまといついた。
「頼みがある」
着替え終わると、ジャレツは鬼火のような目で親友を見据えた。
「白鳳大陸にいるはずの人間の消息をカードで占ってほしい」
「どうする気だ・・・・」
「今から白鳳へ渡る」
白鳳大陸は何百海路も隔たった隣の大陸である。
アスンシオンは親友の目にただならぬ執念が燃えているのを見た。彼の知っている親友の貌ではなかった。
ジャレツは呼吸を止めるようにしてその名を口にした。
「黄金蘭の名を持つ少年――――――――だ」
「黄金蘭の名・・・・・。その少年が何だというんだ。捜してどうする」
「殺す」
「なに―――――――?」
「殺す。この世から抹殺する」
飲み物を運んできたロザージュが、思わず手をすべらせた。
グラスの割れる甲高い音がしたとたん、外の雨音がまたひとしきり勢いを増した。
その明け方、ジャレツは竜蛇大陸を後にした。
そして、二年の歳月が流れた。