悠かなる昔、真珠採りの漢(おとこ)ありき。
目映き陽射しに日々、晒される肌は赤銅色。鋼鉄のように頑丈な、発達した胸郭。
この日、何度目かの潜水からカヌーに上がり烈しく肩を上下すれども、その貌(かお)、精悍に漲(みなぎ)り、眼光鋭く海面を睨めつける。
――――今度こそ。
まだ幼き少年の頃より、幾百回、幾千回唸り、祈った言葉であろうか。渇望し、憑かれたように来る日も来る日も挑み続け、ついには耳を、目を、身体の機能を海神に捧げてしまった奴隷仲間は後を絶たぬ。たったひと握りの成功者に憧れ、自由への者、鮫の餌食になりし者、幾多の漢(おとこ)たちが海に散っていったことか。
しかし――――、
今の漢(おとこ)には後が無かった。以前は彼も、他の真珠採りのように一攫千金、自由の身だけを夢見て日々、潜ったものである。それが彼の生まれてきた理由ででもあるかのように。だが、今は異なる。
あの女を手に入れるために。あの女とあの女と生きていくために、どうしても今日中に真珠を見つけ出さなければならぬ。それには並みの真珠では叶わぬ。
あの女の身の上を変えるだけの稀少な真珠、この世の最高の王者が奴隷に伏し拝んででも望むほどの稀有な真珠でなければならない。
南洋に照りつける太陽がじりじりと漢(おとこ)の背を苛んだ。
――――行け、今だ、この岩礁の下に望む真珠貝が待っている
翠玉(すいぎょく)、碧玉(へきぎょく)を溶かしたかの如き海面に身を躍らせ、その千尋の底までも潜り、捜し求めるものはたったひとつ、曙(あけぼの)色を映し出す薔薇露の真珠、ロデア・マルガリイテスである。
その昔、真珠採りを和名にて白水郎(はくすいろう)と呼べり。
一 沈丁花の章
湯気を立てるやかんの音が耳朶に届いている。
円雅(まるが)はそれを睡(ねむ)りと現実のはざまで聞きながら、風紋のイメージを描いていた。
見たこともない砂の世界である。幼い頃、動揺歌集の挿絵で見たような、一面、砂だけの世界。
夕日なのだろうか、赤とも黄ともつかぬ強烈な色彩に染められた、生き物、いや、いっさいの有機物を閉め出した砂だけの丘陵に、まるで目に見えぬ巨人が描き記していくかのように風紋は鮮やかな縞模様を連ねてゆく。見たこともないはずなのに、何故か懐かしい。しかし、それは甘い感情ではなく重苦しい懊悩(おうのう)を伴っている。無念さ、怨み、もの狂おしい激情。それを、時折甲高い風の雄叫びが逆撫でするように突き抜ける。
やかんが声の調子を上げた。
円雅(まるが)は唐突に現実に戻った。そして思い出した。ここは自分の部屋ではない。
すでに幾度となく通って目に親しんだ染みのある壁、原稿用紙の散乱した小さな文机。
その上の古びたランプよりも、今は障子越しに射し入る西日の方が明るい橙色(だいだいいろ)だ。たった今しがたまでまざまざと瞼の裏に鮮明にあった砂漠の風紋と同じ色である。
薄い壁の向こうからは細々と、どこかの宗教に入れ込んでいる隣人の唱えるお経が洩れ聞こえるのさえ、もう馴染みとなっている。
姉の波流子(はるこ)が知ったなら、なんという顔をするだろう。西日に染まった狭い下宿屋の片隅、黴(かび)臭いせんべい布団にくるまって、男の体温を背に感じながらうたた寝しているなどと。それも、生徒への出稽古の帰りに立ち寄っているなどと。
厳粛な姉は夢にも知るまい。すでに何年も前から異母妹が男を知った身体であることなど。あの女(ひと)自身は三十路に手が届こうというのに、ろくに男と口をきいたこともなく過ごしてきたに違いない。何せ、殆ど家を出たがらない女なのだから。自分のことはすべて後回し、何をおいても妹をかまいたがる。今度の縁談は父の一方的な命令で決められてしまったが、妹をさしおいて自分だけが結婚するわけにはいかない、とばかりに今頃、方々から釣書を目を血走らせて眺めているに違いない。
誰が、これ以上あの女の言いなりになど。
円雅(まるが)は布団に口許を押し当てたまま、小悪魔めいたひとり笑いを浮かべた。姉の知らない秘密を持つのは心地好い。彼女のささやかな溜飲(りゅういん)の下げ方なのだ。
遠くの部屋で柱時計が鈍く五時を知らせた。それを機に彼女は上半身を起こそうとして引き止められた。
「もう帰るのか」
男の、背から巻きついた腕は強靱で円雅は少しも身じろぎできない。もの慣れた手つきで獣のような姿勢をさせられそうになると、折角鎮まった身体の奥の火がまたも熱を持ち始める。多分、人より敏感な体質は、やはり血、なのだろうか。
円雅は理性をかき集めて男を拒絶した。
「夕食までに戻らなけりゃ姉さんがうるさいのよ」
耳の線でぷつりと切り揃えられた髪も、その姉へのささやかな反抗である。円雅はようやく男――――天城俊也(あまぎとしや)の手から逃れ、手早く襦袢の前をかき合わせた。
「また姉さんか」
天城はため息を共に呟くと、枕元の煙草に火を点けた。煙を吐きながら、陶然と女の身支度を眺める。そして四年前、初めてこの女と寝た時の記憶をひもといてみる。
まだ清らかな矢絣に袴すがたの女学生だった。
大粒の涙を散らしてこの湿気た下宿に飛び込んでくるなり、抱いてくれと縋ってきたのには面食らったものだ。
仕事上、彼女の家には頻繁に出入りするものの、その申し出は唐突すぎた。動機が愛でないことは明白だった。
あの時も例の異母姉との間に何かがあったことは想像に難くない。まるで何かを忘れ去りたいかのように、挑みかかるかのように処女を捨てたものだ。
(結局、姉さん、姉さんか。憎んでいるのか執着しているのか、俺はとんだとばっちりを受けているわけだな)
天城はすっかり成熟した円雅の身体の線を目で愉しみながら、苦笑いする。この肢体をここまで女らしくさせたのが自分であると思うと、まんざら悪い気はしない。だが、ふたりの関係は恋人同士であるとか情人であるとかでは、断じてない。
女性関係の派手な天城の下宿には、清潔とも趣味が良いともお世辞にも言えぬ部屋であるにも関わらず、思い出したように円雅が訪れても、必ずどこかに女の匂いが残っている。
鉢合わせしたことも何度かあるが、その度に相手が違う。女給風の女であったりどこかの名家の令嬢風であったり、人妻のようであったり。だが、円雅はただの一度も嫉妬を感じたことがない。
元々、愛ゆえの関係ではないことはお互い百も承知だ。しかし彼との関係が一番長続きしているのは自分であることを、円雅は薄々知っている。
自分が焦燥を抑えきれなくなる度、何も言わずに羽根を広げて束の間の安らぎを与えてくれる彼に感謝もしている。しかし、その返礼に身辺の世話を焼こうとか、彼の新聞記者だかジャーナリストだかの仕事の域に踏み込もうという気は、さらさらに無い。ましてや怪我や病気で彼が寝込んだとしても看病に駆けつけるなどと、それこそは彼が抱えている複数の女たちの役目であって、自分は一切関与するつもりもない。いや、それどころかもし、天城か自分がこの世から消えてもふたりの関係はそれっきり涙のひと粒とて弔いのために流されることもなく、過去へと埋没していくに違いない。
しかし、それでいいのだ。いっとき、情熱をぶつけあい求め合う間柄であれば、それ以上の何も望まない。望めば、いつか裏切られる。傷つくことは目に見えている。いったいいつからこのような殺伐とした考えを持つようになってしまったのか。
円雅は乙女時代から愛の存在など否定してきたように思う。
女学校の同級生たちが、やれあの高校生がどうの、どこそこの書生さんがどうのと、かまびすしく騒ぎたてるのさえ、妙に白けて聞いていたものだ。天城に処女を捧げてからは尚更である。
「どうした」
円雅の帯締めを結ぶ手が止まった。
「天城さん、人を愛したことがおありになる」
「何だね、唐突に」天城は頬杖を止めて手枕に変え、君らしくもない、感傷的じゃないか。来週早々から日本にいない。めそめそしていても会えないから知らないぞ」
「どちらにいらっしゃるの」
「上海だ。ほら、時岡男爵のサロンでいつも顔を合わせる考古学の出羽教授の一行が、支邦西域の墳墓を発掘に学術調査に赴いていただろう。何か、大きな収穫があったらしくてその取材に行くのだ」
「そういえば、そんなことをお聞きしたわ」
円雅は格別関心が無さそうな答えを返した。支邦西域の墳墓など、距離と時空を隔てすぎていてぴんと来ない。
「教授の助手の白水永渡(しらみずながと)くんが迎えに来てくれる手筈になっている。彼が支邦語に堪能で助かったよ、まったく。でなけりゃ支邦の取材なんぞお手上げだ」
(白水――――?)
その名を聞かされても円雅はすぐにその顔を思い浮かべることができなかった。東洋考古学の権威、出羽教授とは、父である人形作家、大津路洋一郎が風流人で知られる時岡男爵のサロンで頻繁に出会うことから懇意にしている。仕事で出入りする天城とも父を通してそのサロンで知り合ったのである。
(ああ、あの人)
記憶の隅から突き出したものの、白水なる男の印象は依然として薄い。
サロンで度々顔を合わせていながら、口を聞いたこともなければ視線を合わせたこともない。
常に師匠である出羽教授の背中に影のようにつき従い、淡々と言いつけられたことをこなしているようではあるが、特にサロンで目立つ発言をしているのを聞いたことも周りの人間と歓談にうち興じているのも目にしたことがない。容貌も、特に変わってはいない。いつもこざっぱりとした服装で、髪も適度に整えられており、一向身の周りのことにかまわぬ天城の方がよほどだらしない。
ただ、白水には勢いが無い。目に輝きが無い。
自ら運命を切り開き、夢を追い、叶えようという意気込みがまるで感じられないのだ。よく言えば従順にして鷹揚、悪く言えば無気力。
(あの、覇気の欠片も無い人ね)
嘲りに似たものが円雅の胸中を掠めた。
しかし、それだけだった。次の瞬間には円雅の思いは別のところに飛んでいる。
「来週から、私もしばらく来れません。―――姉の結納がありますから」
最後に真珠の帯留めをして枕辺に座った女の顔を、天城は急いで見返した。
「波流子さんが結納だって。本当かい、それは」
「はい」
「意外だな。彼女はてっきり生涯を君と父上に捧げるものと思い込んでいたのに。で、お相手は」
「時岡男爵様のお薦めで、さる旧家のご次男とか。婿養子に来られるんです」
円雅の表情が翳りを帯びるのを天城は見た。
姉の波流子が婿養子を迎える。つまり、円雅が家を出ぬかぎり姉の監視下から逃れられぬということである。
(あの女(ひと)は一生、私を支配するつもりなのだ)
「私、自活しようかしら」
ぽつりと洩らしてみる。思いつきで言った言葉ではない。幼い頃からがむしゃらにピアノにうちこんできたのも、その力を身につけるためでなくてなんであったろう。
橙色の障子を睨む目つきが凄味を増した。こういう円雅の貌(かお)を見慣れているものの、天城はただごとではない何かを感じ取った。そういえば今日の彼女は狂おしいまでに燃え盛ったではないか。天城の孤独を滅ぼしかねないほどの熱で―――。
「天城さん」
天城が声をかけようとした時、いきなり円雅は覆い被さってきた。天城は煙草を宙に浮かせようともがきながら、鬼火のような女の目を間近に見た。
「お願いがあるの」
押し殺した声は、有無を言わせない響きである。
「姉さんを陵辱して。滅茶苦茶にしてやって」
脇を流れるどぶ川に沿って、地面の勾配の上にくねくねと蛇のように仄暗い通路が洞穴のように続いている。天城の下宿はそんな風変わりな平屋造りで、部屋は十数戸もあるだろうか。玄関の、唯一往来の空気が吸える部屋は大家が陣取っている。
帰りがけ、円雅はいつもこの大家の部屋に沿って古びた鏡台を借り、髪を整える。天城の部屋に一枚も鏡が無いせいもあるが、
「今日の逢瀬はいやに念入りでしたねえ」
こめかみに膏薬を貼り付けた小太りの大家に好色そうな視線を送られながら鏡の前に座っているのは、彼女に口止め料を握らせるためでもある。
通りに出ると、辺りはすでに薄闇が立ちこめている。空気はまだまだ冷たく、びろうどのショールを喉元へ寄せて、歩みも知らず知らず早まる。街灯が背後から順に灯り、追い抜かしていった。
「あ…」
この春、初めての沈丁花の香りである。この濃密な匂いに、円雅はたまらなく女を感じる。幼い頃、自分を置いて家を出たという母を。継子の波流子に辛くあたられ、泣く泣く大津路の家を去ったという母を、である。
もう人の顔も見分けるのさえ難しい闇が迫ってきているというのに、往来の路上に店を店を広げている物売りがある。ハンチングを被った髭だらけの物売りは、こ汚いゴザの上に葛籠(つづら)を下ろして闇の中でも仄かに白く見える大小の壜を等間隔に並べ、人が通る通らないにかかわらず呪文のように売り文句を唱えている。
「さあさ、お嬢さん、お姉さん。この化粧水を朝晩つけてごらんなさい。色黒でお悩みの人はもちろん、白い肌に磨きをかけたい人にももってこいの化粧水!ますます輝くような真珠の肌になれること間違いなし」
物売りのかざす壜には桜の花の絵が描かれ、いかにも年頃の娘の好みそうな品である。
(真珠の肌―――)
ふと足を止める円雅には、それは耳に慣れすぎた言葉である。
――――真珠。
人形作家である大津路洋一郎はこの数十年来、真珠というものに思い入れている。そのきっかけは、円雅には知る由もないが、彼の創る人形には必ず、主に義眼の代わりに真珠が使われている。首飾りを着けているものもあれば、一粒だけ掌に乗せているもの、また葉の上の雫に見立てて人形に持たせているものもあり、実に様々な作風で真珠を取り入れている。それでも彼の情熱は衰えを見せるどころか、近年、養殖真珠が開発されると、ますます拍車がかけられたようでもある。自身の娘ふたり――――長女の波流子が英語のパールに因んだ名、次女の円雅がギリシャ語で真珠を意味するマルガリイテース、又はマルガリイタから取った名であるのからして彼の思いの深さが推し量れよう。
姉の波流子はその名を証明するかのように、輝く白い肌の持ち主である。三十路に届くようになってもその輝きは衰えるどころかますます艶を持って光沢を放ち、識者たちのサロンでも噂にのぼることもしばしばである。
極、一部の者しか知らないが、彼女は箪笥の引き出しの奥に生まれた時に口に含んでいたという真珠を仕舞っている。
円雅も二、三度しか見せてもらったことはないが、曙色の完璧な真円真珠は父の洋一郎が海の奇跡と絶賛するほどに素晴らしいものだ。しかし、彼がいくら頭を下げても、波流子は創作人形にそれを使うことを許さないのだった。
一方、円雅の方は、真珠から取った名前を名乗るのがおこがましいほどの色黒だった。しかし、そんな劣等感などものの数ではない。心の底に巣食う、波流子に対するわだかまりのどす黒さに比べれば。
円雅は物売りの声に背を向け、夕闇の中を歩き始めた。
円雅の母、緋紗(ひさ)は、父の洋一郎が遊郭から落籍させた娼妓だった。
波流子の母が病死した後、後添えに迎えられたのである。当時七、八歳だった波流子はこの新しい母に懐こうとせず、子どもと思えぬ頑迷さで継母を拒絶し続けた。旧家の出であった亡き母の誇り高さを、そのまま受け継いでいたのである。
父の作品が世に認められず、家計は火の車であっても彼女は小さいながら精一杯に世間に対して見栄を保ち続けようとした。そのためには、遊郭から父が買ってきたこの下賎な女は目の上の瘤でしかなかったのだ。無論、亡き母が立った台所や調度にその女の手が触れることにも耐えられなかったに違いない。
波流子が十歳になった時、円雅が生まれた。それを境に、波流子の緋紗への辛い仕打ちは苛烈さを増したという。たかが十歳の小娘の仕打ちに大人の女が負けたのは、緋紗が背負っていた過去を引け目に感じていたからに外ならない。その上、夫の洋一郎は創作に没頭すると家庭の中のことなどまったく顧みない、奔放な芸術家だった。
三年も経った頃には緋紗はついに辛抱しきれず、円雅を置いて家を出ることになる。
まるで揉め事を起こるのを唯一の生き甲斐のようにしている、口さがない古参のばあやからすべてを告げられた時、円雅は女学生だった。母は死んだと聞かされていた円雅には衝撃は大きかった。三歳から波流子の支配下で育った彼女は、姉の自己満足的な過干渉に疲れ、爆発寸前に陥っていたのである。
発作的に時岡男爵のサロンで知り合った若い新聞記者、天城俊也の元へ疾った。
波流子が無垢と信じて疑わない自分の身体をめちゃめちゃにしてしまいたかった。また、まだ男を知らぬに違いない波流子を追い越し、優位に立ちたかった。そんなことで優位に立てると思い込んでいた稚拙な少女を、天城は後腐れ無し、という条件で受け入れてくれた。
士族の出自という噂の彼であるが、血や家のしがらみとはいっさい遠ざかっていて、それは他人へかける情けにおいても同様だった。どんなに交渉を持つ女が沢山あっても、彼は誰ひとりとして愛してはいなかった。自暴自棄な円雅にとって処女を捧げるには好都合な男だった。
その後も、波流子は自分の思う通りの道を異母妹に歩ませようとした。
二言めには、「あなたのためを思えばこそ」「亡くなったお母様に申し訳がない」「私の人生はあなたのためにあるのよ」。
そう言いながら姉の瞳の底に見え隠れする冷ややかな光。
ああ、あれは遊郭にいた女の娘を嘲った眼だったのだ。腑に落ちると共に思春期の胸は血飛沫いた。だが、いざとなると気の弱い円雅は面と向かって反発できない。昔からそうだ。嘘だと思いつつ、「あなたのためを思えばこそ」という言葉に弱いのだ。事実、姉の背中に隠れて成長してきた自分には逆らう勇気が無い。心のどこかで姉を頼りに生きているのである。思えば、そういう脆弱な心の円雅をつくりだすことが姉の狙いだったのだ。保護という名の檻に閉じ込め、妹をがんじがらめにしてゆく。それは姉の一生をかけた長い長い計画である。
真っ平だった。
何とかして両手両足に着けられた枷(かせ)を外したい。
これは決死の反乱だった。なんとか攻勢に転じなければ、母のように負けてしまう。
そして―――――今日の、天城への依頼である。
(そんなに驚くことないでしょ。あなたが本当に欲しいのは私じゃなくて姉さんなんでしょ。姉さんに接近したくて父と私に話しかけてきたんだわ)
(……)
(迷うことはないわ。姉さんはもうすぐ人のものになってしまうのよ。その前に機会をつくってあげると言ってるの。今夜―――そう、今夜なら、父はいつものように芸者を連れて熱海へ行ってしまったから心配ないわ。父のところへ来たふりをして上がってちょうだい。姉はきっと客間へ通すでしょう。そうしたら、ばあやは私がうまく使いに出すわ)
沈丁花の甘く蒸れた香りがまといついてくる。
生垣を曲り、自宅の仄明るい玄関を目にした時、円雅は自分の醜い感情に眩暈を感じた。ともかくも天城は首を縦に振った。もう後戻りはできないのだ。
屋敷をぐるりと囲む背の高い木々が風にざわつき、その土色の壁におどろおどろしい影を踊らせる。立ち止まって大きく息をつき、門に手をかけた時である。大きな黒い影が飛び出してきて、円雅にいきなりぶつかってきた。
「失礼」
通りの街灯が照らして反射した眼の鋭さに、円雅は度肝を抜かれた。良くない計画を胸に抱いている後ろめたさのせいか、鼓動が爆発しそうに打ち始める。見覚えのある男の横顔はあっという間に往来へ走り去った。確かに見覚えがあったが、あの鋼(はがね)のような冷たい眼と落ち着きはらった声が誰なのか、思い当たらない。
ともかくも乱れた呼吸を整えて庭に入り、玄関の扉を開けようとした時、血相を変えたばあやが倒れかかるように円雅の腕の中へすがりついてきた。
「どうしたの」
「ああ、円雅さん」
ばあやはすがりついた相手が円雅であることも上の空なほど動転している。この歳になれば何も怖くないと、日頃豪語している彼女とはとても思えない狼狽ぶりである。
「波流子さんが、波流子さんが」
後は皺深い手で屋敷の中を指すばかりである。円雅は嫌な予感を感じた。ばあやを玄関に置いたまま、半分開いていた客間へ走りこむ。
まず、目に飛び込んできたのは床に倒れた波流子の袷(あわせ)の裾から露に出ている、輝くような腿(もも)。帯も半分以上解かれ、氾濫した家具やティーカップの間に蛇のようにのたうっている。長い黒髪も乱れ、絨毯に反面うつ伏した顔は苦渋に満ちて、意識が無い。
まさしく、この部屋で何が起きたか出来事をすべてが物語っている。
円雅の歯がかちかちと音を立てた。すぐには波流子に歩み寄ることも出来ずに棒立ちになったままである。
「ばあや、これは、これはいったい」
「どうすることもできませんでした、中から鍵を掛けられてしまって、この年寄りの力ではどうすることも。突然、訪ねて見えたのです。波流子さんがお茶をお持ちしてお父様がお留守だと告げられて……そして突然、悲鳴が聞こえたと思ったら」
ばあやの説明はまったく要領を欠いていて、円雅は苛々を抑えかねた。
「だから誰なの、誰が姉さんを」
「白水、そう白水と申されました、玄関で」
(白水――――)
そうだ。見覚えがあると思った、門柱のところでぶつかってきた黒い影。あの横顔、あの眼。確かに白水ではないか。今日も天城の口から出ていた、あの印象の薄い、若い考古学者。おおよそ男らしさとはかけ離れた、主張の無い焦れったい男。
しかしあの男にあんな眼ができたのだろうか。あんな整然とした声が発せられたのだろうか。
(失礼)
凛々しいまでに冷ややかで、男らしい挨拶だった。それがまさか、この陵辱の直後に発せられた声であったとは。そもそも、あの白水に女を陵辱する度胸があったとは。
円雅の心にむくむくと腹立たしさが頭をもたげてきた。今夜、姉の真珠の肌を喰らうのは、円雅が依頼した天城のはずだった。あんな昼行灯(ひるあんどん)のような影の薄い男に先を越されたことが、彼女の胸を憤怒で焼いた。
一 沈丁花の章 終わり
二 黄砂の章
滔々と流れる大河の水面を、天城は見つめ続けている。
水の色はその名の通り黄色く濁り、噂に聞いていた巨大な河幅は想像を遥かに上回る。
大陸に来るのは初めてではなかったが、こんなに奥深くまで足を伸ばすのは初めてである。汽船とは名ばかりのおんぼろ船をやっと見つけて乗り込んだまではいいが、案内なしに果たして西安まで行き着けるのか不安である。しかし、今はこのくたびれた船に身を任せて、ひたすら河を遡るしか方法は無い。
彼はワイシャツの襟をくつろげ、変わり映えのしない水面から視線を離して岸へ向けた。
河面すれすえに見える岸が、かろうじてこれが海ではなく河なのだと教えてくれる。頻繁に河面を行き来する筏(いかだ)や小舟は長閑(のどか)を絵に描いたように、彼の視線を滑っていく。ここは何千年もの昔から時が止まった国なのだ。
上海で落ち合うはずの出羽教授一行は現れず、迎えの白水にも会えなかった。
途方にくれた天城の元へ伝言が届く。
出羽教授から、直接西安まで来るようにとの内容だった。西域奥地の探検行で何やら大収穫があったらしいことを嗅ぎつけて、取材を申し込んだ天城だったが、上海にまで長々と船に揺られて東シナ海を渡ってきてやっと上陸したばかりだというのに、また幾千里も旅をしなければなたないのかと思うと、正直うんざりした。仕方なく陸路開封まで行き、そこから再び大河を西へ遡(さかのぼ)ることにする。
いったい、何があったというのだろう。出羽教授の一行はとっくに昔の上海入りして日本に帰朝準備をしていてよい時期だったというのに、いまだに探検の出発地点、西安に滞在しているという。
東京や上海の喧騒が恋しかった。彼は根っからの都会人なのだ。雑踏、人力の音、物売りの声、鉄道の響き、白粉の香、三味線の音。
唐突に円雅の眼を思い出した。あの、いつも思いつめた苦しげな眼。
(姉さんを陵辱して)
面食らった。内容よりも、姉妹が同じことを言い出したことに。
(姉さんの真珠の肌を欲しいのでしょ)
ああ、と頷いてはみせたが、そんなつもりは毛頭無い天城だ。今さらその必要もない。
とっくにその味を、自分は知っている。深く、味わい尽くしている。露とも知らぬ、妹の依頼であった。妹は、姉がかつてそれとそっくり同じ依頼を自分にしたことをまったく知らない。
(妹を玩(もてあそ)んでちょうだい)
今となっては果たして玩んでいると言えるかどうか。円雅は自らこの胸に落ちてきた以来、空虚な心を埋めあう者同志として、あの娘との関係は続いてきた。
あの姉妹の底知れぬ冥(くら)く深い確執の中心に巻き込まれてしまった自分を、天城は感じて背筋の寒くなる思いがした。性質(たち)が悪いのは、あの姉妹が天城に惚れているのではなく、彼を自分のための道具としてしか見ていないことだ。ぞっこん惚れられて芸妓に追っかけ廻される方が、まだましだ。この度の支邦行きは渡りに舟だった。
(潮時かもしれんな)
今度東京に帰っても、円雅とは二度と逢うまい。下宿も引っ越そう。
そう心に決めようとしているのに、妙に未練がましいものを彼は感じてもいる。過去、どんな女――――波流子にさえ感じなかった痼(しこり)を円雅という娘を彼の内部に植え付けてしまったようだ。何千里と隔たった異国の地にいてさえ、その痼の熱い疼きがどくどくと脈打って彼に迫る。
こんな時は仕事に集中するに限る。天城は目指す西安に思いを馳せようと、胸ポケットから煙草を取り出してくわえた。ちょうどその時、相棒の冬木がデッキをこちらへ歩いてくるのが見えた。
出羽教授探検隊の収穫はいかなるものだったのだろう。
今にも朽ち果てそうな煉瓦作りの洋館である。
大方、明治初期の建築だろう。鬱蒼と繁った庭木と、しとしとと降る春の雨がいっそう陰湿な雰囲気を醸し出している。
門にかろうじて判読できる表札には「白水」とだけ記されている。
白水永渡(しらみず ながと)。
円雅はその名を胸の内で呟いてみた。彼女の計画をぶち壊し、横取りした男である。生じた結果は同じでも、自分の胸算用を番狂わせさせられた、それも、こともあろうにあんな軟弱そうな男に深く誇りを傷つけられている。自分が姉の波流子に劣らず気位の高い女であることを、被害者意識ばかりに囚われている円雅は気づいていない。
それにしても、こんな屋敷に人が住んでいるのだろうか。
雨雲が垂れ込めていて、まるで夕方のようだというのに明かりのひとつも点いていない。留守なのだろうか。白水はひとり暮らしだと聞いている。
鉄の門は難なく開いた。早春だというのに去年の秋からの落ち葉がうず高く庭に積もり、長い間、手入れされていないことはすぐに判る。これも煉瓦造りの階段を上がったところに巨大な木製の扉があり、円雅はできるだけ静かに蛇の目をたたむと、そっと扉を叩いてみた。待つ間に足元を見やると、草履も足袋も雨でぐっしょり濡れて冷えきっている。
応えは無い。仕方なしにもう一度蛇の目を開き、中庭らしき木戸があるところへ廻ってみたが、伸び放題の庭木が袂や帯にまとわりつき、思うように進めない。おまけに泥濘(ぬかるみ)に足をとられる。傘を放り出して茂みを掻き分けていこうかしら、と思った時である。
背後から突然、男の声がした。
「何かご用ですか」
にわかに激しくなった雨足の向こうに男が立っていた。藍の紬に兵児帯、蛇の目をさして空いた方の手には虎猫を抱いている。そして、白い雨の矢をくぐり抜けて、射こんでくる視線は銀色であった。
白水だ。先日の宵、自宅の門前でぶつかってきたあの眼だ。
「あ、あの…」
不意をつかれて円雅は舌をもつれさせた。
「やあ、ひどく降ってきた。ともかく中へ、どうぞ。ちょっと煙草を切らせたもので空けていたのです」
彼の背中についていったが玄関でどうしても上がろうとせぬ円雅に、白水はこの上なく紳士的にお茶を白水はこの上なく紳士的にお茶を進めた。
「震えていらっしゃるじゃありませんか。さ、どうぞ。ちょうど支邦から買ってきた美味しいお茶がある」
この温和な顔からは、到底、先日人の家に押し入って女を陵辱したとは想像もつかない。
出鼻をくじかれた円雅はともかくも客間に上がった。しかし、何度勧められても椅子にだけは腰掛けない。いざという時、逃げ出すために扉の近くに立ったままにしている。
それにしても、我ながら大胆な訪問をしたものである。たったひとりで凌辱者の住まいに出向くとは、虎の檻に飛び込んだようなものである。しかし、先日の一件を問いたださなければ気がすまず、頭に血が昇った勢いでここまで来てしまった。
円雅の今にも破裂しそうな胸の内をよそに、男は至極、優雅に香り高い湯気を立ちのぼらせた茶器を運んできた。趣味の高い、チャイナ陶器である。
この広い客間にも東洋の品々はふんだんに飾られていた。流麗な線の、ひと目で東洋的と判るチェストの上に置かれているのは、馬頭琴というものだろうか、それに、純白の地に黒い斑点の毛足の長い猛獣の、ガラス玉の目を爛々(らんらん)と光らせ、赤い口腔をくわりと開けて威嚇している剥製。凝った織物の壁掛けの上には、見慣れぬ装身具。じゃらじゃらとした細かい細工は胡族の娘の額や胸元を飾るものなのだろうか。
中でも一番目を釘付けにされたのは、奥の壁に大きく飾られた油絵である。それは、砂漠の情景であった。鮮やかな風紋が落ちゆく日輪の光線を受け、陰影濃く存在している。生き物のように一瞬たりと静止していない砂の表情を、その絵は見事に捉えている。まざまざと思い出すことが出来る。あの夢の時の、息苦しい懐かしさを覚え、また自分の夢を眼前にあらわにされたような気恥ずかしさを感じ、円雅は身を竦ませた。
茶器の触れ合う涼やかな音が彼女を我に返らせた。
「古ぼけた家でしょう。家人が死んでしまって僕ひとりになってしまってから、よけいに黴臭くなってしまった」白水の落ち着きはらった顔が言った。「あの絵がお気に入りられましたか、大津路さん?」
不意に名前を呼ばれた円雅はそれを契機に口を開いた。
「支邦に行かれていたのではなかったのですか」
「十日ばかり前に帰朝したところです」
再度、椅子を勧めても動かぬ相手に諦めた白水は、ゴブラン織りの長椅子に身を沈めた。すかさず床にいた虎猫がその膝に飛び乗り、短く啼いて甘える。その喉を撫でる男の、紬の肩の線がとても逞しいことに円雅は気づいた。今まで口を聞いたこともなかったが、白水という男はこんなに体格が良かったろうか。こんなにもの慣れた話し方をし、こんなに物怖じしない視線を投げてくる男だったのだろうか。
「よく降りますね」彼は紫色にけぶる窓の外に目を移し、ため息をついた。「数週間前まであの絵のような砂の世界にいたとは信じられない。本当に、なんという渇ききった土地だったのだろう。生き物の影といえば、僕たちが乗っていったラクダをおいて殆どいない。一日中、びょうびょうと渇いた風が吹きすさび、人間はラクダの影でじりじりとした痛いような日光をやり過ごす。飲料水は何日も保たず腐り、そうなればラクダの乳で次のオアシスまで永らえるしか手は無い。夜は夜でかたちばかりのテントの中で、絶えず耳の底を離れない風の音を枕に、浅い眠りにつく。ゴビの砂漠を越え、トルファン盆地を過ぎ、彷徨える湖ロプノールをも過ぎて、タクラマカンの東の端にまで足を伸ばしました。荒涼とした砂ばかりの世界に狼煙台(のろしだい)や城壁らしきものを発見すると、そこが何千年、何百年も昔に主を失っていると解かってはいても、人間の気配を感じてほっとします。同時に涙が溢れてくる。あんなに渇いた世界でまだ流す涙が残っていたのかと、仲間で笑いあったものですが――――」
すっかり追憶に浸っていた彼に引きずり込まれ、自分もあの砂漠の絵の世界に入ってしまっていた円雅は彼の言葉が途切れた時に気持ちを奮い立たせた。今日は彼の支邦行きの土産話を聞きに来たわけではないのだ。
「白水さん」
「はい」
彼は真面目な顔で向き直った。
「姉はあれ以来、部屋に引きこもって出てこようとしません。そればかりか、整いかけていた結納を取りやめてほしいと言い出しました。父は激怒しています。無理ありませんわ。姉も私もこの前のことを喋っていないんですもの」
「ほう」
白水はのんびりと愛猫を撫で続けている。円雅の胸から熱い塊が競りあがってきた。
「ほう、って、白水さん。よくもそんな他人事のように。あなたのせいよ。あなたのせいで姉の縁談が壊れようとしているんですよ」
「望むところです。元々そうしようと思ってしたことですから」
あまりのふてぶてしさに、円雅は眩暈を感じた。
「よくも、いけしゃあしゃあとそんなことを。私たちが警察に訴えればあなたはすぐにも刑務所行きなのよ」
「できるものならば」
「なんですって」
「波流子さんがそんなことは許さないでしょう」
「汚辱にまみれることは耐えられないと?」
「いや、そうではなく。彼女は僕を刑務所へ送ったりなどしないはずだ」
この得体の知れぬ自信はどこから来るのだろう。
「いったいあなたは、どういうつもりで姉をあんな目に」
「波流子さんをたったひとりの女(ひと)と見定めたからです」
男の返答に淀みは無い。「多少、性急な行為に走ってしまったが波流子さんも僕を愛し始めたはずだ。縁談はご破算、そして僕が波流子さんをいただきに、先生にお願いにあがります。これで万事めでたしでしょう。あなたもお姉さんの幸せを喜んでさしあげなさい」
「自惚れも――――」
ほどほどにして下さい、という言葉があまりの憤怒で出てこない。
「どうしたのです、あなただって、お姉さんが顔も知らぬ人の妻になるのはお気の毒と思うでしょう。その点、僕ならあなたがた姉妹を存じ上げている。何より、さっきも申し上げたようにお姉さんは僕を慕い始めているのです。今の世で、好いた者同士が結ばれるのは稀有の幸せと思わねばなりませんよ。お姉さんに、幸せになってほしいと思うでしょう」
男の言葉がじりじりと円雅の心を焼いた。
姉をこのまま、平穏な結婚生活につかせてたまるものか。母を追い出し、自分をも操り人形のようにがんじがらめにしておいて、姉だけがのうのうと人の奥方の座に着こうなどと、虫が良すぎるのではないか。そうはさせない。その執念が、結納前に天城に依頼させたのである。
それを、この目の前の男はぶち壊した。天城の代わりと思ってしまえばそれでもよかったが、姉への行為は一夜限りの凌辱ではなく将来の責任を踏まえたものだという。彼の言うように、もし姉が彼を憎からず思っているなら、姉には先の縁談よりさらに幸せな結婚生活が待っていることになるではないか。円雅の目論見がどんどん遠ざかる。
「では、先日の夜のことは強姦ではなく、合意の末のこととおっしゃるの」
震える声で、円雅は言った。
白水はお茶をひとくち啜り、やわらかい湯気に頬をなぶらせた。
「今度の支邦西域探検で偉大な発見がありました」
強引な話の引き戻しに、円雅は狼狽した。
「新しい墳墓の発見です。出羽教授の念願が叶ったわけです。多数の埋葬品とミイラを五体、持ち帰ることができました。楼蘭王国よりさらに古い時代のものと推定されました。私たち助手も踊りあがって喜び、それまでの旅の辛さも吹き飛んでしまいました。しかし―――死者の眠りを妨げた祟りでしょうか、帰りの旅は行きよりもさらに苛酷なものでした。現地の案内人が熱射病で倒れてしまい、我々は道を誤りオアシスから大きく逸れて地獄の強行をしなければならなかったのです。来る日も来る日も、渇きとの戦い。荷物も大半は捨て、ラクダも二頭屠りました。そんな苦しい旅の最中、決まって希望を与えてくれるのは、波流子さんの面影でした。変ですね、サロンでたまにお会いしても、口もきいたことさえなかったのに、何故か恋しくて、慕わしくてたまらない。生きて日本へ帰りつくことが出来たならきっと、あの真珠の肌をこの腕に抱こう。そして、誰にも渡さない。その執念だけで僕は命を永らえた、そしてここへ帰ってきたのです」
眩暈がまた、円雅を襲った。
この男は本気でこのようなことを言っているのだろうか。純真さであれ、相手を欺くためであれ、この男の無遠慮な科白(せりふ)は遠慮なく円雅の神経を逆撫でる。
「お茶がすっかり冷めてしまった。淹れなおしましょう」
「いえ―――」
円雅は誇りにかけて拒絶した。
「私、もう失礼します。今おしゃったこと、丸ごと信じたわけではありません。私たちを丸め込もうとなすっても無駄ですわ。あなたが姉に許されぬ行為をしたことは紛れもない事実なんですから」
「なんだかあなたのおっしゃりようだと、僕に責任を取ってほしくなさそうに聞こえますが」
男は鋭い顔の輪郭をやや緩めて、苦笑いした。
「円雅さん、でしたね。あなたは姉妹でも波流子さんとはまるで違うんですね」
「私たちの何を御存知?」
客間のドアを出ながら、円雅は背後の男を精一杯睨みつけた。男の向こう側に、例の油絵が控えていた。仄暗い室内でも、それは灼熱の砂漠に埋もれる死者の怨念を燃え立たせるように、鮮やかな血の残照に照り映えている。先ほど、あんなに砂漠の話を聞いたせいだ。円雅は逃げるように視線を外した。
外からは、まだしめやかな雨の音が響いている。
円雅が熱い緑茶を持って部屋に入ると、波流子は寝床に起き上がったまま窓を開け放って雨上がりの湿った空気を忍び入るがままにさせていた。
無造作にまとめ上げた髪は艶めかしくほつれ、うなじの白さが白絹の寝巻きと競い合い輝くばかりだ。視線が胸元に及んだ時、円雅はどきりとした。赤紫の生々しい痣(あざ)。
それはあの宵、白水が残していったものである。普段は決してだらしない恰好などはしない波流子だが、あの宵以来まるで魂がふやけてしまったように、今もこうして妹の前で胸元がはだけていても気にする様子も無い。しかし、不思議なことにその面にはやつれもなく、むしろ満たされて幸福感に酔っているかのようである。
「気分はいかが」
あの宵、訪れていたのがもし、自分の計画通り天城だったとしたら、こうして様子を窺いにお茶など淹れてきた自分はなんという偽善者なのであろうか。などと思いながら、円雅は姉に湯呑みを渡す。彼女は血の気の無い唇でひと口飲んだ。
「ああ、美味しいこと。ありがとう、まあちゃん」
お茶一杯に大仰に礼を言うのは以前と変わらない。
「姉さん、本当に時岡男爵様からのご縁談、お断りになるの」
円雅は窓を閉めてから寝台の脇に腰掛け、おずおずと尋ねる。姉は静かに頷いた。
どうして。姉さんも乗り気だったじゃないの。この前のことなんか忘れてしまえばなんともないじゃないの」
縁談を阻もうとしたのは、誰あろう、円雅だ。心にもない説得をしている自分が空々しい。しかし、このまま白水が姉を略奪するというのはもっと釈然としない。いや、許せない。あのふてぶてしいまでに自信に満ちた男の言った通りに事を運ばせることはできない。
「私はもう他人のものになるなんて考えられないのよ、まあちゃん」波流子は吐息と共に洩らした。「そりゃあ突然だったわ。お父様を訪ねてこられたにせよ、客間にお通ししてせめてお茶をと思っただけなの。まんざらまったく知らぬお方ではなかったし。そしたらあの方、私がお茶をお出しした手をいきなり掴んで引き寄せ乱暴に抱きしめて。もう苦しくて後は何が何やら判らなくなってしまった。あの方、いつの間に鍵をかけたのか、ばあやが外から扉を叩く音だけは続いていたわ。気がついたらあなたが帰っていて、あの方はもうどこにもいなかった。嵐、いえ竜巻のように一瞬の出来事だった。でも」
姉が何度も「あの方」と呼ぶのが円雅の勘にさわったが、かろうじて耐えた。
「あの時を境に私はあの方だけのものになってしまった」
姉は吐息で追想を締めくくると、また惚けたように窓外に視線を漂わせる。
彼女が強姦された男に魂まで汚されたことは明白だった。今まで真珠の肌の噂を聞きつけ両の手に余るほど押し寄せた縁談を、まだ幼い円雅のためだという理由で退けてきた彼女を落とした相手が凌辱者であったとは。
「あんな、年中土いじりばかりしている地味な人のどこが気に入ったの、姉さん。それも人の家に押し入ってとんでもないことをしでかすような」
「まあちゃん」波流子は真摯な眼を妹に注いだ。「あの方の眼をよく見たことがあって?」
「―――いいえ?」
嘘だ。本当はあの眼に恐れを感じている自分を認めるのが怖い円雅である。地味な人など、とんでもない。あの青い視線の底にはただならぬ情熱が煮え滾っている。姉もあの眼に気づき、そして惹きつけられたのだろうか。
「私も今まで言葉さえ交わしたことがなく気づかなかったのだけれど…。あの人の眼は私を蹂躙しながら目先の欲望になんか囚われていなかった。もっと、遥か遠く、遥か昔……うまく言えないけれど、あの眼が私の心を捉えてしまったんだわ」
姉と妹の間に息詰まる沈黙が横たわった。
「お父様が何と言われるかしら」
やがて椅子を立ちながら、円雅は意地悪く言った。
「お父様は?」
「アトリエに籠もられたままよ。かんかんだわ、婚約を今になってお断りするなんて」
部屋を出ようと扉を開けたところに、ばあやが腰をかがめたいつもの恰好で立っていた。
手にした盆の上にはブランデーが底に注がれたボヘミアン・グラスがひとつ、その中にひと粒の真珠が琥珀色の液体に沈んでいる。
「旦那様からです」
ばあやがいつもの無愛想な声で姉に告げるのを背中に聞きながら、円雅は姉の部屋を後にした。顎の線で切り揃えた髪をぶんぶんと振って大きく息をつく。
あの、真珠入りのボヘミアングラスの意味を知るようになったのは、いつの頃からだろうか。
あれが姉の元へ届けられる夜、彼女は決まって中庭を隔てた別棟にある、父のアトリエに向かう。数年前までは通いの三人の弟子が帰った後など、波流子は頻繁に父からの召しを受け、夜通しアトリエで過ごすことも多かったようだ。
円雅でなくとも父、洋一郎の作品のモデルが波流子であることは、広く周りの人間が知るところである。
父の創り出す人形の数々はすべて、波流子の面差しを乗せ、彼女の真珠の肌の色艶を持っている。それは貴婦人像であれ、村娘であれ、人魚であれ、妖精であれ、常に変わることがない。洋一郎は自らの作品の理想を波流子に見、一歩でも彼女の生まれ持つ刺々しくも妖しい美しさに近づけるべく、創作を続けてきた。
波流子が今まで結婚しなかったのは、彼女自身が円雅のためにと縁談を拒否してきたせいばかりではなく、洋一郎が創作意欲の根源である娘を手放したくなかったため、とも言える。
しかし、三十路に近づいた波流子の容貌が洋一郎の求めるものと食い違ってきた最近では、ボヘミアングラスの召しはとんと途絶えていた。今度の時岡男爵からの縁談を洋一郎が受けさせたのも彼女の年齢と容貌に見切りをつけたからに外ならない。
まだほんの少女だった頃、中庭の向こうのアトリエの灯火がいつまでも消えないのに惹かれて、円雅は棕櫚(しゅろ)の葉陰から覗いたことがある。創作中特有の、刃物の上を渡るような表情の父が一心不乱にデッサンをしている。そしてその前では、全裸の肌を惜し気もなく晒した波流子が髪の毛一筋も動かすまいと、父に言われた通りの姿勢で静止している。まだ若かった波流子は円雅の子供心にも鮮烈な美しさを焼きつけた。真珠の肌との噂通り、輝くばかりの若い張り。
薔薇露―――――。
何かの物語に出てきたその言葉が円雅の心に湧き上がってきた。まさに薔薇の光沢なのである。
父が娘の肌と像(かたち)に創作の理想像を見るのも無理からぬことだと円雅は思った。そして肌の美しさにもまして姉の視線が日頃、妹を絡めとろうとする時のねっとりと纏いつくようなものとは、まるで違っていることに茫然とする。それは幼い、ものの数ではない妹など、一歩も近づけない毅然とした視線である。
今夜、姉は久しぶりにあの視線で父の前に肌を晒すのだろうか。あの中庭の向こうのアトリエ、創りかけの人形たちが無言で眺める只中で。石膏と布切れと、真珠の散乱した大津路洋一郎の世界で。
今宵の波流子の真珠の肌には穢された刻印が残されている。
二 黄砂の章 終わり
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三 含玉(がんぎょく)の章
鎧(よろい)のような城壁は明代に再現されたものとはいえ、重き歴史を察するに充分である。
街のほぼ中央に位置する鐘楼から伸びる広大な大路も、空気までもが祖国の寄木細工の繊細さとは次元が違うことを、古都、西安はまざまざとふたりの日本人に見せつけた。
さすがに西域への入り口だけあって、漢民族だけでなく様々な人種がひしめいている。
「それにしても人間が多いですね」
埃っぽい大路の空気を吸いたくなさそうに手拭いを口許にあてたまま、歳若い冬木が洩らすのはもう何度目か。
天城俊也も同感だと思いながら、永寧門(えいねいもん)と呼ばれる南門から城壁の外へ抜け、陽炎(かげろう)の立つ大路を急いでいた。目指す国立博物館が郊外にあると判ったからだ。
青年たちの背広はひっきりなしにもうもうと立つ砂埃のせいですでに黄ばんでいる。途中、農夫の引くロバの荷馬車に乗せてもらうことにする。大の男がふたり、子どものように両足をぶらつかせて座った。
だが、もはや情けないとか体裁を気にするとかいった余裕は無い。案内人無しにここまで辿り着くだけで精根つきそうな困難な道のりだった。宿らしい宿を見つけられず農家の軒先を借りて野宿同然に過ごしたこともあった。しかし、肝心の目的はまだこれからなのだ。
「本当に大丈夫なんですか、天城さん」冬木が細面を近づける。「とっくに社費からはみ出てるんでしょう、上海までのつもりでしたからね。それを編集長の許可無しに西安まで来てしまって」
「心配するな、冬木くん。僕がすべての責任を負うとも。上海まで来て目的を果たせず帰朝していたら、それこそすべてが無駄になっていたじゃないか。何せ我が社だけが嗅ぎつけた学術界のスクープだぜ。取材せずに尻尾巻いて帰るなんてとんでもない」
今回の取材は天城が日頃から出羽教授と面識があるゆえに実現したことでもある。この好機を捨てることはジャーナリストとして、愚の骨頂だった。編集長の指示を仰ぎもせずに西安に向かったことを間違っていないと天城は思う。
しかし、何故だろう。特だねをものにしたいという記者の本能だけが天城を駆り立てたのだろうか、何故かそれだけとは思えない何か、まるでとうから決められていた道筋を辿って目的地へ誘われているような運命的な何かが彼を憑かれた者のように西安へと向かわせているようにも感じられるのである。
「本当に出羽教授は国立博物館で待っていて下さるんでしょうね。これですれ違いだった、なんてことになったら怒りますよ、僕」
「それは僕だって怒るさ」
尚も不安げな後輩に、天城は軽く微笑むと荷馬車の上にごろりと仰向けになった。
大陸の空はなんと底の深い泉だろうか。日本で見る空とは青の濃さが違っている。大陸の奥とははいえ大都市である西安でさえこうなら、いったい出羽教授一行の探検してきた西域はどのような空と空気なのだろう。
何十年と陽の当たらぬ澱んだ空気の建築物がふたりを迎えた。
歴史を刻んだ石造りの床が幾重にも靴音を反響させる。案内の館員がふたりの日本人青年を通した場所は、博物館の本館とは遠く隔たった別館の、さらに奥まった一隅であった。
出羽教授は数名の探検員たちと共にその部屋に滞在していた。
ようやく求める人と出会うことができた天城は、心底安堵し、出羽教授の皺深い手を握りしめた。今年、還暦を迎える出羽教授は白髪が目立つものの、人跡未踏に近い秘境に挑むだけあってかくしゃくたるもので、砂漠焼けした顔面がてらてらと光っている。人の良さそうな目を細めて、祖国からの若い記者を労った。
「すまなかったね、こんなところにまで足をのばさせてしまって。白水を上海へやった後で決定したんだが、どうしてもミイラを日本へ持ち出す許可が下りんのだ。でも、是非、君に今回の収穫を直(じか)に見てもらいたくて白水とここへ来てもらうよう、追って連絡したというわけだ」
「は?」天城は話の食い違いに気がついた。「白水くんとは会っていませんが」
「なんだって。会っていない?」
「約束の場所に現われませんでした。仕方なく後輩の冬木とふたりで黄河を遡ってきたというわけです」
「白水が上海に行ってない?どうしたというのだろう」
老教授はしばし顎髭に手をやって考えこんだ。愛弟子の安否を気遣ってその小さな眼が暗く彷徨う。
「事故になど遭っていなければいいが…」
一同の中に動揺は隠しきれなかったが、ともあれ教授は天城たちを別室に案内した。はるばる海を越え、大河を何百キロも遡ってきた青年たちの労をねぎらうには、今回の西域探検で得た収穫を包み隠さず披露するのが最良の方法と教授は思ったようだ。
そこは何千年分かのすえた臭いが籠もっていた。
窓からの強烈な陽射しを遮ったカーテンのおかげで室内は仄かな裸電球の光だけが支配している。床には夥しい数の出土品がところ狭しと丁寧に分類されて並べられていた。そしてその床の中央には設えられた台が五台。その上に乾燥した藁の断片を寄せ集めたような朽ち果てた物体、かつて柩であったものが安置されている。
「天城さん」
小声で引き止めた冬木が情けなそうな視線を背後から送る。できればミイラなど拝みたくないとその目は訴えている。何をここまで来て根性の無い奴、と言わんばかりに天城は後輩の肩をつかむと、強引に前に押しやった。
実は天城自身、職務とはいえミイラなるものを目の当たりにするのはあまり気乗りのすることではなかったが、好奇心が勝った。そして得体の知れぬ、自分はここで何年も前から古代の死者と体面する定めだったのだ、という確信に導かれて。
「考古学史上、今世紀最大級の発見となるでしょう」
出羽教授の言葉が機械的に耳を素通りした。
台の上の物体に視線を落とした瞬間、天城の意識から一切の俗世間、西安の喧噪、ここで何年も前から遥かな船旅などが遠い存在となった。
ミイラは眠っていた。
自らが掘り起こされ墓所からはるばると何百キロも運ばれてきたことなど気づきもせず、ひたすら安らかな眠りの中にあった。彼らは全部で五体。四体は男、一体は女。
埋葬品の豪華さ、墳墓の規模からおそらく支配者級の貴人であろうと教授は言う。推定で五千年前の亡骸ということだった。
五千年。
天城は吸い寄せられるように女のミイラを見やった。
ミイラとは、もっと干からびてコオロギのような色艶のおぞましいものだと思ってきたが、彼女はまるで違っていた。
身体こそ隈なく布で巻かれて直に見ることはできないが、顔は生前の面影を彷彿とさせるほどに瑞々しい。閉じられた薄い瞼を開けばおそらく青い眼球が見られるかと思うほど、若しくは今にも喉が膨らみ息を吹き返すのではないかと思うほど、彼女は死んでいることを忘れているかのようなのである。
頭部に被ったフェルトの帽子からはみ出ている金の髪さえふさふさとして、生前はまだ歳若かったことを物語っている。そして何より、その放つ雰囲気は清廉なのである。
いったいどういう人種なのだろう。どういう身分でどのような生い立ちでどのような境遇で生き、どのような人生を辿ったのだろう。もとより知る術は無いが、天城は思いを馳せずにいられなかった。
そうさせるほど、このミイラは生々しく、そしてそれでいてやはり死の権化であった。五千年という途方もなく長い時間が彼女をひとりの人間から、単なるオブジェへと変貌させていた。
「どうしたんです、天城さん、見惚れてしまったんですか」冬木が肩越しにからかった。「いくら女殺しの天城さんでもミイラに欲情したりはしないでしょうね」
「逆なら致し方ないがね」天城も応酬した。「これほどの色男が対面したんだ、五千年の眠りから醒めても不思議はないが」
「嫌だなあ、気味が悪いこと言わないでくださいよ」
冬木はぶるっと身体を震わせると、女のミイラから離れ他の四体のミイラの方へ行ってしまった。
女のミイラに視線を戻した天城の胸中に、不意に円雅の面影が去来した。ミイラとはあまりにも対照的な溌剌と動く円雅を無性に恋しく思った。
考えてみれば、五千年前、このミイラもまたそうであったのだろう。そして喜びも知れば哀しみも味わい、恋に生き、悩み、人を憎みもしたのだろう。だが、今の彼女は幾星霜も沈黙して、語るはずもない。
我々の生命ある時間は限られているのだ。解かりきったことが今さらながら天城の心を震撼させる。だからこそ、円雅への愛おしさがこみ上げてくるのだ。不思議なことに、彼の数あまたの愛人の中で、青い小娘である円雅だけがしきりに思い出される。
(黄河を遡る船の上で決心したはずが……)
天城がひとり苦笑を洩らした時である。
「おや、これは何ですか、教授」
冬木が男のミイラを覗きこみながら、言った。
室内にわらわらと散っていた一同はそのミイラの柩に歩み寄った。
「おお、気がついたかね」
出羽教授は、さも愉快そうに含み笑いをした。冬木の指し示すミイラの口の中に何か小さな異物が数個あるのが薄く唇の隙間から見える。
「それは含玉(がんぎょく)と言ってね、古代の風習で、死者を埋葬する時、宝珠や真珠、地方によっては米などを含ませたものだ」
教授は説明した。
「これは宝石ですか」
「原型をとどめぬほどに風化しているが、それは真珠の連珠のようだね」
「何故そんな風習が?」
天城が横から尋ねた。
「まじないというべきか、古代人の願望だ。真珠には死者の肉体を滅ぼさない霊力があると信じられていた節があるから、もし復活の時を迎えた時のために死者の肉体を残しておきたいという願いを込めてこのようなことが行われたのだろう」
「へええ」
冬木は人懐こい大きな瞳を見開いて感じ入ったようである。
「大抵は連珠を含んでいるんだが」教授は背後の女のミイラを振り返り、「あの女性のミイラの含玉はたったひとつ、さぞ元は大きかったと思われる真珠だ。今は形も色も朽ちてしまっているが、古代の文献に出てくる薔薇露の真珠とのつながりがあるかもしれない―――――見てみるかね」
「ええ、是非」
ミイラを見るのさえ嫌がっていた冬木の態度の変わりように、天城は呆れながら彼らの後に続いて女のミイラの柩へと戻った。
教授の助手がピンセットを持ってきて彼女の口の中に差し入れ、注意深く探った。少しの落ち度も許されぬ繊細な作業である。天城たちは辛抱強く待った。が――――、
「教授、真珠がありません」
「そんなはずはない。安置した時、確かにあったのだから。もう一度探してみなさい」
助手はさらに念入りに探ったが、結果は同じだった。教授の声色が変わりつつあった。
「馬鹿な。いったい、どうして……。ここへは今日まで我々とほんのひと握りの博物館員しか出入りしていない。外部の人間を入れるのは今が初めてなのだが」
「出土してから旅の間は、白水が衛兵のように守ってましたしね」
助手が言い添えた。
(白水が衛兵のように守って――――)
天城の耳朶にその言葉が何故か居座り、なかなか去ろうとしなかった。
大津路洋一郎は肘掛け椅子にだらしなく身を投げ出して窓外の葉桜に目をやった。
季節は急ぎ足でやってきて桜も盛りを過ぎ、麗らかな春の陽気が続いている。しかし、季節に反して彼の胸中は暗く濁っていた。
理由は長女の波流子である。
いったいどうしたというのか、一度は承諾した縁談を断ってくれと言い出し、結納を延期せざるを得なかった。厳しく諌めようが、腹を割って話そうと持ちかけようが、気分を変えて久しぶりにデッサンのモデルを頼んでみようが、娘の態度は変化が無い。父親には背いたことのない娘にいったいどういう変化が起こったのか。
すべてはひと月ほど前、彼が芸者を伴って小旅行をした時を境に狂ってきたような気がする。自分の留守中に何かがあったとでもいうのだろうか。それとなく、円雅やばあやに探りを入れてみても彼女らは顔を強張らせて貝のように口を閉ざしたままである。いっそのこと、世間の父親のように本人に有無を言わさず強行に嫁がせるべきか。
じりじりとした焦慮に焼かれて、洋一郎は火酒のグラスを一気にあおった。
酒の不味さの原因はもうひとつある。
ここ数年来、会心の作に恵まれないのだ。なるほど、人形作家、大津路洋一郎と言えばその世界では今や第一人者とまで言われ、彼の作品を手に入れることは稀有の果報者とされている。
華族も実業家も政界の人間さえ、まるで自身の勲章のようにこぞって彼の創る人形を手に入れたがった。真珠を施した彼の人形の数々は実際、名誉欲のためばかりではなく、美意識の発達した人間にとっては垂涎の的だったのである。
しかし、最近は彼自身満足のできる作品を生み出せないままに時を送っていた。低迷期に入ると彼は酒と女に溺れ、放蕩を繰り返す。若い頃からの悪癖であった。近頃はふたりの弟子さえ嫌悪して足が遠のくほどなのである。
なんとか真珠を人形に取り入れ、一世一代の作品を生み出したいというのが、彼の熱望であった。
しかし、思い通りにならない今は、アトリエは冷たい空気が満ちている。彼の創った人形たちさえ空々しい視線を主人に投げかけているようなのである。
洋一郎はもう一度酒をあおって飲み干し、乱暴にグラスを作業台の上に置いた。
ドアが鳴った。ばあや特有の、小刻みな叩き方である。人形たちがいっせいに振り向きかねないほどの唐突さだった。
「何だ」
洋一郎が面倒そうに答えると、ばあやが恐る恐る薄く開いたドアの隙間から視線を差し入れて主人の顔色を窺った。
「お客様でございます」
彼女の老いた目は何故か脅えている。
「誰だ」
「白水さまとおっしゃるお方です」
「白水――――」酒臭いしゃっくりをひとつしてから、洋一郎は視線を彷徨わせた。「知らんぞ」
「出羽教授の助手の方ですわ」
そう言いながら、ばあやの背後から声をかけたのは円雅である。
「おお、そうか、出羽先生の。何か先生から言伝だろうか。ばあや、聞いておいてくれ」
「それが、旦那様に直接お伝えしたいと申されまして」
ばあやは消え入りそうな声で言った。
洋一郎は舌打ちして酔いの回った身体を起こし、立ち上がった。至極ゆっくりと客間へ向かう背後に円雅とばあやが続く。
円雅の表情は蒼く強張っていた。ついに彼―――白水永渡が自らの予告通り訪ねてきたのである。おそらく洋一郎に波流子との結婚を承諾させる腹づもりに違いない。初めに父親の目を盗んで娘を我が物とし、後で余裕たっぷりに結婚を申し込みに来るとは、なんと図太い神経なのだろう。円雅はむらむらと腹立ちを感じ、この場を見届けなければならないと意気込んでいた。
「客間ではありませんで、お玄関でございます」
「なに」
客間に向かいかけた洋一郎は、ばあやを振り返った。
「どうしても上がろうとなさいませんので」
主人にいつどやされるかと脅えながら老女は言い訳をした。
チューリップ型の装飾燈がぶら下がる大理石造りのエントランスに、白水はさっぱりとした背広姿で待ち受けていた。やはり先日、円雅が直接訪問した時の自信に満ちた空気を彼はまとっていた。姿勢は清々しく目の輝き、やや大きめの口の引き締め方から知性と気骨が察せられる。かつて時岡男爵のサロンで見かけていた頃となんという違いであろうか。
洋一郎が眼前に姿を現すと、青年の目は一瞬、その後ろの円雅に流れた。が、次の瞬間、彼は大理石の上に手をついて座り込んでいた。
「先生」
「な、何の真似だね、いきなり」
面喰らった洋一郎は酔いを覚まされたようだ。
「先生、どうか僕を弟子にして下さい」
白水は額をこすりつけんばかりに頭を下げた。茶色がかった前髪が大理石の床に触れた。あまりの突然な願い出に、一同、言葉を失って立ち尽くした。
(お父様の弟子に、ですって)
円雅も混乱した。今日、彼が来たのは波流子との結婚を許してもらうためではなかったのか。
「お許しいただけるまで、帰らぬ覚悟で参りました」
「待ちなさい、白水くん。君は考古学者じゃないか。それも将来を期待され、出羽先生にお世話になっている身ではないか」
洋一郎は慌てて言うのへ、青年はこうべを垂れたまま、
「出羽先生には大変可愛がっていただきましたが、先日お暇をいただきました。考古学には未練はありません。これからは大津路先生に師事し、人形作家を目指したいと思っています」
「突然そんなことを言われても、君」
「アトリエの掃除でも使い走りでも結構です、先生の弟子にして下さい」
円雅は彼の決死の願いが嘘ではないことを感じ取った。そして同時に、言葉は父に対してこの上なく慇懃であるにもかかわらず、この場の成り行き全部を自分が把握しているぞとでもいうような余裕をも、彼の態度の裏から察していた。
白水永渡という男が、よけい解からなくなった。
開け放たれたままの玄関から、桜の花びらが夥しく吹き込んできた。土下座した白水の頭髪や背中にも可憐な薄紅色の花びらが降りかかる。
その時、背後の階段が激しく音をたてたと思うと、猫のような俊敏さで一同の間をすりぬけ、白水の傍らに素袷の膝を折った者がある。波流子だった。
玄関先に手をつくと毅然とした視線を父親に向けた。
「お父様。どうかこの方の願いを聞いてさしあげて下さい」
洋一郎はじめ円雅、ばあやも言葉を失くして彼女のおもてを見つめた。このところ彼女を支配していた気だるい倦怠の空気は消し飛び、運命の瀬戸際に立った迫真の女が見えるばかりだ。
「波流子、お前の口出しすることではない」
「いいえ、波流子の一生のお願いです」
「なに」
ちらと彼女を見やった白水の目の動きが、父親に何かを悟らせた。たちまち洋一郎の顔面が冥い怒気を乗せた。怒りはどす黒く膨れ上がり、破裂寸前にまで迫った。
「真珠を――――」
白水の唐突なひと言がその場を沈静させた。
「先生は真珠を取り入れた作品を極められようとなされておられるとか」
洋一郎の怒りの溶岩流はすんでのところで堰き止められた。
「それがどうしたというのだ」
「これまで先生の数々の作品を拝見させていただきました。あちこちに効果的に散りばめられた真珠、またたったひとつの真珠が先生の作られた人形の顔立ちと溶け合い、引き立てあって素晴らしい作品となっています。それでも先生はご満足なされず精進なさっておられるとか。非常におのれの力量を顧みぬ大言壮語ではありますが、私の目標もまたそれであります。いつの日か、自分の創作した人形に完璧に真珠を施してみたいと」
「なに」
「私も先生の弟子とさせていただいた上、その道を極めたいと切望しております」
「真珠を―――――と?」
「そうです」
洋一郎は改めて青年のおもてをしげしげと眺めた。怒りの焔は燻っているものの、すでに盛り返す勢いを失くしている。
「真珠」のひと言が父親の心を動かしたことを、円雅は見てとった。
四 あざれの章
「帝都ホテルといえば、この田舎町から二時間以上もかかるじゃありませんか。リサイタルだったら宵に決まっているし、それが終わってすぐに失礼できるはずもなし。やれお祝賀だ、ご挨拶だなんぞと言っていたらじきに十時をまわってしまいます。それからの電車なんかに乗っていたら、こっちのステンショに着くのは零時を過ぎましょう。ステンショから家までたっぷり二十分はかかるし、途中、物騒な雑木林も通ってこなくちゃならない。とても年頃の娘ひとりに歩かせられやしません。まったく早川先生も、いくら記念のリサイタルとはいえ、弟子の都合ってものを考えてほしいじゃありませんか」
今日は円雅の師匠筋にあたるピアニストのリサイタルが催される。帰宅時間が遅くなりすぎるという理由から、波流子はなかなか円雅を外出させてくれなかった。
白水が弟子として家に通うようになってから、波流子は傍目にも甲斐甲斐しく彼の身の周りの世話を焼いて、下にも置かぬ扱いである。
父の洋一郎の目を盗んでは、波流子の部屋や裏庭の木陰などで、ふたりが愛欲の炎に身を投じているのを、同じ屋根の下にいる円雅はとっくに気づいている。それは円雅にとって非常に癪にさわる、耐え難い屈辱をもたらせた。波流子の白水への、まるで彼なしには生きてゆけぬと言わんばかりの執着、それを当然のように丸ごと受けとめて憚らぬ白水の態度。
自分たちの仲睦まじさを見せつけて悦んでいるかのように円雅には思えるのである。そして白水に対して細やかになればなるほど、波流子は何故か妹に対して以前にも増して厳格な態度をとるようになった。
円雅は帝都ホテルのロビーからガラス越しに、庭に絢爛と咲き誇るあざれの群れに目をやった。鮮やかな紅やローズ色、白までもが清楚なものではなく、はっきりと自己を主張して初夏の陽射しを浴びている。
出がけに通ってきた自宅の庭にも、あざれが満開であった。
波流子が丹精込めて咲かせたものである。あざれに限らず、波流子は植物の世話が好きである。梅や桃は言うに及ばず、沈丁花、木蓮、桜、連翹(れんぎょう)、雪柳、藤、菖蒲、百日紅、百合、朝顔、金木犀など数え上げればきりが無い。
家事や裁縫、父の世話の合間に、せっせとそれらを世話している姿を、円雅は幼い頃から見てきた。
彼女が何故植木が好きなのか、円雅は解かる気がする。
彼らは世話してくれた人間を、決して裏切らない。手をかければかけただけの花を咲かせ、恩人を喜ばせる。彼らには人間のような反抗期も悩みもありはしない。水や肥料が欲しければひたすら恩人を待ち、病になれば看護の手を待って頼りきっているばかりだ。
(私は庭の鉢植えではないわ)
円雅は今日の自分の出で立ちを見下ろした。
師匠を祝うための、総絞りの大振袖に西陣織の帯は派手なふくら雀に結んだ正装である。師匠が全曲目を弾き終わった後、花束を渡す大役を仰せつかっているのだ。
正直、そんな晴れやかな場に出席したい気分ではない。円雅は小さくため息をついた。
「あら、大津路先生」
澄んだ声に振り向くと、円雅の教える小さな生徒と母親であった。母親はきらびやかな笑顔で、
「今日はまた一段とお美しいですこと。いっそ、先生の演奏もお聞きしたいですわね」
「いえ、私など早川先生の足元にも及びませんわ。則子ちゃん、今日はご苦労様。早川先生のピアノ、よおく聴いてお勉強して帰ってね」
まだ小学校に上がりたてな年頃の少女はかしこまっておかっぱ頭をこくりとさせた。
「まだお時間もあることですし、あちらのらうんじでコオヒイでもいかがです」
母親に促されてロビーを突っ切って行こうとした円雅に、ひとりのホテルマンが近づいてきた。
「大津路様でいらっしゃいますね。ご伝言でございます」
観葉植物の陰で渡された紙片を開くと、慣れたペン使いで、
<三○○五室 A.>
とだけある。それだけで円雅には充分だった。
フロントや二階への紅い絨毯の上に目を走らせたが、それらしき姿は無い。彼が逢いたがっていると判ればここには用は無い。考える必要などなかった。
急いで生徒の親子にいとまを告げ、ロビーを足早に抜け階段を掛け上がる。親子の訝しげな視線が背中に重いがそんなことに構っている余裕は無かった。ひらつく袖ももどかしく、息せききって三階へ上がり、部屋を探す。
重厚な木目の扉を細かく叩くと、ほどなく開けられ、天城のつり上がった眼が覗いた。円雅は素早く身体を内側へすべりこませ、後ろで扉の閉まる音がすると同時にうなじをすくい上げられ激しい接吻を受けていた。
求めるのは常に円雅の方であったのに、今日は違っていた。天城がこれほど貪欲に円雅を求めるのは初めてのことだった。円雅は驚きながら、自分もまたこの二ヶ月ほどの彼の留守のあいだにこれほどの癒しを求めていたことに驚く。
艶やかな袖が男の背中で重なり、狂おしく乱舞する。白い腕をあらわにして円雅は男のこうべを抱きしめた。
いつもの煙草に匂い、インクの匂いに混じって異国の匂いがした。恋人でもない男にこうまで耽溺する理由を自分でも解かっている。無性に逃げ出したくてたまらないのだ。姉の手の内にある籠の中から、あの白水永渡の鋭い視線の監視をもくぐり抜け、自由なる大空へ飛び立ちたくてたまらないのだ。その籠の鍵を渡してくれるのが、天城であるような気がしてならなかった。彼の接吻を味わいながら、もう円雅は窓の外に燃えるように咲き誇るあざれさえ官能の色にしか見えない。
鋭い衣擦れの音がし、帯を解かれた。
窓の外、ようやく遅い黄昏が紅いあざれの群れを紫に染め変えていく。
「何かここで催しでもあったのか」
ひんやりする絹の感触の中で満たされ、呼吸を整えた時、背後から天城の声がした。
窓の外はすっかり暮れなずんでしまっており、都会の夜のざわめきが這い登ってきそうな時間になっている。もう、師匠のリサイタルはとっくに終わっているだろう。天城からメッセージを受け取るなり我を忘れてこの部屋へ来てしまった。花束を渡す代役には誰かが立ったことだろう。もうどうでもよかった。これがもとで厄介な噂が立ち、師匠から破門を言い渡され、生徒を失うことになってももうどうでもいい。
円雅は返事をする代わりに背の天城をくるりと振り返り、睨みつけた。
「何故来なかったの、約束したのに」
「何の話だ。一週間前、上陸して今日、東京入りしたばかりで自分の下宿にさえまだ戻ってないんだぞ」
「しらばっくれても駄目」
円雅は天城の高い鼻をつまんだ。
「意気地なし。やっぱり度胸がなくなったんでしょう。あなたがぐずぐずしていたから姉さんはあの夜、別の人のものになってしまったわ」
「なに――――?」
少なからず驚いた天城に、円雅はすべてを語った。姉が凌辱されたこと。それが誰あろう、白水氏の所業であったこと。そして白水が、今では父の大津路洋一郎の弟子として家に出入りしていること。波流子はすっかり白水に心まで奪われていること。
「白水くんが――――?」
天城の驚愕の色はみるみる間に深くなり、ついにはいたたまれぬように寝台の上に上半身を起こした。
「私、あの人の眼が嫌い。いずれ姉さんに結婚を申し込むだなんて誠実そうなことを言っておいて何を考えてるいるんだか、知れたものじゃないわ。あの人の眼はなんだか途方もなく遠くを見ている。凍りつくほど遠い時間の彼方のようなものを」
それは波流子が円雅に語った、彼の眼の印象と同じ言葉だった。
「それに―――あの人が来るようになってから、姉さんはますます厳しくなった。外出の度に念入りに帰宅時間や行き先を聞いたり、出稽古にまでばあやを供にさせようなんて言い出すのよ。いっそ、あなたなんか大嫌い、妹とは思わないと言われた方がどれほど楽かしら。あの女の支配欲は愛情をという偽装をまとっているから始末に負えない。何でもあなたのため、あなたのため。本当は今、心の中には白水永渡のことしかないくせに、あくまで私を自由にしないつもりなんだわ」
天城はホテルのクリーム色の壁を睨んで考えこんでいた。
「ねえ、聞いてるの」
「妙な話だな。それが本当に白水くんだとすれば、俺が上海で懸命に彼を待ち続けていた時、すでに東京へ帰ってきていたことになる。それも、出羽教授には無断で先に」
「あの人、出羽教授にはお暇をいただいて考古学者への道は捨て、これからは人形作家を目指すのだって、父を説き伏せたのよ。もちろん、姉を凌辱したことなどおクビにも出さないで」
「出羽教授は何もご存じない。五体のミイラと共に西域から帰ると、ほどなく教授の命令に乗じて上海へ発ち、そのまま帰国したに違いない」
「ミイラですって」
嫌悪感を伴った円雅の声が天城を彼女の上に引き戻した。まじまじと見つめる天城の目はかつてないほど慈愛に満ちていた。
「そう――――ミイラだ。西域の遺跡から発掘されたというミイラに会ってきた」
言いながら天城は再び円雅を抱き寄せた。
なんという不思議な邂逅だったことだろう。天城は古都、西安で見た西域で発掘されたというミイラに思いを馳せた。現世のいっさいの煩悩から解き放たれたかのような、あのミイラも、五千年前にはこの娘のように悩み多き日々を送っていたのだろう。
「そんなにぎらついた目をするな、円雅。君の生きがいは何だ」
「私の生きがい?そんなもの、まず姉さんの手から逃れなければ考えられもしないわ。自由になることは目的じゃない、まず基本条件なのよ。その上でなければ生きがいなんて……」
瞳が潤み、唇は咬みしめられた。親から意にそまぬ結婚を押しつけられても泣く泣く嫁ぐのが一般的な昨今、この娘の願いはわがまま以外のなんでもない。しかしこの奔放さの波に敢えて、天城は呑まれてみようという気になった。
「わかった。君はあくまで波流子さんの手から自由になりたいのだな。どうしても波流子さんの影を取り除きたいのだな。どうしても波流子さんの影を取り除きたいのだな」
円雅はためらいなく頷いた。
「ええ。私は姉さんの鉢植えではないの。彼女の足元で枯れてしまいたくないの」
「じゃあ、今度こそ俺が根こそぎさらっていってやろうじゃないか」
今まで円雅の態度にいっさい口出ししなかった彼の言葉とも思えない。
「支邦で何かあったの、天城さん」
娘の敏感さはすぐに彼の変化を嗅ぎつけた。
「何も。だが、ひょっとするとミイラがとり憑いたのかもしれんぞ」
「嫌な天城さん、ふざけないで」
円雅は馴染んだ男の胸をやんわりと押し戻した。
その手がまたしても、熱い抱擁に巻き込まれていく。今宵の天城は確かに今までの冷めた彼ではなかった。達してはまたしても、またしても、円雅を放さず一夜、自分の育てた花園を愛でながら、彷徨い続けた。円雅にとっても彼の荒々しい彷徨は水よりも生気を得られる糧に違いなかった。
その激しさに身を任せながら、円雅は闇の中から、あざれが亡者の群れのように沈黙してこちらを見ているような気がしていた。それは生有る者への嫉妬を孕んだ視線であった。
白い額から汗が滴り落ちた。
粘土を捏ねる手元にそれが混じろうが、一向に気づきもせず、白水はもう何時間も一心不乱にその作業を続けている。人形の型を取るための塑像を作る粘土を捏ねているのである。
夜明けのアトリエには彼の姿しかない。もっとも師の大津路洋一郎は京都で開かれる個展のため、ふたりの弟子を連れて出かけており、留守を守るのは彼だけなのである。師や兄弟子から言われた雑用はとうに片づけてしまい、彼は何やら独り言を呟きながら一晩中、粘土と格闘している。
深夜、波流子が運んできた夜食にもついに箸がつけられた気配はない。ただ、その時には粘土だらけの手で彼女を抱いた。
師のアトリエであろうが、昼間の居間であろうが、ふたりきりになれば必ずと言っていいほど白水は波流子を求めた。
波流子は白水の視線にさらされると、まるで朝になれば鮮やかに開く睡蓮のように彼に惹きつけられ、彼を受け入れる。常日頃の、行儀作法に一糸乱れぬ彼女を知る者が見れば、目を瞠るだろう。白水の腕の中にいる彼女はまるで別人である。
だが――――、彼女を恍惚に追いやる白水の眼は醒めている。彼をつき動かすのは単なる欲望ではない。もっと深く、冥く、思い詰めて凝り固まり、長い歴史を引きずった執念なのである。うっとりと愛撫に酔う波流子にはそれが見えているのかどうか―――。
そうして、彼はまた粘土を捏ねる。
白い額から汗が滴る。濁った汗がこめかみを、頬を辿り唇へと流れ込む。いかにも知性的なその唇が、今は狂おしく吐息混じりにしきりに言葉を洩らす。何やら聞き取り難い呟きを、まるで粘土に煉りこんでいくかのように、
――――マルガリイタ……。
幾度も幾度も青年の口からその言葉は洩れる。
どれほどの時が過ぎたのか…。白水がようやく顔を上げた時、窓の外の棕櫚の葉は明け方の菫色の空気の中で息を顰めていた。腕で額の汗を拭い、大きく息をつく。手元の粘土の塊はただ、それでしかない。まだ遠い工程を思って、白水のそれを見下ろす視線はやや疲労を浮かべた。
彼の耳に、唐突に女の高い声が届いた。アトリエとは真向かいの母家の方からである。
そういえば、昨日の夕方から外出した円雅がまだ帰らないと、深夜、波流子が苛々とした眼でこぼしていた。苛々などさせたくはないというのに。
白水は舌打ちするとアトリエを出て、中庭を渡る廊下を通って母家に向かった。母家に入ると言い争う声はさらに迫った。
居間に入った彼の前で、ふたりの女が睨みあっていた。
波流子は昨夜から着替えていない素袷のまま、円雅は昨日、出かけた時の振袖姿のままである。
「どれほど……」波流子の昂ぶった声が沈黙を破った。「どれほど心配したと思うの、あなたって人は。あんまり遅いものだからホテルへ電話してみたら、早川先生の方から円雅さんはどうされたんですか、と尋ね返されたわ。さ、お言いなさい。いったい何処でどうしていたの」
「言わなければいけないの」
円雅は手提げ巾着をぶらつかせたまま唇を尖らせた。
「当たり前じゃないの」
「卒倒しても知らないから」くるりと後ろを向いてみせた。「この帯、結んでくださったの、どなただか姉さんに判る?」
ふくら雀に見事に結ばれた西陣織の帯は昨日の結び方とはっきり異なっている。妹の言いたいことがつかめずに呆然と見入る波流子に、円雅が大きく息を吸い込んでから言い放った。
「天城さんよ。帝都日報の天城さん」
「………」
波流子の唇の端が痙攣した。
「そういうこと。私はもう姉さんのお人形さんじゃないの。大人の女なのよ」
「まあちゃん!あなたのどこが大人なの、私がいないと何もできないねんねじゃないの」
「できるわ、自分で物事を選んだり、自活だって。何にもできないだなんて、姉さんがそう思い込んでるだけよ。その方が自分に都合がいいからだわ」
円雅の、澱のように淀み積もった恨みがこの朝、爆発した。こんな勇気が湧いたのは、朝帰りを叱られた反発もさることながら、昨夜、天城が味方になることを約束してくれた心強さも手伝ったからに相違ない。暗黙のうちにタブーになっていた言葉さえ飛び出す。
「私は自分の意志で生きていきたいの。妹だからって、娼妓上がりの後妻が産んだ娘だからって、どうして何から何まで姉さんに服従しなけりゃならないの」
「まあちゃん、私がいつ服従なんてさせたというの。いつもいつもあなたのためを思い、女学校だってあなたが行きたいところに決めて、ピアノだって存分させてあげてきたわ。いずれはあなたに相応しい立派な旦那様を決めてあげようと、それが母親代わりの私の努めだと思っていたのに、それなのに、穢れの無い身体をあんな無頼の人に」
波流子の全身が憤怒に震えて後は言葉が詰まった。
円雅は、つと身を翻して断髪を振りさばき、大きく息をついた。そして戸口に棒立ち青年を蔑みの視線でちらりと見やり、
「ご自分はどうなの、姉さん」
姉の急所を刺し貫いた。
「整いかけた縁談をお断りになって、ご自分を凌辱した方と、だなんて」
「まあちゃん……!」
波流子の顔から血の気が退いた。
揉みしぼっていた両手は行き場を失い、頬や喉元、両の腕(かいな)を忙しく彷徨い、かさついた唇は二、三度声無き声を発そうと試みたが失敗し―――そして、ついに瞳がすう、と吸い込まれるように上瞼に消えたと同時に、彼女の身体はくずおれた。間一髪、音もたてずに白水がその背へ廻り込み、支えていた。
いつのまにか痩躯を目立たせた寝巻き姿のまま駆けつけていたばあやに、
「頼みます。静かに寝かせてあげて下さい」
いかにも紳士的に託すと、白水は改めて円雅を振り返った。
刻々と陽射しは漲り、窓の外では初夏の清々しい朝の空気が黄金色に染められつつある。白水永渡の視線は明らかに相手を責めていた。円雅が思わずたじろぐほどの峻烈な迫力を曳いている。
昂ぶりのあまり姉を失神に追いやるとは、この事態に円雅自身、少し言い過ぎたかと怖気づいていたが、この青年の視線に向き合うと反発したくなってしまう。
「あんまり心配をかけてあげないでください、円雅さん」
いかにも訳知りげな物言いも腹立たしい。逆らいたくなる衝動を、しかし、円雅は堪えた。今、胸には密かな思惑があったのだ。
「あなたはいつでも姉さんの味方なのね、白水さん」
「そんなことはありません」
「そりゃそうよね、人の家に押し入ってまで思い通りにした恋人ですものね。あなたの目には姉さんにか映っていないのよ。だからお父様に弟子入りしたんだわ」
円雅は拗ねたように唇を尖らせてみた。演技だった。が、白水はそれには取り合わず、
「円雅さん、大丈夫ですよ。帝都日報の天城さんならあなたのお相手としてとても相応だ。突然聞かされたから波流子さんも気が転倒しただけです。ゆっくり落ち着いて話せばきっと解かってもらえますよ」
「本気でそう思うの?天城さんが私の恋人だって?」
「でも、そうなんでしょう」
「ひどい人ね!」
何故、そしられたか判らず、黙り込んだ白水に、円雅は尚も、
「ひどい人ね。彼は恋人でも何でもない。恋しいなんて一度も感じたことさえないわ。何故、私がそんな人と一夜を過ごしたりすると思うのよ」
言いながら、円雅は白水に一歩ずつ詰め寄っていった。
「あなたに振り向いて欲しいからだわ。いつもいつも、姉さんの方しか見ていないあなたに、ちょっとでも私に関心を持って欲しかったからよ」
徹夜明けの目を驚愕に見開いて、青年はまじまじと断髪の娘を見つめた。
「何故、姉さんなの。私はこんなに若い。いくら姉さんの器量が良くても私の方がずっと若いのよ。なのに何故、あなたは姉さんしか見ないの、最初から」
青年の胸にすがりつかんばかりに頬を近づけ、甘い声を出した。
「――――何を考えているんです」
唐突に青年は反撃に出た。
「あなたの目はこれっぽっちも私を好いたりしちゃいない。鈍感な私にもそれくらいは判ります。ただ波流子さんに張り合って、そんな子どもじみた嘘を言うのならよしなさい。自分が惨めになるだけだ」
さっさと踵を返して居間を出ていこうとする。見送る円雅の唇が悔しさにかみ締められた時、白水は振り返った。
「本当に、あまり波流子さんに心配をかけないで下さい。あの人は今、普通の身体じゃないんですから」
彼が扉の向こうへ消えると、神々しいばかりの朝の陽射しが部屋に満ちた。
(普通の身体じゃない――――?)
耳の手前のひと房の髪がはらりと視界を遮った。急に背の帯や長い袂が重く感じられた。
円雅の虚ろな瞳は朝日に照り返す床の木目に当てられながら、少しも見ているものを意識していない。彼女の意識はたった今、背を向けて立ち去っっていった青年の残像ばかりが浮かび上がっている。
あざれの章 終わり
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五 青蓮の章
障子に映る青い影を、会話が途切れたしばしの間、初老の男女三人は誰からともなく眺めていた。塗りの膳の上に並んだ、いかにも京料理特有の繊細な品々は、今しがた仲居が置いていったばかりのものである。
差し向かいに座に着いた大津路洋一郎と出羽教授は、すでに酌み交わし始めており、鶴を思わせる細長い首の女将が挨拶を済ませたところだった。
清水の界隈とはいっても、産寧坂の露地を数丁も入ってしまえば通りの喧噪は異世界のように遠い。ましてや自慢の広大な庭を持つこの料亭は、翠(みどり)の滴るような若葉の洗礼を多分に受けて静謐(せいひつ)そのものだった。ようやく初夏の長い日が落ち始め、東山にも夕暮れのさやかな風が吹き抜けようとしている。
老人特有の班を浮き上がらせた手で、それでもいかにも玄人(くろうと)らしいそつの無さで、女将はふたりの杯を空かせることなく、まめに酌を繰り返す。
「おふたりさんがお揃いやすとは、玉満(たまみつ)はんもさぞ喜んでおいやすことですやろ」
この世界で長く生きてきたことを立証するかのような、女将の一筋も乱れもない髪や、灰緑の紗の着こなしである。
「あの妓(こ)の命日も忘れんと、よう参ってくれはりました、ほんまに、ほんまに」
女将の目頭にうっすらと熱いものが滲む。
「あれから何年になるかな、女将」
出羽教授が感慨深げな面持ちで尋ねると、洋一郎が代わりに、
「かれこれ三十年ですな。今年こそは墓に参りたいと、以前から個展を京都で開く算段にしていたというわけです」
「私の方は西域探検が長引いてしまい、間に合うかどうか危ういところだったのだが、まさかばったり大津路くんと出くわすとは、あれが死んで後までも君とのえにしは浅からぬわけだな」出羽教授は苦笑してからしみじみと「三十年――――もうそんなに」
「あの頃は先生は京大の研究室に在籍され、私は田舎から出てきた貧しい書生だった。先生はともかく、私なんぞは吉原の娼妓を買ったりできる身分ではなかった。でも、自分の食い扶持を切り詰め、借金をふくらませてでも彼女の元へ通わなければならなかった。何故だかわかりますか」
「私に取られると思ったからでしょう」
出羽教授は余裕のある笑いを見せた。
「そう、その通りです」
「ほんまにあの時分は、昨夜は出羽はんか、と思えば今宵は大津路はん。いつおふたりが鉢合わせしやはらしまへんやろうかと、仲居頭してましたあては気が気やおへんどした」
女将が遠い眼をして、銚子を持つ手を宙に止めた。
「そうそう、覚えてますえ。出羽はんは出羽はんで、大津路くんが買いに来ても玉満に会わせるな、言わはって、あてに無理やり袖の下握らさはりましたし、大津路はんは大津路はんで、出羽はんが来はっても、玉満に相手さすな、言わはって、骨董品みたいな簪(かんざし)やら帯止めやら持ってきはるし、あて、もうどうしたらええのか辟易しましたわ」
「てなこと言いながら、ちゃっかり双方から甘い汁吸ってたことを白状したな、女将」
「いや、えらいこと言うてしもた」
額を叩いた、大仰な仕草に部屋の空気が笑いにどよめいた。彼女の勧めでふたりの男は膳に箸をつけ、味わい始めた。筍や山家めいた季節のものが、さすがは京都の料亭と、今はすっかり地位も名誉も得たふたりの男の舌を満足させる出来栄えの品々に仕立て上げられている。
ひとしきり賛辞を浴びて礼を述べた女将は、しみじみと言った。
「そやけど、あの妓(こ)は果報者どした。身体ぼろぼろになるまで客取らされたり、なんぼ働いても極道の親がついてたりして稼げど稼げど金の無心されて、いつまでも年季の明けへん妓(こ)かてぎょうさんいるのに、そら身売りされてくるからにはいったんは地獄を経てきたにはちがいあらしまへんけど、
出羽はんも大津路はんも、そろうて誠実なお方であの妓の心をほんまに大事にしてくれはって、あの妓が誰の子やわからへん児を身籠って、産後すぐ死んでしもた時かてどちらも引き取って育てたい、いうてくれはって。――――あの時の子はどうしてます、大津路はん」
女将は言葉を洋一郎に顔を向けた。
「玉満そっくりの美人に育ったよ、もう三十路に入ろうという歳だ」
「そうどすか。あの子が生まれた時、独身(ひとり)者の出羽はんは引き取ることかなわんと、書生をしたはった家の娘はんを奥方にもらわはったばっかりの大津路はんが引き取ってくれはりましたけど、あては朝夕、その奥方はんにも両手合わしてましたんどすえ。風の便りに聞くと奥方はんは、ようでけたお人で、なさぬ仲の、それも旦那はんの実の子かどうかわからへん子を継子(ままこ)やいう気ぶりも出さんと育ててくれはったどうやないどすか」
「その細君もとうの昔―――波流子がまだ子どもの頃に亡くなってしまったがな」
大津路の表情も感慨深い。
「大津路くんが後妻に迎えた女性も遊郭にいた女性でね、女将」
出羽教授が口を差しはさんだ。
「そうどしたか。ちっとも知らしまへんどした。東京の吉原どすか」
「諦めの悪いことと笑ってくれて一向にかまわんよ、女将。私は心のどこかで玉満を探していたようなのだ。その後妻もどこかしら玉満に似ていた」
「いやいや大津路くん、円雅さんの母、緋紗さんとてまったにない美しい女性だったが、あの玉満の真珠の肌を持つ女がそうごろごろいるはずもない。いるとしたら、彼女の娘、波流子さんくらいのものだろうね。まったく彼女をモデルにしたと言われる君の人形たちは素晴らしい、の一語に尽きるよ。
出羽教授は絶賛した。
「波流子さんの名付けだって、真珠のパールから取ったものだというじゃないか」
「真珠といえば――――」
洋一郎は箸を置き、出羽教授の皺深い目元を正面から見据えた。
「私は玉満の生んだ子を育てはしましたが、玉満が心底そうしてほしかった人はやはり出羽先生と思えてならんのですよ」
出羽教授と女将は改めて座り直し、洋一郎の話に耳を傾けた。
「玉満の心を捉えていたのは、やはり出羽先生だと、ね。何故ならば、先生があの頃も西域探検に参加されて、支邦土産だといって大粒の真珠の指環を彼女に贈られたことがあったでしょう。あれを彼女は肌身離さず後生大事にしていたのを私はよく覚えている」
「ああ、あの真珠」
女将もセピア色に染まった記憶の奥から思い浮かべたらしく、膝を打って頷いた。
出羽教授は無言だった。酒を満たした盃を宙に浮かせたまま、遠い目をして唇を引き結んでいる。
「彼女が陶人形のように繊細な指に置き、眺めては緋色の襦袢の懐にしまい、また取り出しては甘いため息をついてうっとりと頬を寄せ、光沢を愛でるようにしていたあの様子―――。それが他でもない、今の私の作品の源になっているのです。いやいや、まだまだ表現されきっていない、私にとってそれは、永遠の課題かもしれない」
洋一郎の目の奥に、初老とは、思えぬ情熱のほとばしりが垣間見えた。
「彼女をあそこまで魅惑の境地に追い込んだあの見事な真珠は――――」
「薔薇露の真珠……」
ふと出羽教授の唇がその名を洩らした。
途端、静寂が来た。その名が尾を曳き、皆の耳朶の奥に残った。
一同、茫然と雪洞(ぼんぼり)のようやくそれと判別できる明かりに見入っていたが、ふと外の木々のざわめきに呼び覚まされたように我に返った。女将は突然ぽっかりとやってきた空白を埋めようとするように愛想笑いをしながら、急いで酌を再開する。
「それにしてもあの真珠をあの妓(こ)、あれからどうしましたのやろ。遺品の中にも見当たりまへんどしたし、遺品の中にも見当たりまへんどしたし、国に仕送りしたとも思えまへんし……」
鶴のような細い首を、女将が傾げたその時だった。
障子の外に人の気配がし、ほどなく仲居が小豆色の着物で敷居際に手をつかえた。
「なんえ」
女将に鋭く問われた中年の仲居は、訝しげに座敷の中を見回し、
「あのう、今しがたもうおひとりお客はんがお見えにならしまへんどしたか」
一同、顔を見合わせてから、一拍おいて、
「ああ、きっとそれは白水くんだ」洋一郎が大きな声で言った。「東京のアトリエに忘れ物があって持ってくるよう言っておいたのだ。大方、個展会場で兄弟子から私がここにいると聞いてやってきたのだろう」
「あんた、案内(あない)もせんと何してましたのや」
女将が厳しく叱ると仲居は首をすくめた。
「申し訳あらしまへん。お玄関からお通しする途中、濡れ縁から、あの築山の向こうの離れ座敷どす、言いましたら、あんまり庭の青苔と池の蓮が見事やから、庭を抜けていきたい、案内(あない)は要らんと言わはりましたさかい、これはおひとりで庭をそぞろ歩きでもしたいと思うてはんのやろ、邪魔したらあかん思いまして、あて、下がらしてもらいましたんどす」
「こりゃ庭が広すぎて迷ったかな」
洋一郎は揶揄した。
「ほんまにこの子は、気のきかん。なんぼ案内(あない)は要らん言わはっても、ちゃんと離れへ入らはるまで見届けるのがあんたの仕事入らはるまで見届けるのが、あんたの仕事やないか」
「へえ、すんまへん」
すぐさま探しに行くように命じられた仲居はあたふたと飛んでいく。重ねて女将が詫びを述べた後、
「白水というと、私の元にいたあの白水くんのことかね」
驚く出羽教授に、洋一郎は白水永渡の突然の弟子入りについて話し始めた。
どこかの葉裏で雨蛙がかまびすしく啼き始めた。
あまりにも目に鮮やかな緑が、ほどなく迎える日没の沈殿した光を受けてさらに濃密な世界を現出している。その重さに自身、溶けてしまいそうな危惧さえおぼえながら、天城俊也はあてどなく料亭の庭をぐるぐると巡り続けている。暑気は日中に比べるとずいぶん過ごしやすくなったというのに、もどかしげにネクタイを緩める。
大津路洋一郎の個展を取材するため、先頃帰り着いたばかりの東京からトンボ返りに長く列車に揺られ、先ほど京都に到着したばかりだった。彼が洋一郎の居所を探りあてこうして呼ばれてもいないの料亭にずうずうしくやってきたのは、先日の支邦での取材ですっかり近しくなった出羽教授も同席していると聞いたからである。
耳の底で虫が啼き出した。気の早い夏虫か、それとも彼の焦燥ゆえの幻聴か。
さきほど庭を突っ切って離れの濡れ縁に上がり、部屋の内へ声をかけようとした途端、彼の耳に老人三人の、決して表沙汰にはできない話の内容が飛び込んできてしまったのだった。
それは波流子の出生にまつわることだった。
円雅の母親が娼妓であったことはかねてより知っている。そのことを、彼女がひどく苦にしていること、異母姉の波流子がそれゆえに妹を蔑み、支配しようとしていることも。
が―――――、波流子もまた、遊郭にいた女性の腹から生まれた子であったのである。
その事実もさることながら、それを知ってしまった己が身が、あの確執深いふたりの姉妹の因縁に根強くからみつかれているかのような己が身が、空恐ろしく厭わしく、それでいて彼女らを掌中で転がしているような甘美な思いを娯(たの)しんでいる天城であった。
自分は彼女らの肌を両方、知っている。
姉の波流子とは、彼が時岡男爵の元で書生をしながら大学に通っていた時から長く関係を続けた。元より天城にとっては多数の愛人の中のひとりでしかなく、波流子の方も若い娘にありがちな、脇目もふらず恋人に耽溺する風ではなかった。彼女の目的は恋ではなく妹を支配し、苛むという陰謀を分かち合える男の確保だった。
(痕(あと)を残さないで。お父さまのモデルができなくなるから)
波流子の真珠の肌を天城は思い出す。誇り高い彼女が陰謀のために共謀の代償として与えた、たぐいなき真珠の肌の冷たい甘さを。
そして数年、いまだに彼女の願いを聞き届け得ないままに、今の天城は妹の円雅に逆に翻弄され、加担しようとまでしている。
これは波流子に対する裏切りか。それとも円雅への。
今また、波流子の出自まで知ってしまった上はどういう態度を取るべきなのか。
庭じゅうの若葉、青苔、池の睡蓮が息苦しいほどの精気を彼へ発散させ、圧倒した。
そしてもうひとつ、胸の奥を去らぬ重い言葉を障子越しに聞いてしまった。出羽教授の洩らした、「薔薇露の真珠」という言葉である。
胸の裡(うち)で呟いてみようとした時――――、その言葉はやや背後の木の下闇から唐突に響いてきた。
「薔薇露の真珠……」
天城は振り向いたまま茫然と背後の人物を見やった。
白い襟なしシャツのボタンをきちんと上まで掛けた、同年代の白皙の青年に天城は充分見覚えがある。白水永渡である。
「しばらくでした、天城さん」
白水の積極的な挨拶に、天城は少なからず驚いた。たしか、西域探検に出かける以前の彼は時岡男爵のサロンで顔を合わせても視線を交わそうとせず、ましてや言葉など交えよう雰囲気など毛頭なく、用が終わると逃げるように出羽教授の背中に隠れてさっさと去っていってしまう、相当な社交嫌いの青年という印象しかなかったのだ。
ところが今はどうだ。神経質な細い頬こそはそのままだが、真っ直ぐに相手に繰り出してくる視線は、仕事柄、人慣れしすぎている天城でさえ及ばない熱く確固としたものを持っている。
「ステンショでお見かけしたのですが、見失ってしまいました。どうやら同じ列車で京都入りしたのではありませんか」
「それは失礼、まったく気づかなかったよ」
天城は急ぎ、笑顔を作って答えた。
胸中に、円雅から聞いた白水に関する近況がどっと堰を切って溢れた。この、出羽教授の愛弟子だったおとなしい考古学青年が今は、大津路洋一郎の元にいるという。そして彼もまた、波流子の真珠の肌を知っているのだ。
「この前は僕の方が見失ってしまったよ。上海で」
天城は厭味(いやみ)で探りを入れた。
「上海で。それは申し訳ないありませんでした。思うところこの前の西域探検の途中、出羽先生の元をおいとまする決心をしたもので、先に帰朝してしまったんです」
「話は聞いている。大津路先生に弟子入りしたそうじゃないか。意外な転身ぶりだね」
「円雅さんから聞かれたのですか」
青年の白い額に池の青蓮の色が反射した。
不意をつかれた天城はしばし相手の切れ長の目を見つめた。
「ああ、彼女から聞いたのだ。最近の、一連の出来事を」
挑戦的に言い添えた言葉が果たして白水に通じたかどうか。
やはり、というように白水は目を伏せて小刻みに頷いた。そして言い渋りがちに、
「どうも円雅さんは僕のことが嫌いみたいで、顔を合わせれば険悪になる。困っているんです、波流子さんも彼女には手を焼いている様子で――――」
「………」
「天城さん、円雅さんはあなたの言うことならきくんでしょう。あなたの口から言ってあげて下さいませんか、あまりお姉さんに心配をかけてあげて下さいと」
「彼女が僕の言うことをきく、だって。とんでもない。あのじゃじゃうまが」
天城は苦笑し、煙草を取り出して口の端にくわえた。
「天城さんでも駄目なんですか、それは困ったな」大きくため息をつき、白水は庭石の上に腰を下ろした。「僕は今、波流子さんから目が離すことができない。彼女が少しでも危険なことをしたり心労を募らせたりしたらと思うと気が気でない。京都での用が済んだら一分でも早く東京へ、波流子さんのところへ帰りたいんです。こうしている間にも、円雅さんと言い争いでもして、その身にもしものことがあれば、と思うといてもたってもいられない」
話しているうちに白水は昂ぶりを抑えきれなくなったのか、両手で髪を掻きむしった。それは天城に話しているというよりも、抑えに抑えていた胸の奥の苛立ちを、我慢しきれず吐露したという風だった。天城は面食らった。
「そ、それはまた、えらくご執心だな」
あの真珠の肌はこうもひとりの青年を惹きつけてしまうものなのか。よもや、自分もこのような深い執着の末、醜態をさらけ出してはいまいだろうか。天城は恐れた。
池の上をひやりとした風が渡り始めた。ねぐらに帰る鳥のひと群れが東山の山陰へ吸いこまれてゆく。刻々と目に鮮やかな緑が翳りはじめ、小昏い色に変わりつつある。
「白水くん」庭石にぐったりともたれたままの彼に、天城は声をかけた。「君が波流子さんを思うほどとまではいかないが、僕も円雅が可愛い。あれの願いはただ、波流子さんから自由になりたいだけなんだ」
「そうは思えません。彼女の目の中には波流子さんへの攻撃的な色が潜んでいる」
白水は立ち上がり、天城を正面から凝視めた。「いいですか、あなたがたがどんなに波流子さんを憎んでいても、僕はあの女(ひと)を守る。あの女(ひと)に芥子粒ほどでも危害を加えたりしたら、僕はあなたと円雅さんを許しません」
「……」
天城の唇に挟まれていた煙草がぽろりと青苔の上に落ちた。
もしこの青年に、自分も波流子の肌を知っていると告げたりすれば、たった今この場で殺されかねないのではないか。天城の背にひやりとした怖気が這い上がるほど、彼の迫力は凄まじかった。
天城から目を逸らせると、白水は身を揉み絞って顔面を覆い、嗚咽のような声で洩らした。
「薔薇露の真珠……あれを守るためならば僕は……」
「薔薇露の真珠?」天城がはっと顔を上げてオウム返しに問うた。「さっきも君はそう呟きながらここへやってきたな。それは確か、西域から発掘された女性のミイラが口に含んでいた真珠のことだろう」
「知っているのか」
「指の隙間から一条の光が射し洩れるような視線が天城を射た。次の瞬間、白水は天城の両肩をつかんで捉えていた。
「マルガリイタに逢ったのか」
「え?」
「彼女に逢ったのか、彼女の朽ち果ててしまった姿をあなたは見てしまったのか」
白水の指の力は驚くべき粘り強さで天城の肩を押さえ込んでいた。
「何のことだ、ミイラかね」
「ミイラ!そんな呼び方をしないでやってくれ。ああ、マルガリイタ、可哀想なマルガリイタ……」
相手の目の奥を見入ったまま狂おしく聞き慣れぬ言葉を呟き続ける。
この男、まともか。
天城はかすかな畏怖を共にうんざりした。
「真珠のことなら、先ほども大津路先生と出羽教授の間でその話題が出ていたようだが。――――痛いじゃないか、話したまえ」
「出羽教授が来ておられるのか」
猫が跳びすさるように、白水は天城を放した。
「申し訳ありませんでした、つい興奮してしまって」昂ぶりやまず、歯の根が合わない様子である。そして、小脇に抱えていた風呂敷包みを忙しげに天城に差し出した。「これを、大津路先生に渡していただけませんか。東京からの届け物です」
託すが早いか、もうきびすを返し、立ち去ろうとする白水に、天城は慌てて声をかけた。
「先生方に会わないでいいのかね」
「僕は今、出羽先生とお会いしたくないのです。後はよろしくお願いしますよ」
天城は茫然と彼の白いシャツの後ろ姿を見送った。逢魔が時が一瞬、垣間見せた幻術に玩ばれたかのような彼とのやりとりだった。いったい、白水に急激に訪れてつむじ風のように去っていってしまったものは何だったのだろう。
マルガリイタ……、薔薇露の真珠……、それらが波流子と何か関係があるのだろうか。彼の波流子への執心ぶりは普通ではない。当分、それらが波流子と何か関係があるのだろうか。彼の波流子への執心ぶりは普通ではない。当分、それらの言葉が頭の隅にこびりつきそうな予感がした。
やがて仲居の呼ばわる声が棟の方から聞こえてきた。
青蓮の章 終わり