明国へ行ってみたい。やがて奏姫はそう思うようになった。
以来、彼女は何度となくその事を祖父に願い出た。初めのうちは笑ってとりあわなかった義満も、遂には声を荒げて孫娘を叱った。年端もいかぬ娘が異国に行くなどもっての外だというのだ。
そうなのだろうか、と思いながらも奏姫はそれ以来、その事を口に出さすことをやめた。だが心の中では異郷への思いがますますつのっていくのを、彼女自身、どうすることもできなかった。

(イラスト・まもと鶴)
やがて十六歳を迎えた奏姫は鬢そぎの儀式を終え、一人前の女性として扱われるようになった。義満が久しく奏姫を北山第に招いたのはその直後であった。
豪壮な邸の一室で、既に出家して僧衣の義満はにこやかに孫娘を迎えた。
「奏姫や」
義満は細めていた目を見開いた。
「久しく会わぬうちに------ほんにこれがあの奏姫か。美しゅうなったのう」
実際、奏姫はここ数年のうちに徐々に少女の面影を捨て、持って生まれた美貌と相まって輝くばかりであった。頬のところできちんと切りそろえられた一握りの髪、鬢の髪が肩に揺れるさま、薄桃色の頬、黒目がちの瞳など、公家にもこれほど気品にあふれたあでやかな姫は居まいと思われた。
その部屋に居並ぶ武士など視線を釘付けにされたほどである。
「お爺様にもご機嫌うるわしゅう」
奏姫は敬々しく両手をそろえて一礼した。
「どうじゃ、母上はご健勝かな?」
「はい。この秋にはお爺様をお招きして紅葉狩りなぞ細川家の山荘で催したいと申しておりました」
「ふむふむ」義満は目を細めて「母上もそなたがこのように立派に生い育ち、安堵いたしておるじゃろう。まこと美しゅうなった。この上は似合いの婿殿を見つけねばのう」
「お爺々様」奏姫はきりと祖父を見返した。「奏はついぞそのようなことは考えたこともありませぬ」
その気迫に義満は一瞬たじろいだ。大抵の姫ならば、輿入れの話題を耳にすると頬を赤らめ、うつ向くであろうに、なんと気丈な孫娘か。
奏姫にしてみれば口にした通り、輿入れなどとんでもない事であった。今でさえ出歩くもままならぬ身、この上人の奥方になどなってしまえば明国どころか城下さえ目にするのも輿の小さな簾越しにしか叶わぬであろう。明国に行きたい。それが、仏門の修行でしか叶わぬなら、髪を下ろして尼になってもよいと思った。そうまで願っているのに輿入れなぞ誰が...。
奏姫がわがまま勝手に思いをめぐらせているうちに、思いもかけなかった言葉が義満の口から出た。
「時に奏姫。そなた以前から明国へ行きたいと申しておったの」
「...は」
「その気持ち、今も変わっておらぬか?」
「はい」
「それは良かった。そなた次の勘合船で、この」と義満は巻いた書状を懐から出し、「この書状を明の永楽帝さまにお届けしてはくれぬか」
「明へ行ってもよろしゅうございますのか!」
奏姫は眼を輝かせて叫んだ。
「よいとも、よいとも。昔と違い、余が取締まらせた故、倭寇も現れぬ。航海も回を重ねた故、危険は少ない。このように美しい姫が使者に立たば、永楽帝さまもお喜びになろう」
それからの奏姫は夢見心地であった。幼い頃からの夢が叶う喜びに空をも翔ぶ思いであった。どんなにか、まぶたの裏に想像した、大陸の雄大な山河、金の瓦、石畳、竜の飾りのついた玉座、巨大にして豪壮な王宮、そして長い長い城壁の向こうに広がる砂の海…それらを目のあたりに出来るのだ。
準備の日々はとぶように過ぎた。ただひとつの気がかりは細川家の北の方…奏姫の母が娘の明国行きが近づくにつれ泣き暮らしていたことである。奏姫を呼んでは本当に行かれるのか、それで良いのかよ繰り返しきくのであった。奏姫は心の痛みを感じながらもいつも笑顔で答えた。
「八潮路の彼方へ参っても、異国の地に立っても、奏はいつでも母上さまの娘でございます。母上さまの娘が永楽帝さまにお目通りするのです」
何度か嵐に見舞われ。日照りの苦しみも味わった。決して楽ではなかった航海も奏姫は立派に耐えた。その気の強さには侍女や船乗りたちも感心するほでであった。
奏姫は思っていた。自分が明国に辿り着かぬうちに船が沈む筈がないと。
その明国が、朝陽に輝いて今、奏姫を迎えている。
寧波の港は活気に満ちていた。
色々な型の船、様々な人種、それらが大陸の入り口に群れ集まっていた。
奏姫は船上から、飽きることなく港の風景を眺め続けている。正面には端の跳ね上がった明独特の朱門があり、屋根の頂点には黄金の龍がまばゆく輝いている。視線を落とせばその周囲にすさまじいほどの喧騒。明の商人や役人、浅黒い肌の南方人、頭に白い布を巻いた胡人など、実に沢山の人々が取引される品物を囲んで大声を張り上げていた。
…と、その人垣が急に左右に割れたと思うと、物々しい役人の一団があでやかな輿をかついで現れた。まさしく、奏姫の迎えの列であった。
「この度、応天府まで姫さまのお供をさせていただく警護長でございます」
海老茶色の着物を着た上品そうな役人が両手を袖に入れたまま跪き、奏姫の前で敬々しく一礼した。
「大儀です」
奏姫はうなずき、侍女や供の武士に下船の準備をさせようとした。
「お待ちください」役人は言った。「応天府へ向かわれるのは奏姫さまお一人のみ、その他誰一人としてお供はならぬとの天子さまのお言葉にございます」
一同は仰天した。
武士はいきなり立ちあがり、侍女らは「おひいさま」を繰り返して奏姫にまつわりついた。しかし、いちばん落ち着いていたのは当の奏姫であった。
「わかりました」奏姫は静かに答えた。「永楽帝さまが左様に仰せならその通りにいたしましょう」
「おひいさま!」
侍女たちは厳しい顔でかぶりを振った。
「大事ない。それより留守のあいだ、しっかり船を守っていますよう」
奏姫はにっこり笑うと、打掛をつまみ、立ち上がった。
船を下りると、まばゆいばかりの南方の陽射しである。輿のまわりには海老茶色の着物を着た役人たちと、宮中からの侍女たちがかしずいていた。彼女たちは皆、色とりどりの薄布を風にひらめかせていた。
輿に乗り込もうとしたその時である。
奏姫は背後から自分に注がれている強い視線を感じて振り向いた。役人たちが取り巻くその向こうに馬上の男があった。
豊かな顎鬚をたくわえたその男は、風になびく蓬髪の上に役人たちとは少し異なった冠を載せている。
鋭い眼に捕らえられ、奏姫の身体は硬直した。
畏怖の為ではなく、その男の存在感に圧倒されたのである。誰かに射すくめられるということを、未だかつて奏姫は知らなかった。生まれてこの方、大名の息女として多くの家臣にかしずかれ、祖父の将軍・義満や父から目に入れても痛くないという寵愛を賜っていたのである。この時の馬上の男の視線は、不愉快以外の何ものでもなかった。
しかしそれはほんの一瞬であった。
奏姫が「何者」と思った途端、男はツイと目を向そむけ、馬を動かした。

(イラスト・まもと鶴)
応天府までは十日ほどの行程である。
奏姫の乗った薄い垂れ幕のついた輿は数人の人足にかつがれ、その前後左右を馬に乗った役人がぴたりと付き添い、列の後ろには侍女たちが続いた。
…姫は気づいていた。港で見かけたあの男が馬で行きつ戻りつしながら一行についてきていることを。しかも警護の役人たちは彼とすれ違う度にかしこまり、姿勢を正している。
-------一体、あの方は…。
しかし、そんないかぶりも、たちまちのうちに押し流された。念願の明国の風景が目の前に果てしなく広がっているのである。
=====<中天@編集部作品>=====
原作・監督・総指揮・キャラクター原案 ...海道 遠(YUB)
校正・リライト・挿絵 ...まもと鶴

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