雨が小降りになった。
蒼白い光条が何本も伸びる基地の建物から、担架に乗せられたひとりの人間が運び出され、岸壁に待ち受ける小型クルーザーに搬入された。続いて乗り込もうとしたジャレツは岸壁に立つ男に声をかけた。
「世話になったな、走河。皇帝に目通りがかなったのはお前のおかげだよ」
ソガ中尉は厚い唇を歪めて照れ笑いを見せた。
「なに、あんたにゃ何度も命を助けてもらったからな」
「じゃ、達者で」
「おいおい、置いてくなよ。皇帝から勅命を受けた監視役だぜ、俺は」
「そうだったな」
クルーザーの入り口で足を止め、ジャレツは嘆息した。
「それにしても、あの旦那の唯一の聖城を突くとはな」ソガは愉快そうに肩を揺らせた。「あんたに樹魂人を持ってかれたと知った時の、あいつの顔が眼に見えるようだぜ。皇帝の名を出せば、ハエ一匹殺すことができん男だものな、戒同の旦那は」
クルーザーは三人の男を乗せると、おどろおどろしい光の閃く水平線を目指し深夜の海を走り去った。
永い永い気の遠くなるような流浪の末の邂逅である。否、今にして思えば一瞬の激情が見せた気の迷いなのかもしれない。時空を越えた深い感慨を胸に抱いて、ジャレツは今、ラズレイという男を眼前にして飽きもせずその寝顔を眺めていた。クルーザーはそろそろ夜明けを迎えようという海原を、軽快なエンジン音を轟かせて、ソガの操作で走り続けている。ジャレツは船窓の果ての黄金色の波頭を見やり、再び青年に眼を戻す。
数十年の人生を生きてきた青年は、病にやつれてはいるものの、顔立ちは行方知れずの相棒より若々しい。しかしにび色に輝くこげ茶の巻き毛、知的な印象の目鼻立ちなどは、華やかなキャスケードとは全く趣を異にした、落ち着いた容貌である。この男が自分に何をもたらすのか、また、自分がこの男にどんな影を投げかけ世に何を起こすのか、ジャレツの心に期待と恐れが渦巻く。だがラズレイはすたり存在する。はたして求めるのはこの男か、樹守コムソワスか、どちらがーーーーー。
ジャレツが何本目かの煙草に火をつけた時、病人の眼がうっすらと開けられた。
「ラズレイ」
枕もとの人間の呼びかけに、かすかにブルートパーズの眼が定まる。
「具合はどうだ。今、樹魂に向かう船の上だ。俺はハデュアに雇われた人捜しで・・・」
「ハデュア・・・・」
病人は弱弱しく反芻してから、突如脅え始めた。
「どうした」
「い、嫌だ、彼女の元へは帰りたくない」
「しっかりしろ、ラズレイ・ラズロ」
ジャレツの大きな手が病人の肩を力強く支えた。喘ぎながらその腕に頼り、改めて相手を見上げた彼の眼がはっきりと星を宿らせた。そして、こぼれ出た言葉。
「ジャレツ・・・・。樹魂の命を護り、見届けし者、ジャレツ・・・・」
その呼びかけに、ジャレツは知った。永い永い己が魂の彷徨がこの瞬間、終結したことを・・・・・。
ラズレイ・ラズロは金剛樹の聖なる枝、久遠の果実から生まれた。数十年前のことである。当時、すでにコムソワスが樹守の座に就いていたため、争いごとを好まぬ彼は万が一樹宮内でその座を巡る抗争が起きてはならぬと考え、自ら植物学者の道を選んだ。金剛樹専門の学者として、生涯を樹魂大陸の安泰に捧げることにしたのである。
やがて、ある貴族の夫妻から生後間もない女の子、ハデュアをめとり、より平穏な生活を求めて樹都を出、片田舎に居を移す。静かな年月が流れ、ハデュアは伴侶のあふれる愛情を受けて、彼に相応しい聡明な女性に成長し、ふたりは傍目にも羨望を集める夫婦になっていった。そして金剛樹の研究を極めたラズレイが大学教授の座を退き、一学生に戻るカウントダウン・エイジに達したのを機に、ふたりは故郷である樹都へ、巡礼の旅に出ることにした。ふたりの変らぬ愛を確認し、金剛樹と樹守への忠誠を改めて誓い、人生の再出発の区切りとなるはずの、そしてその後は平穏な余生を過ごすはずの旅であった。
はたして、ふたりを待ち受けていたのは病んだ金剛樹と、病んだ樹守であった。
二十数年ぶりに直に金剛樹に接したラズレイは驚きを禁じえなかった。沿岸地方ではすでに生命の果実が成熟しない事態に陥っているという。ラズレイは樹守コムソワスの厳命で奥宮に籠もり、治療に専念することになった。学者として、樹宮内の人々の祈りと期待を一身に背負うことになってしまったのだ。
だが、彼は間を置かずに悟った。金剛樹の若返りは不可能である・・・・・と。
それを告げられた樹守コムソワスは絶望感からいっそう自身の若返りを恐れ、回帰を拒否し、その裏返しに聖母候補の膨大な女性を片っ端からあさり、むさぼるようになっていった。そればかりかラズレイの身を監禁して、連日のように己が身の若返りを食い止める方法を吐かせようと責め苛んだのである。追い詰められたラズレイはやむなく、ひとつの方法を彼に告げた。次代樹守の宿る久遠の果実を食することである。
しかしそれは当然のことながら、最も重い禁忌であり、コムソワスの懊悩をさらに増大することになった。同時に彼はその浅ましい望みを知るラズレイをうとましくさえ感じ始めたのである。
そんな折、監禁されていたラズレイの元に番兵の眼を盗んで奥宮に忍びいってきたのはハデュアである。彼女は巧みにラズレイの救出を成功させる。いつの間に見つけてきたものか、金剛樹の幹の内部へと通じる小道へ夫を導き、迷路のような根の内部を辿ってついに樹都の外へ・・・・樹液の湖の畔に脱出することができたのである。
長い監禁生活でラズレイはすっかり健康を損なっていたが、安全な地に逃れてひと息つけたのもつかの間、愛妻ハデュアの態度は豹変した。彼女自ら、コムソワスの聖母になることを宣言したのである。夫が監禁されている間にコムソワスにもちかけられ、すでに身体も捧げた彼女の心にはすっかり聖母の座への名誉欲が居座っていた。
魂ごと取りすがって説得するラズレイに、あくまで反対するなら殺意も辞さないことをハデュアは言い放ち、夫を手にかけようとした。妻に裏切られ、殺されかけたラズレイは衝撃から、樹魂の男が辿る運命そのものを嫌悪し、命からがら大陸を後にした。その痛手は彼から生きる希望そのものを奪ってしまうほどの深い傷であった。
ハデュアはCROSSの誓約を破ったのである。
水平線から滲み出る光を待っていたように、豪雨に吹き散らされていた花びらがまた、降り始めた。いつしかクルーザーはエンジンを止め、波間に身を任せている。ジャレツの拳がそれ自体生き物のようにわななき震え、サイドテーブルに打ちつけられた。
「やはり、そうか。欲にまみれた毒婦が・・・・!」
仰臥したラズレイの眼が苦悩に震え、閉じられる。
「私はどこで彼女の育て方を誤ったのか、決して聖母の座などにあこがれる女ではなかったのに、清楚で伸びやかで優しかった私の娘、私の妻、私の・・・・母、ハデュア。もうあの可愛いハデュアはどこにもいない・・・・・」
「ラズレイ」ジャレツは彼にこの上ない真摯な視線を向けた。「教えてくれ、俺とあんたのなすべきことを。それは樹魂と関係があるのか?俺にはあんたの名前しか記憶にないんだ、どの前世でも」
ラズレイのブルートパーズの瞳もジャレツを捉える。
「樹魂の命のために、警告せし者、ラズレイ。護り、見届けし者ジャレツ。そして今ひとり・・・・」
「今ひとり?」
「それがどうしても思い出せない、今ひとり・・・誰が必要なのか、樹魂を救うために・・・」
ラズレイは苦しげに頭を抱え込んだがやはり答えを得ることはできないようだ。
「護り、見届けし者。この俺が」
ひと言ずつ噛みしめてみたが、ジャレツの心には戸惑いが広がっていくばかりである。
(では、俺は樹魂を護る使命のため、過去何万年にわたり彷徨い続けていたのか)
「何故、俺なんだ。樹魂人であるあんたが護るというなら判るが、ラズレイ?」
彼は絶望的にかぶりを振った。
「私には本当に樹魂を救う手立てがないんだ。何故なら樹魂は本当は衰えているのでも病んでいるのでもなく・・・・」
後の言葉を聞いていたジャレツの額にねっとりとした汗が浮かび始め、ついに彼は椅子を蹴って立ち上がった。
「それが警告せし者の警告なのか・・・・」
キャビンを覗きにきていたソガの口から、煙草が落ちたのも無理はない。沈黙に沈んだ三人の耳に波の音が甦ったのはようやくしてからだった。ジャレツは蒼い顔でソガを振り返り苦笑いを向けた。
「お聞きのとおりだ。早くも皇帝陛下との約束は果たせんことになった。俺を縛り上げて連行するか」
ソガの口元にも恐怖をごまかそうとしてか、引きつった笑いが浮かぶ。
「あんたがおとなしく捕まるわけはなし、最も避けたい事態だな。いっそ、竜蛇がそういうことなら俺もとんずらするか、竜蛇の女にも飽きてきたとこだ。邪烈、あんたみたいにいろんな大陸の女を味見できる気ままな身分もいいかもな」
「馬鹿なことを・・・・」
「白鳳、中央の女も美味しいらしいが問題の樹魂の女がとびきりっていうじゃないか」
調子づいて喋っていたソガは不意に言葉を切った。相手の眼の奥に竜蛇がとぐろを巻いて獲物を睨みすえる姿を、ありありと見てしまったからである。ソガはその時思い出した。この男にとって、樹魂の女という言葉が禁句であったことを。
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