樹都陥落―――――。その報を、カイドーは待ちわびていた。
あの豪雨が去った途端に、散り渦巻いていた花弁もまた、ひそと姿を消した。
夜明けが近い。樹都へ攻撃を仕掛けてすでに数刻を数えている。そろそろ樹守を仕留めたか捕らえたかの報があってもよさそうなものだ。現に、この対岸から眺めても樹都は一面火の海である。雨が上がった今、その勢いはまだ衰えぬ。遅い。彼は焦れていた。
「戒同殿っ」
背後でトランの声がした。
「海上の母艦から急報です!」
「読め」
双眼鏡を目元から離しもせず命じる。
「皇帝陛下からの急使であります。竜蛇本土でかねてより飛来していた花弁から発芽したと思われる植物が各地で多数繁茂。その数と眼を見張る成長速度に本土の穀倉地帯は全滅に近い打撃をこうむり―――――」
トランの若々しい声はいつもの張りを失くしてかすれ始めた。
「どうした、続けろ」
「全滅に近い打撃をこうむり、特に被害の大きい東岸地方の農村で農民が大量に身体の水分を全て失って死亡しているのが発見された。変死体は全て例の植物に巻きつかれ、一様に苦悶の表情甚だしく――――――」
トランは息をぜいぜいと喘がせ、紙面を見つめる眼は大きく見開かれてゆく。カイドーは双眼鏡の中に見える風景が眼に入らなくなっている自分に気づいた。
「陸軍を急遽、出動させ植物の除去に当たらせるも、かの植物には雑草除去剤はおろか火炎放射器でさえ効果なくわずか数時間で陸軍の一個師団を全滅・・・・・」
「全滅だと?」
カイドーは双眼鏡を放り出して仕官を振り返った。ちょうど地平線にスミレ色の光の兆しが差してきた。長い夜の闇を経て、大地はようやく目覚めようとしている。ただし昨日までと全く異なる情景、甲虫戦車に踏みにじられた無残な残骸を朝日にさらすことになろう。竜蛇軍の野営地は刻々と明るさを増してゆく。
上官を見返して硬直していたトランの視線が、肩越しに通り過ぎてゆくのにカイドーは気づいた。
「か・・・・か・・・・戒同殿・・・・・」
喉に張りつく声を出そうと、青年は焦っている。カイドーは訝しく視線の方を見やった。そして驚愕した。思わず、黒眼鏡をはねのけて凝視した。
さわさわと伸びる触手のような蔓。昨日、巨人の足に蹂躙されたかのごとく、残らず倒されていた生命の果樹の隙間という隙間から、いきなり草原にでも迷い込んだのかというくらい、地平一面に緑の新芽が伸びていた。それらの一部は、この夜じゅう停車してあった甲虫戦車や天幕の屋根に巻きつき、目に見えるような速度で侵攻していた。
侵攻。あの男がそう言っていた。樹魂の侵攻、と。
全身が総毛だった。全ての血が逆流するかと思われた。
トランが使い文を握りしめたまま、涙声で後を続ける。それは絶叫に近かった。
「すぐさま、樹魂より前面撤退を命じる。速やかに!」
青年が読み終えた瞬間、上官の身体が弾け飛んだ。首を極度に折り曲げた姿勢で、身体二つ分向こうの空間へゆっくりと弧を描き、血飛沫がそれをなぞった。
軍服にさえ施すのを忘れなかった裏地の金糸の刺繍が、今覗いた朝日に煌くのをトランは茫然と見ていた。
遠い炸裂音に覚醒を促され、ハデュアは眼を開けた。
心も身体も樹液に浸ったときのような、まろやかな感覚を帯びていた。枕元にはこげ茶の豊かな髪の娘が穏やかに見守っていて、手を握り締めている。
「気分はどう?ハデュア」
緑の葉影が額に踊っているのが判った。樹液のせせらぎが辺りに奏でられ、自分が金剛樹の内部で眠っていたことを思い出した。黒い獣に愛されたこと。この幾月か焦がれ続けた男とひと夜のCROSSを交わしたこと。そして、コムソワスを回帰させたこと。
お腹に手を当てた。やや重い手応えがあり、内部から暖かい脈動が感じられる。コムソワスは安息の場を得たのだ。
「あの人は・・・・」
ハデュアは頭を持ち上げ、ジャレツの姿を捜した。もう行ってしまったのか。コレッタが遥か上方の、竜蛇にうがたれた、巨大な洞窟の入り口ほどもある孔を指し示した。傷口は癒えることなく、なおも樹液の血を外へ流し続けている。ぽっかりと空いた空間から、夜明けの空が望まれた。薔薇色と黄金の入り混じった雲が荘厳な朝であることを告げていた。その孔のふちに小さな人影が見えた。人影は苔に覆われた金剛樹の内壁を慎重に滑り降り、底部に下り立って歩いてきた。手には遠距離用のスコープをつけた銃身の長い銃をぶら下げている。ハデュアは目覚める寸前、耳にしたとおぼしき銃声を思い出していた。
ジャレツは女の前に立った。その眼には憎しみと慈しみがない混ぜになっている。
「生命の果実が再生を始めた。竜蛇の軍は壊滅的な被害を受けるだろう」
「コムソワスが最期の力を振り絞ったのだわ。あなたのおかげよ」
「そんなことはどうでもいい!」膝をつくなり獰猛に、彼はハデュアの髪をつかんで間近に引き寄せた。「お前は一生を樹魂に縛られ、ここで生きるがいい。同時にキャスケードへの償いに、未来永劫を費やして永らえ続けるがいい。それがお前への罰だ。心して聞け。決してキャスケードを側から離すな。二度とあいつを裏切るな。もしあいつを見捨てたりすれば、俺は地の涯からでも、いや何度生まれ変わってでも舞い戻り、今度こそお前を奈落に突き落としてやる」
そして深々と最後の口づけを女に与えた。
「ジャレツ・・・・」
ハデュアが眼を開けた時、彼はすでにきびすを返して去っていこうとしていた。もう二度とは振り向かないことをその背中が物語っていた。
コレッタがかたわらに戻ってきて彼女の肩にもたれかかった。
「私も伴侶が欲しくなったわ、ハデュア」
ハデュアは娘の髪を優しく撫でた。金剛樹が頭上でせつない葉ずれの音を奏で、見えぬ手で去っていく男に愛撫しているかのように枝を揺らせた。
焦土と化した樹都にも薔薇色の朝日が差し染めた。
あさと同時に、静寂がやってきた。津波が退くように豪雨と、敵と、花びらが鎮まったのである。ボルケスは肩にバズーカ砲を担いだまま、瓦礫の下から様子を窺い、かたわらの男に声をかけた。
「様子がおかしい」
ソガは用心深く上半身を出し、樹液の湖に眼をやりながら立ち上がった。
「退却していくぞ。甲虫が兵隊を飲み込んで対岸へ発進していく。―――――あっ」
「どうした」
「昨日、あんなに踏みつけられた果樹園が緑に変っている」
「何だと」
それはこちらからでも充分判った。対岸は芽吹いた緑に覆われ、刻々とその濃さを増していくではないか。竜蛇の野営地はすでに大方それに覆われ、やっと帰りついた甲虫たちは茫然の態で立ち往生している。
「こりゃあ、いったい」
樹魂人のボルケスから見てもそれは戦慄を呼ぶ光景であった。ソガが眼を血走らせた。
「あいつらが撤退したと言うことは―――――来るぞ」
「何がだ」
「戦艦の主砲だ。今度こそ金剛樹を木っ端微塵にする気だぞ」
ボルケスはバズーカを足元に落とした。拳は握り締められ、手をこまねいて傍観するしかない己に怒り、震えている。
ソガがおい、と声をかけた。ボルケスが茫然と前方に眼をやると、ニゲラが青年を支えながら、危なげな足取りで硝煙の立ち込める中をこちらへ歩いてくるところだった。ふたりとも頭からすすをかぶったような姿だが、大きな怪我は無さそうだ。
「無事だったか、お前たち」
キャスケードの眼は、この地獄絵の中にあっても春のそよ風の中を飛翔していたが少女の眼は何か思いつめていた。
「どうした、ニゲラ」
「ボルケス。ジャレツが戻ってきたよ」
「なに、彼も無事だったか」
「彼、私に、残酷な頼みだがきいてくれって」少女のつぶらな瞳は涙に揺れていた。「キャスケードを、彼のいちばん行きたい場所にやってくれって―――――」
言い終わるなり、ニゲラはキャスケードの胸に顔を推しつけてしゃくりあげた」
「で、彼は」
「行ってしまった、走って行ってしまった」
「行ってしまった――――――?」
ボルケスはソガと顔を見合わせた。
「あいつ・・・・」ソガが眉をゆがませた。「約束を守るつもりか」
「約束?」
「ラズレイの身柄を貰い受ける代わり、全てなし終えた暁には戻る約束を皇帝と交わしたんだ」
「見上げた律儀さだな、ジャレツって男は!」
「いや――――いや―――――そうじゃない!」ソガのおもてに尋常でない色が浮かび出た。「奴は知っている。竜蛇の皇帝が侵攻には必ず自ら赴いてくることを」
一同は樹液の湖の彼方に視線を投げた。緑の香り匂いたつ大気の向こうに、日輪が昇りその光の最初の一投を寄越したところである。
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