ロンダム家の敷地は小さなオアシスの一領主のものとしては格段の広さを有していた。
何百年も昔から交易税を独占していたらしく、一族の暮らし向きはなかなか裕福なようだ。都や地方都市の貴族に負けぬほどの美術品や邸宅内部の趣味の高さがそれを物語る。
まず門をくぐり、砂漠のオアシス都市とは思えぬ豊かな緑の人工庭園を過ぎてから、やっと本館の玄関にたどりつく。
邑長の起居する本館の裏に第一夫人つまり正妻の住まいである碧水の館、以下、第二夫人から第五夫人まで紅水の館、黄水の館、銀水の館、翠水の館と連なる。
その背後はさらに深い森となっており、木立に囲まれて豪壮な蒼いタイルの建築物があった。ジャレツの問いに、オルビン老人がそれは歴代邑長の霊廟だと厳かに答えた。
ジャレツは本館の豪奢な一室で、今宵も暇を持て余していた。朝な夕なに運ばれてくる贅沢な食事を片づけることくらいしか役目は無さそうだった。湧き水の井戸の管理や村の議会に関するこまごまとした実務は、すべて、ルナシルダが執り行っているらしい。
実際、古井戸の鍵は彼女が厳重に保管していた。
奔放な生活をしてきたジャレツにとって退屈なのも苦痛だが、もっと苦痛なのは、第二夫人以下四人の奥方がひんぴんと艶美な文を送りつけてくることだ。その熱烈さと言ったら、ジャレツも赤面しかねないほどだった。気まぐれで一通は読んだが二度と封を切る気はない。奥方たちが直接、主人の閨室を訪ねることを許されていない習わしなのが、せめてもの救いだった。
ルナシルダだけは、沈黙を通している。
湧き水の衛士を使ってジャレツを連行した直後、冷徹な眼で獲物を検分して、相棒を追い払うよう命じたあの朝以来、会うことも許されないでいる。
夜が訪れた。
一度死んだ月が生まれ変わり、小舟の形となって浮かんでいる。
ジャレツはうたた寝からやおら身を起こすとその鋭い眼に光を宿らせた。うっとおしい丈の長い民族衣装を黒い革の上下に着替え、闇に紛れてベランダからそっと伝い下りた。
庭のあちこちに湧き水番と同じような、屈強な警護の男たちが配置されている。
ジャレツは黒豹のように忍びやかに庭を抜け、第一夫人の居館、壁水の館へ入り込んだ。
召使も眠り込んでいるのか、館の中は静寂そのものだ。女主がいるのかどうかさえ判らない。しかし、今夜こそジャレツはルナシルダから自分を強制的に連行した理由を聞き出す腹づもりだった。
寝室らしき二階の一室に近寄り、扉に耳を当てた。かすかな人声が聞き取れた。
「もう逢わないと言ったのに、どうしてまた来たりするの」
厳しい声はルナシルダのものだ。誰かと言い争っているらしい。
「誰のおかげで美しい姿を保っていられると思ってる?性根の腐りきった女め」
女とも、男とも聞こえる不思議な声が言う。ジャレツには聞き覚えのある声だ。
「性根が腐っているのはあなたよ、ポセイディオーン。あなたは地下湖の真珠を穢してしまったわ。昔はあんなに清廉な存在だったのに、人の欲望を叶えて魂を盗む恐ろしいものに変えてしまった」
「湧き水を手に入れるためには止むを得なかった事じゃないか。お前が裏切りさえしなければ、こんな回りくどい計画を建てなくてもよかったものを」
「・・・・・・」
「当初はルナシルダ、お前も賛成し――――――だからこそ、美を授ける真珠を飲み、この館の第一夫人におさまることができたくせに、今になってどうして裏切る?つい最近も、地下湖の仲間が湧き水番によって乱暴された」
「いくら湧き水を得るためでも、人の命や運命をおもちゃにすることはできないわ。そんなことを続けるなら、いっそ地下湖の一族など真珠と一緒に滅びてしまえばいい」
「よくもそんなことを!」
激しい殴打の音がした。打つならいくらでも打ちなさい。どんな仕打ちをされようと湧き水井戸の鍵と、あの男―――――ジャレツだけは渡さないわ。絶対に」
「ルナシルダ・・・・。愛しいルナシルダ。お前は心まで湧き水の一族に染まりきってしまったんだな」
高いトーンの声が涙に混じりしわがれ声となってゆく。
ジャレツがそっと扉の隙間から覗くと、銀の髪をした細身の少年が細い首をうなだれて部屋を後にするところだった。のろのろと手すりに足をかけ、軽業師のように軽やかに身を躍らせると、森陰へと跳躍して消えた。
後にはゴブラン織りのソファに嗚咽の波を繰り返す女がひとり、取り残された。
ジャレツが音もなく忍び寄った。
「驚いたな。あんたと真珠売りがそろって地下湖の回し者だったとは」
ルナシルダはひどく驚いてバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。あらわな目鼻立ちは麗しく、泣き顔でさえかえって美しさをひきたてこそすれ、遜色を示す材料にはなりはしない。銀の髪はあふれる湧き水のように豊かに腰の辺りまで扇状に広がっている。この麗姿から、誰が彼女の出自を見破れるというのだ。ジャレツでさえ男の本能が疼く。
「先月死んだ当主も、さてはあんたが?」
「いいえ。ポセイディオーンが一族繁栄の真珠といつわって黄泉へ旅立つ真珠を飲ませたのよ。私の目を盗んで」
言葉の端々から、彼女が亡き当主を心から愛していたことが察せられた。
ジャレツはソファの端に腰掛けた。
「邑長なんか退屈で死にそうだ。いつまで猿芝居を打たせるつもりだ?行方不明の弟だなどとでっち上げもいいところだ」
「・・・・・」
「なんだか最初から妙だった。仕事の帰り道、川はせき止められて砂漠への回り道を余儀なくさせられるわ、サンドバイクはトラブるわ、まるでこの湧き水の邑に招き寄せられるようだった」
「すべてポセイディオーンの仕業よ。あなたを手に入れるための、ね」
「俺を?」
「だから、私がここにかくまったのよ」
「わからない。何故あの真珠売りが俺に用がある?」
鼻面をしかめた。気にいらないと感じた時のジャレツのくせだ。
夜風が忍び入り、庭の黒々とした森影をざわつかせた。押し殺すような声で、ルナシルダはやっと洩らした。
「来月の満月・・・・デスムーンの期日が迫ってるの」
「デスムーン?」
「その日が地下湖の水、すべて干上がってしまう限界の日。竜蛇人種の血を持つ勇者を湖へ人身御供に差し上げ、湧き水を曳いて湖を満たさなければ地下湖の真珠貝がすべて死に絶えてしまうの。だからポセイディオーンは焦っている」
「この俺を人身御供に、だと?」
ジャレツの背中が粟だった。
「あんたは自分の種族が滅んでもかまわないというのか、ルナシルダ?」
彼女は尖ったあごで毅然とうなずいた。
「もう故郷の真珠はポセイディオーンの血まみれの手で汚れてしまった。滅んだ方がいいのだわ」
「どういうことだ?」
「あなたをポセイディオーンの手にわたせばデスムーンの夜に、真珠を飲んだ人々に恐ろしいことが起こるわ」
意味ありげなルナシルダの言葉が闇に溶けた後、ぞっとするような沈黙がふたりを包んだ。
「何故、俺なんだ」
ジャレツは呻いた。
「気をつけて、ジャレツ。どんなにポセイディオーンが甘い言葉でもって近づこうと、どんなに泣き所を突かれ脅迫されようと、決して彼の手に落ちては駄目」
「俺の泣き所――――――」
思いあたる泣き所といえば、キャスケードの存在以外考えられない。あいつの欲しがっていた大金を与えたことだし、今頃はとっくにこの邑をおさらばしていることだろう。とすれば、ジャレツに弱みはなかった。この邑の神秘に満ちた災いを解き明かしたい気持ちを抑えられない。
雲が月の面をよぎったのか、光が陰った。とたんに美女は身をよじり両手で顔を覆った。
「見、見ないでジャレツ。私の本当の顔を」
ジャレツは茫然と闇の中で立ちつくした。
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